第3話

 中井弘の四十九日法要は一貫して娘婿である原が取り纏めた。続柄から謂えば父詠介か嫡男龍太郎が相応しいはずだが、前述の二人では余りに心許ない、と考えられた為である。原は中井にとっては義理の息子だが、年齢は父息子程離れてもおらず気の置けない友人の様な間柄でもあった。

 さて、原が音頭を取った満中陰であるが、可も無く不可も無く只々平平凡凡と、世に謂う平民宰相の名に相応しい凡庸さで粛々と幕を閉じる。此の法要には中井第一の知己、旧土佐藩出身の後藤象二郎伯爵も参列し、涙を流し乍ら中井を弔った。──後藤は廣島へ向かう前に横山邸へ立ち寄り、中井へ看病すると約束していた。然し廣島から戻れば嘗ての友は不帰の客、約束は遂に果たされず悲しみもひとしおだったのである。後藤伯は板垣伯•佐々木侯と並び土佐の三伯に列せられる維新の功労者で、長生きしていれば尚大成したであろう立派な人物である。政党内閣の実現に尽力した民権家で、彼の大同団結運動の指導者でもある。縄手事件ことパークス遭難事件の折中井と共に暴漢を降した英傑で、其の功労を認められ英国女王から宝剣を賜っている。此の年は次官の不祥事に因る責任を負い大臣を辞したが、壮健さは少しも衰えていなかった。

 法要が終わると後藤は詠太郎・龍太郎其々に声を掛け会食へ誘う。中井の墓所は薩摩藩の菩提寺、洛南伏見の東福寺にあり、近辺の牛鍋屋、伏見いろはへ三人連れ立って赴いた。牛鍋は維新後に生まれたハイカラ料理で、外食産業に於いては文明開花の象徴と謂えた。上方の牛鍋は関東と異なり先ずは肉を鍋で焼く。手順も些か面倒で鍋奉行のような世話役を必要とした。──然し何分此の面子である。座敷に通されるなり親分肌の後藤がチャッチャと音頭を取り始め、青年二人は容易に手を出す事敵わなかった。

「……後藤小父さん、上方の牛鍋の作法をご存知ですか?……おや失敬、ご存知なら良いんです。でもね、此れは流石に焼き過ぎかと思いますよ。ほら、黒焦げで箸が通らない」

 茶碗の肉をぞんざいに突つき乍ら、憎まれ口を叩く龍太郎──慌てた詠太郎が直ぐに件の問題児を叱責する。

「龍太郎!後藤伯のご厚意に対して無礼だぞ、口を慎みなさい!」

 歳上とは謂え龍太郎は詠太郎の甥にあたる。更には宗家と庶家の関係である。此の場に龍太郎が同席する事は、詠太郎にとっては正に恥でしか無かった。叱責を受けても悪びれない様子を見て、詠太郎は益々其の苛立ちを募らせていく。

「あぁ、すまんね。確かに龍太郎君の言う通り、焼き過ぎやったかもしれん。どうも生肉が苦手で、念入りに焼いてしまうものやき……」

 後藤程の大人物にもなれば、書生如きに嫌味を言われたくらいで気分を害す事も無い。寧ろ後藤本人が龍太郎以上の問題児を嫡子に抱えている為、この手の不良には幾分耐性があった。ニコニコと機嫌良く香味を取り分け、龍太郎の顔をじっと見詰める。

「龍太郎君は、話し方やら雰囲気やら、げに幸介(註 中井の変名)と似とるき、こうして見ると、あいつが未だ生きちゅうみたいじゃな……」

「そおですか」

 不意の落涙に目元を拭う後藤──対する龍太郎はさも如何でも良さげな態度で茶碗の中身をかき込んでいる。

「君らは、書や漢詩はやるのか?幸介はそれにかけては正に大家やったぞ。金の無い内は書を売って生計を立てたくらいやきな。一等の傑作なら百圓を払うてでも欲しいくらいだ」

