酔生夢死

日和見

第1話

 中井弘という男は実に不思議なもので、市井へ問えば各々違った答えが返ってくるのが常だ。或る者は元勲と云うし、また或る者は滑稽家と応える。高名な書家と思う者もあったろう。兎角世俗から離れて無爵を通し、権威よ糞くらへと唾を吐いては超然と生き、そして桜の如く散っていった。昭和の今も風流人としての名が先行し、桜州山人で名が通る。然し実際の所はどうか。中井弘は決して無爵でもなければ反政府主義の奇人などではない。寧ろ熱心な勤皇の徒であり治世に骨の髄まで捧げた実に勤勉な男だった。中井の任じられた錦鶏間祗候とは元首相・若槻禮次郎と同じく高級官吏を特別に優遇する為の名誉職であり其の待遇は伯爵より上に相当する。詰まりは中級華族といって差し支えが無い。噺家や講談師が吹聴して回る逸話の殆どは奇行家であれ傑物であれと謂う市井の邪な望みを託された謂わば虚像に過ぎない。その証拠に見よ、中井は京都府知事在任期間中に卒中を起こし五十七という若さで世を去ったではないか。中井の危篤を聞きつけ政府は急ぎ正三位勲二等に叙した。山縣総理は『君去って長安空し』とその死を惜しんだと云う。


──中井弘、旧名横山休之進は、天保九年十一月二十九日薩摩藩鹿児島城下高見馬場に薩摩藩士・横山休左衛門(後の詠介・詠助とも)の長男として生を受ける。幼い時分に母と生き別れ、十六にして関所を破り、以降十年以上脱藩の罪で苦労する事となる。薩摩出身でありながら大政奉還時には土佐、維新後は長州閥を渡り歩き御一新の肩書きは宇和島藩士という稀に見る周旋家だった。坂本龍馬の知遇を得、慶応に英国留学を果たし、外国事務各国公使応接掛、滋賀県令、京都府知事等要職を歴任する。明治天皇にその人柄を愛され、英国女王からは厚い信任を受け、元勲の歴々と竹馬も斯くやの交際をし、金や名誉に固執せず清廉なまま散っていった桜州山人。

 然し、昭和も十と幾つか過ぎれば、彼の人も最早過去の人物なのである。時代は歯止めの効かぬ大車輪の如く道なき道を突き進んで居る。前時代を築いた英雄が、その轍に消えてゆくには余りに惜しい。昭和と謂う黄金期に至るまで筆舌に尽くしがたい苦労をした、中井弘という男が居た事を、我々は決して忘れるべきではない。

