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ガラスの耐熱容器を一つ、冷蔵庫から取り出した。ほんのりと赤みの差したプリンが光沢を放っている。小皿に載せ、スプーンを添えて、芳樹の部屋のドアに向かい、話し声が聞こえてこないことを確認してからノックした。
「ああ」
かすれていても、返事は返事だ。芳樹は黒いウールの部屋着姿で机に突っ伏していた。机の幅いっぱいを占めるパソコンのモニターにはウインドウが三つばかり映り、全体的に青白い光を放ち、芳樹へと降り注がれていた。
「プリン持ってきたよ」
里紗は芳樹の机に歩み寄った。夜食のおにぎりのラップが机の端に追いやられているのを見つけて、里紗はプリンを置くついでにそれをつまみ、手の中でくるりとまとめた。
「撮影は終わった?」
「まだ途中。オチまでの流れ、考えないと」
プリンを手に取りながら芳樹がぼやいた。欠片を口に運んで、先ほどよりやわらかな声でうめく。言葉にせずとも美味しさは伝わってくる。里紗は満足する。プリンは甘くて美味しい、芳樹の好物だ。これを出せば彼の気持ちは安らぐ。十年前に出会ったときから、その点は変わらない。
里紗は芳樹の肩の膨らみをそっとなでた。芳樹は起き上がり、iPhoneに手を伸ばした。カメラは自撮りモードのまま、芳樹を映している。iPhoneが捉えている映像はパソコン上にも共有されていた。iPhoneの画面にある赤いボタンを押せば録画は再開される。自分を素材にして、映画解説の動画を作る。そんな芳樹の趣味の活動がこの半年の間続いていた。
芳樹が利用している動画投稿サイトでは、同じ投稿者の動画群を指してチャンネルと呼ぶ。チャンネルごとのテーマを定めて公開する人も多く、ごく少数だがその動画に付随する広告料で収益を上げ、生計を立てている人もいる。芳樹が動画投稿をしたいと言ったとき、里紗はこの収益が目的なのかなと思った。何も生計を立てるまでいかなくとも、広告料を目的に副業としてチャンネルを開設する人は、里紗の知り合いにも何人かいた。収益化しないと聞いてまず驚き、そのチャンネルのテーマが映画と聞いてさらに驚いた。芳樹が自分からまた映画に関わりたいと言い出すとは思っていなかったのだ。
芳樹はかつて、映画が好きだった。子どもの頃からDVDを見て育ってきていたと語り、里紗を誘って当時の住まいや街中の映画館で鑑賞に誘った。映画研究会に所属し、いつかは自分の映画を制作したいと夢を語っていた。その熱意もあって、映像制作の会社に勤め始めた。その会社を半年で辞めてしまってからは、映画はお互いの禁句になっていた。
「好きなことを仕事にするものじゃないんだよ」
辞めてすぐの頃に芳樹は言っていた。何があったのか、里紗も全ては聞いていない。映画から距離を置こうという芳樹の意思だけははっきりと感じられた。その意思の影響あるいは反動なのか、今の芳樹の作っている動画が昨今の映画に対する評価であり、その評価が軒並み著しく低く、毒舌をもって語られていていた。
「また食べたくなったら遠慮なく言ってね。いつでも作ってあげるから」
芳樹が食べ終えたプリンの小皿を持って、里紗は言った。お決まりのセリフだ。芳樹からリクエストされることはほとんどなかった。大抵は里紗が折を見てプリンをいくつか作る。その一つを芳樹に分け与えている。余りは職場に配っていた。
ドアを閉める直前に見た芳樹は、パソコンの青白い光に上半身を包まれていた。その光は強く、均質的だ。そのまま彼が覆い隠されてしまいそうな気にさせる。芳樹を気遣う言葉は喉元までせり上がるが、具体的な形にはならないままだった。
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