「僭越ながら……書は尊円流皆伝、漢籍も修め漢詩は桜州とまではいきませんが、父共々好き勝手に詠んでいます。偶にですが友人に頼まれ機関紙の代筆などもしていますよ」

 後藤の振りにすかさず詠太郎が名乗りを上げる。謙遜した物言いだが、幼い頃から手習いに励んだ詠太郎には人に誇れるだけの矜持があった。

「おぉ、流石だな詠太郎君。君はかなりの知恵者で成績優秀だと幸介からもよう聞かされちゅうぜよ」

「……えっ」

 後藤の一言で詠太郎はさっと頬を赤らめる。大人物に認められたのも嬉しいが、敬愛する兄からの賞賛には何より充足感を覚えた。一方で、ちびちびと酒を啜る龍太郎は一向に話に乗ってこない。 

「龍太郎君、君の方はどうなんだ?」

「どうって事はないですよ。生憎教養が無いもので」

「……?」

 詠太郎は訝しく思い首を傾げた。龍太郎の筆は何度も目にした事があるが、桜州譲りで実に上手い。大得意に自慢が始まるかと思いきや其の様な様子も無かった。

「そんな事より後藤小父さん、お酒は如何です?酌をしますよ、ご馳走になっているんで」

「あぁ、ええき。そがな気を遣わいでも。儂ゃ酒は飲まんのじゃ。こがな体をしちゅうけどね。近頃は体の調子も悪いき」

 喪服の上からでも分かるふくよかな体型──其の膨らんだ腹をポン、と叩いて後藤が笑う。

「それよりもだ。儂は君らの今後を心配しゆうき。何か定職に就く予定は無いがか?……いや、幸介と儂は血の繋がらん兄弟も同然やき、その兄弟の家の子らは甥のようなものだ。儂に出来る事があればなるべく協力しちゃりたいんじゃ。これは持論なんやけどな、男なら立身出世を目指すべき思うがじゃ。何も成さん人生は死んじゅうのと同じ。社会の為、日本国の為、人の役に立つ事をせんといかんぜよ。幸介も太平楽な男のようで、その実しっかりしちょった。勉学にかけては右に出る者はおらざった。公家連中の扱いに長けちゅうき、伊藤井上に知事の席を押し付けられたのだ。京の都は老獪な古狸が余りに多い。弁の立つ知恵者でないと必ず面倒ごとになるきな。隠遁しちょった幸介に白羽の矢が立ち、無理が祟って早うに死んだ……。然しそれも天命、男たるもの大事の前には命を投げ出す覚悟が必要だ。あいつも本懐やったろう。……さぁ、ところでだ。君ら若者は此れから一体何を目指す?」

──長台詞の後に若者二人を見据え、後藤は先の答申を促す。良く見れば手元の茶碗には一度も箸を付けていない。詠太郎は後藤の眼光に一寸気を呑まれるも、直ぐに武者震いをはじめる──

「……僕は、外務省へ出仕したいと思います……。兄上の最期は府知事でしたが、真に得意とするのは折衝、即ち外交でした。脱藩浪士の身でありながら西洋を視察し、外交官で大事を為した。横山家を再興して下さったのも、判事時代の成功があったからです。僕は兄上と同じ景色が見たい。同じ場所へ立ち、同じ物を見聞きし、同じ思いを抱き、そしていつか……兄上を越えたい……!」

 逸る気持ちを抑えられず、詠太郎は雄々しく立ち上がっていた。言い終えると同時に正気へ戻り、これではまるでエセ民権論者の演説のようだと急に気恥ずかしくもなったが、後藤なら理解してくれるのでは、という期待が上回っていた。赤ら顔のまま後藤を見れば、承知したと言わんばかりに力強く頷いている。

「成程、よう言うたな。外務省は中井の娘婿原敬がおるき君も立ち回りやすいはずだ。君らの親戚の井上が外務省には顔が効く。ひとつこの儂からも頼んでおこう。……さて、龍太郎君は?」

 後藤程の大人物による名指しの問い掛けに対しても、龍太郎は不遜な態度を崩さない。肩を聳やかし不敵に笑みを浮かべている。

「そうですねぇ、相続をし終えたら中井の名を捨て新天地へでも行きますか。遊学でも良いし隠遁生活も悪く無いかもしれない。浪人暮らしが性に合っているんでね。……あぁ、こちらご馳走様でした。良く煮えていて美味しかったですよ」