 此れは謂わば備忘録にも近い。私は私の知る真実を此の小説へ記そうと思う。


田中休藏 拝


◆◆◆


明治あやかしぎつね始末記


 明治二十七年十月十日、桜州山人こと現職の京都府知事・中井弘が不帰の客となる。享年五十七歳、桜州の名に相応しく花のように潔い散り様であった。


──同十月某日 京都御幸橋際(註・現在の荒神橋にあたる)横山邸


 燻煙の立ち込める仏間に控えめなリンの音が響く──神妙な面持ちで手を合わせていた男が振り返り、矢庭に言葉を発した。

「惜しい男を亡くした」

 其れは独り言にも近く、声を掛けられた青年── 詠太郎は二、三目を瞬きハイとだけ返事を返す。詠太郎の肩を叩き、弔問客──井上馨は悲しげに瞼を伏せた。

「儂と中井とは気の置けぬ友人同士でな。あれの若い頃は随分手を焼いたものだ。無茶をする男じゃったが、よもやこねいな若さで早逝するとは……」

 言葉尻が濡れ皺だらけの顔がくしゃりと歪む。井上侯(この当時は伯であった)は長州閥の重鎮で維新の元勲である。情に厚いが癇癪持ちで、内田山の雷親父と云えばこの男を指した。家格は毛並みの良い士分の出で、上等の黒羽織にいづつ油で七三に整えた頭髪が如何にも華族然としている。が、幕末の動乱の最中斬られた刀傷がケロイドとして顔面に浮き、ある種奇怪な心証を見る者に与えた。例に漏れず詠太郎も井上の傷が気になるようで、彼の男が言葉を発する度に傷が引き攣るものだから、青年の目はそこへばかり釘付けになっていた。──話が前後するが、件の青年詠太郎とは中井の腹違いの弟・横山詠太郎である。明治三年に回春を果たした中井の実父が後妻との間にもうけた子で、明治二十七年当時は齢二十と幾ばくかになったばかりであった。中井は自身で興した中井の家名に拘りが無い。宗家である横山家の再興を第一に立ち回り、生前故郷薩摩、更には此処京都御幸橋際へ時価数千圓にもなる横山御殿を構え、父とその長子である詠太郎に此れを与え自身の居宅ともしている。

「この度の不幸には儂もめっきり参ってしまって、内務大臣を辞したのも少しは中井の事がある。其れはまぁ、朝鮮の事情が最たる理由だが……。中井の容態を受け急ぎベルツを向かわせたが間に合わなんだ、もっと早くに策を講じて居れば……」

──去る十月十五日、広島大本営に開かれた帝国議会で井上は渡韓の勅命を受けている。仁川へ向かう前に往年の友人を弔うべく、西京を訪れたと云う経緯があった。井上はまた全権公使の責務を全うする為内務大臣を辞している。天皇が遷座した事で首都の名目は一時的に東京から広島へ移行したが、挿げ替えられのはその肩書きばかりでは無い。議事堂までもが広島へ移り政治家も小役人も我先にと広島へ向かった。斯く謂う中井自身も病に倒れる直前までは彼の地へ向かう気で居たのである。

 ベルツとは所謂お雇い外国人、独逸帝国から招聘されていたエルヴィン・フォン・ベルツ博士である。当時は東京帝国大学で教鞭を振るう医師だったが、頼まれれば政府の要人の訪問医などもこなしていた。中井が脳の病で倒れたのが十月二日、ベルツの入洛が同五日である事を鑑みれば井上の判断に間違いは無いはずだが、兎角中井を死なせたという呵責がこの世話焼き男の心身を苛んでいたのである。

「……お養父様?」

 不意に詠太郎が振り向くと、部屋の外には中井の長女・原貞子が洋装姿の出立ちで佇んでいた。

「貞子!」

 直ぐに井上が駆け寄り貞子の手を取る。──貞子は明治二年生まれの中井の長女であり、詠太郎からすると歳上の姪にあたる。しかし件の令嬢は同時に井上伯爵家の養女でもあった。中井はその生涯に数々の浮名を流し、妻や妾も一人や二人に留まらない。実子の数は片手をゆうに超え、其の内の一人である貞子は故あって長い間井上に養育されていた。

「失礼します」

 後方から外務省通商局長・原敬(後の内閣総理大臣であるがこの時は数多いる官吏の一人であった)が現れ井上へ向かい恭しく頭を下げる。

「閣下。すみません、このような煙たい場所で」

 原は懐から扇子を取り出すと煩わし気に仰ぎ、次いで庭先へ視線を滑らせる。其処には襷掛け姿の小間使いが居り、忙しなく遺品を燃している最中だった。

「気にするな、竈焚き趣味の爺はこの程度の煙は慣れておる」

 井上は歯を見せて笑い原へ焼香をすすめる。原は有能な部下であり義理の息子であり気の置けぬ同志の一人でもあった。その好意がこれ見よがしに態度に現れている。──詠太郎にしてみれば良い気分では無い。屋敷に充満する煙は前述の通り中井の遺した大量の書簡と煙草箱とを焼却している為で、遺品整理の一環に過ぎない。それも松方らが勝手に決めた事で決して詠太郎の意思によるものではない。焼却の運命にある書簡の中から如何にか傑作を探り当て、既刊分と併せ中井の著として出版する運びとなるのは中井の死から実に二年が経過してからの事であった。──『桜洲山人遺稿』が此れである。

 妻・貞子とは対照的に紋付袴姿の原が仏壇に向かい手を合わせる。詠太郎はその背中を胡乱げに眺め、心中悪態づく。

(この家の当主は父上、そして兄上の正当な後継者は僕だ。それなのに原さんは我が物顔で、当然の如く喪主のような態度で居る。貞子さんだってそうだ。少しばかり早生まれだからか、それとも伯爵家の令嬢だからか我儘ばかり。まるで叔父である僕をしもべか何かのように思っているのではないか。二人共苦手だ……)

 詠太郎の苛立ちは尤もで、生前中井が横山家を第一に考えていたのにも関わらず、松方総理を筆頭に中井の親族や関係者はこぞって中井の長子を相続人に推している。没落した家格の横山家よりも、勲功のある中井家を立てるべきとの判断と予想されるが、皮肉にも父の為に建築し中井終の住み処となった此処御幸橋端の居宅も、横山家ではなく中井家に相続されるという。

「煙が凄いな、これじゃあ屋敷が痛んでしまわないかい」

 ハッとして詠太郎は顔を上げた。長廊下の向こうから無垢の床材を軋ませ迫る足音がある。

「そのせいで価値が下がったら困りますよねぇ、詠太郎叔父さん」

 中井譲りの小柄な体躯に横流しの髪を搔き上げ、書生風の青年が現れる。貞子の兄弟にして現中井家当主・中井龍太郎その人であった。龍太郎の登場に動じるでもなく、原は彼の若い当主に焼香を薦める。──松方らが決めた中井の後継者ではあるが、世話役は原へ一任されていた。中井の実子かつ井上の養女である貞子を妻に持つ原は、その立ち回りだけを見れば義理とはいえ中井・井上両名の後継者といっても差し支えがない。血脈や出自に目を瞑れば中井の後事談義にその名が挙がって然るべき人物だった。──しかし松方らは中井龍太郎が適当であると判断し、原をその世話役に据える。横山家は端から頭数には入れられていまい。詠太郎からすると龍太郎は歳上の甥にあたるが、その放蕩振りには中井も頭を悩ませていた。素行の悪さを見兼ね勘当したくらいであるから、生前の中井が後事談義の顛末を聞けば、まず首を縦には振らなかっただろう。

 並んで手を合わせる原と龍太郎を眺め、貞子は大きな溜息を吐く。──実父の死に際しても元勲の令嬢が蚊帳の外に置かれているのだから前時代の女というものは実に不憫な性である。

「身体は平気か、貞子。辛いようなら外へ行くと良い」

──貞子の様子に気づいた井上が、声を顰めて機嫌を伺う。

「え?……。心配などはご無用ですわ、けれどこの煙が肺に悪いのでこれにて失礼します!」

 貞子は一瞬だけ複雑な表情を浮かべると、直ぐに踵を返し仏間を離れる。如何にも気位の高い台詞を吐き捨て──棘のある言い方だと感じた詠太郎は又も不快な気分になったが、井上だけがいつまでもその背中を見送っていた。

──さて、この貞子について僅かの講釈を入れさせて頂こう。井上が気遣った通り、原貞子は生来身体が弱く其の人生は病に翻弄されたものとなった。中井は前妻との間に貞子をもうけたが、故あって一時貞子を手放している。手放された貞子を井上が引取り、二人掛かりで面倒を見ているような奇妙な養育環境にあった。前妻・後妻は明治二十七年当時には既に鬼籍に入っている。

 貞子の夫で中井・井上の両名を岳父に持つ原敬は薩長の藩閥外、更には戊辰の役で所謂賊軍、奥羽越列藩同盟にあった盛岡藩出身である。にも関わらず原は後年政友会を台頭し総理と成る。──実は原は伊藤総理の如く入念な地固めを得意としていた。中井に見出されたかと思えば井上へ取り入り、外務省で要職に就いたが明治十六年に天津領事を拝命した際、独身では何かと不都合だ、という『計らい』により原と貞子(当時二十七歳と十四歳)は半ば政略結婚じみた形で婚姻関係を結んでいる。このような経緯が後に悲劇を生む事になるのだが──。

「詠太郎叔父さん、これは?」

 龍太郎が仏間の一点を指差している。其処にあるのは無造作に放られたままの数箱の櫃だった。

「兄上の遺品だよ。価値のある物だと思うけど、まだ手をつけて居なくてね」

 箱の中身は詠太郎からすればがらくたとも骨董品とも判別つき難いものばかりであった。それらの殆どは中井が友人から拝借した値打ち物の名品だったが、詠太郎にはそこまで考えが及ばない。中井が趣味で収集した物か贈答品だろうと考えていた。井上が耳聡く青年二人の会話を聞きつけ、そそくさと櫃の中身を検める。