 空の茶碗へ一膳の箸が添えられる。するとそれきり龍太郎は口を閉じ、木格子窓の隙間から外の景色を眺めているようだった。無礼千万な態度に流石の後藤も唖然としたが、直ぐに気を取り直し詠太郎へ牛鍋を勧める。──そして殆どを後藤と詠太郎とで平らげた。

「……あの、井上伯爵の事なのですが、ひとつお伺いしたい事が御座います」

 茶給仕の来る前に詠太郎がまず切り出す。

「なんだ?」

「はい、井上伯が先日御幸橋の屋敷へ来られたのですが、兄の遺品を検めている最中急に様子がおかしくなり、『狐憑きだ』と叫んでおられたのです。兄がまるで狐に憑かれていたかのような、そんな言いぶりでしたので、僕も気が動転してしまい、その場で聞けば良かったのですが気が回らず……。狐憑きとは一体どういう事なのでしょう?僕はそのような変異を兄に感じた事はありません。後藤伯はこの件について何かご存知ですか?」

 詠太郎からの思わぬ問い掛けに、後藤は腕を組み暫し熟考する。

「……いや、儂も覚えが無いな。幸介は確かに一風変わった男だが、それも変わり者の範疇を出ず、儂の知る限りでは狐憑きの話などは一度も無かった。……そういえば御一新の前に幸介が洛の土佐藩邸へ出入りしちょった頃は、邸内の土佐稲荷へ坂本と共に参ってはいたな。あの頃洛の土佐藩士は皆土佐稲荷を拝んでいたし、儂自身も難除けの御利益に預かった口で、その縁で東京の家に稲荷社を建てたのだ。……然し土佐藩士でも無い幸介のような変わり者が稲荷信仰か、と不思議に思うたものだが、稲荷神は宗徒の質を選ばんというから、坂本はごく若い内に母堂を亡くし、幸介も幼年期に母と離別しちゅう。随分寂しい思いをしたと聞いとるき、それで二人は気が合うて稲荷参りをしちょったのかもしれんな」

──ダン!と鈍い音が鳴り、後藤と詠太郎は揃ってそちらへ目線を向ける。音の主は龍太郎で、固く握り締めた拳を食台へ打ち付けているようだった。

「……龍太郎、何なんだ。後藤伯の前で無礼だぞ」

「あぁ、良い良い。……然し思い起こせば確かに不思議な事もあった。ありゃあそう……そうだ、縄手事件の時か。エゲレス公使パークス殿とその御一行に東山の華頂山知恩院へ宿泊して貰い、我らの手引きで帝の御座す御所へ案内しよった時の事だ。幸介が死に物狂いで暴漢朱雀操を切り捨て護衛の面目を保ったけんど、報賽として知恩院へ参ったがじゃった。其の時幸介は、本堂より寧ろ濡髪祠へ長々と礼をしよったな。……いや、知恩院は法然上人が開いた浄土宗の総本山だ。然し濡髪大明神は只の鎮守神に過ぎない。御礼参りをするような神でも無いと思うけんど。濡髪某の正体は狐だと講釈を受けた記憶をしちゅうが……ううむ」

 昔話や座談の類いを苦手とする後藤だが、詠太郎の助けになればとあれやそれや記憶を手繰る。──然し目ぼしい物は見当たらず、遂には肩を落として湯呑みの茶を啜り始めるのだった。暫し逡巡した後に詠太郎が口を開く──

「……後藤伯、此れは僕の考えですが、故郷鹿児島には島津家ゆかりの稲荷があります。兄は鹿児島に居た頃から稲荷神を信仰し、其の縁があって各所の御宮へ参った時も狐神へ祈るのでは無いでしょうか?然しどうにも『狐憑き』へ繋がりません。……従って井上伯はあの時、神経病と断じるのを憚り『狐憑き』と言ったのではないでしょうか。僕自身は兄の事を正気であったと理解していますが、他人から変人奇人と見られる事も屡々有り、奇行を繰り返したのは神経病に因るものだと井上伯は考えられた、……此れが一番しっくり来ます」

 詠太郎はふと遺品の仏画を脳裏に思い浮かべた。曼荼羅を掲げ祈祷する姿など、井上の抱く中井像へはそぐわないのだろう。数々の奇行に因る疑いが仏画を以て確信へ変わり、遂に神経病と断じた。──と、このように考えた。すると黙って問答を聞いていた龍太郎が含み笑いを始める。

「……ふふ、神経病?何かの間違いでは?病のせいなどにされては困る。あれは只の人格破綻者、横山の爺様から継がれた忌み子の資性なのだと思いますよ」

「ッ聞き捨てならんぞ、龍太郎!」

 余りの暴言に堪り兼ね、遂に詠太郎の怒髪が天を衝く。喪服の襟ぐりを掴みその場へ立たせれば、悪びれない様子の龍太郎が不敵に笑う──

「何だ?殴る気か?庶家で甥だからと下手に出てやったが、僕はおまえの年長者だぞ。父は正三位、家格だって大分上、本来なら中井が宗家を称すべきなのだ。おまえは桜州を盲信する余り、周りが何も見えていないな。外務省へ出仕?……笑止。詩吟に耽る青二才が何様だと思っているのだ?身の程を弁えろと言うんだよ」

「何を……!」

「あ〜、こらこら、止めや二人共。龍太郎、おんしゃ口がわりぃ、詠太郎おんしゃあ感情的になりすぎる。同じ一門ながやき、穏便に仲良くしちょき……」

 事の成り行きを黙って見ていた後藤だったが、詠太郎が殴りかかった所で待ったを掛ける。漸く解放された龍太郎が、喪服の襟を正し乍ら続け様此の様に──

「僕の方は全く其のつもりですよ。氏が違えど我らは藤原の源流を汲む由緒正しき血族の同胞だ。……なぁ、詠太郎叔父さん?」

 煽り口調が癪に触り、詠太郎は未だ何か言いたげだった。然し後藤に遠慮し此の場は大人しく引き下がる。

「……折角お誘い頂いた席でとんだ失礼を。どうかお許し下さい、後藤伯」


──此のように詠太郎と龍太郎は、陰陽を体現したかのように真逆の質をしていた。

 対面に座る後藤からは其々の特徴が良く見て取れる。一連の遣り取りを眺め乍ら笑ってはいたが、内心はさぞ気を揉んだ事だろう。

「あぁ、気にしのうても良い。儂と君らの仲だ。……然し狐憑きか。此れはちっくと難しい話になったな。何故なら狐憑きの類いは人により大分思う事が違うき、あやかしの仕業と考える者、いやいや神経症の一種だと主張する者、そうじゃ無い神の使いだ、とゆう者までおる始末。儂もどうも一つに断言は出来ん。けんど然しだな、狐憑きのような迷信を病理的に排斥する動きが中央にあると聞く……こりゃ知り合いの医者の受け売りけんど。迷信などは開明の妨げになるからな。徳川までの慣習は今後の政策により淘汰されるろう。藩は土地と民を朝廷へ還し、武士や公家はその禄を奪われ、神仏は……。欧州の文明は何もかもが極めて合理的で、民の考えもずっと先を行っちゅう。ほりゃ無駄な迷信や慣習を排斥した結果やきが、これに倣えば日本は必ず強国になるろう。……というのが中央の考えだ。儂の考えはまた別にある。君らも知っての通り、我が国は今李氏朝鮮を助け山縣率いる第一軍を遼東半島へ差し向けちゅう。亜細亜の情勢を欧州列強共が遠巻きに眺めちゅうぞ。如何にして利権を得ようかと、蛇のように舌舐めずりをしながら……。時代は最早、華厳の如き大瀑布の様相を示しちゅう。濁流に飲まれぬよう、流れを見極めながら進みなさい、そしていつか大事を成すんだ。幸介もそう望んじゅうはずだ……」


 後藤と若者二人は会食後牛鍋屋の前で別れたが、此れが今生の別れとなった。


──後藤象二郎、中井弘の死から三年と経たない明治三十年八月四日、心臓の病により薨去。享年六十、正二位勲一等伯爵。大政奉還へ心血を注ぎ盟友・板垣退助伯爵と肩を並べ自由民権運動を牽引した快男児は、惜しまれながら此の世を去った。

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