「中井には幾つも借しがある。あやつは儂の獺虎の敷物を奪い、談判に持ち寄った金剛石の指輪をも持ち去った。他にも諸々奪われたが、未だにひとつも返って来ない。……何、盗まれた物を返せというケチな事を言っているのでは無いぞ。此れは謂わば形見分け、無二の友人であり肉親同然にも思っていたのだ。中井の物を儂も手元へ置いておきたい……」

 尤もな台詞を並べるが要は中井の窃盗癖と変わらない。中井の私物(元は中井の友人の私物である)の中で上等な物があれば拝借しようという腹づもりなのだ。数寄者で鳴らす井上は骨董品の類には特に目が無かった。

「井上小父さん、形見分けは良いけれど何れか一つにして下さいよ。もし値打ち物なら供養代の足しにしたいのだから」

 龍太郎が冗談とも本音とも付かぬような声色で宣う。流石に原が見咎め龍太郎を叱責した。

「これ龍太郎、閣下へ向かってそんな口の聞き方は無いだろう」

「あぁ、良い良い。龍太郎は中井の若い頃に生写しじゃ。この口が悪いのも愛嬌のひとつと思えば然程気にもならん……」

 ──この時詠太郎は心中穏やかならざる物を感じていた。中井を知る者は、皆こぞって『龍太郎は中井の生写し』だと云う。それはまるで自身の存在を否定されるかのような心証を詠太郎へ与えるのだ。中井と詠太郎は親子程歳が離れているとはいえ実際は兄弟という間柄、中井の気性や諸々が詠太郎へ遺伝する事はまず無い。それは当然と云えば当然なのだが中井を第二の父のように慕う詠太郎には口惜しくもあった。放蕩者ばかり遺した中井家と異なり、詠太郎は真面目一徹で中井、更には後述の詠介の気質とは似ても似つかない。己の因果を疎ましく感じていた中井には殊更愛された。詠太郎自身も中井の後継ぎは自分こそが相応しいと考えていたのである。──さりとて明治の世はそう単純に事が運ばない。体面ばかりを気にする遺族、友人、はたまた舎弟共が故人の意向を無下にする、そのような悲劇は往々にして起こり得るのである。

「……これは何だい、随分古いようだ。値打ち物か?」

 龍太郎が櫃の中から一軸の巻物を取り矢庭に広げて見せる。ほろほろと埃が舞い中から見事な曼荼羅が現れた。瞬間井上の表情が強張る。

「あぁ、それは兄上が自室へ掛けていた物だよ。時折手を合わせているのを見かけたし、昔から大切にしていたようだ。詳細は知らないけれど」

「狐憑きじゃ!」

 場を劈く金切声に、仏間のみならず園庭の小間使いまでもが驚き顔を上げる。声の主──井上はわなわなと身体を震わせ件の曼荼羅を睨み据える──

「きつね……?何だい小父さん、急に妙な事を口走って、気でも違えたか」

 鼻で笑う龍太郎の声も、井上には聞こえていない。頭を抱えて何事かブツブツと呟いている。不穏な気配を察した詠太郎が井上の傍へ寄り着物の裾を引く──

「井上伯?どうされたんです?」

「やはり、……でもなぜ、……武子が正しかった……、もっと早くに気付いておれば……」

「えっ?何です?」

 何か重要な事を言っている気配はあるが、肝心な部分が聞き取れず詠太郎は井上へ問い返す。井上は難しい顔をしたまま何も応えない。

「あぁ、もし良かったらその仏画、形見分けに如何です?この中では間違いなく父が最も大切にしていた品だろうから」

 その場の思いつきで曼荼羅を持ち帰れと勧める龍太郎。瞬間井上が眼を剥き怒号を発する。

「ふざけるな!武士の端くれなら知らぬはずがない、これは、この画は……!」

 皆まで言うのを憚ってか、井上が言葉を濁す。龍太郎、詠太郎そして原へ視線を遣ると、意気消沈したようにその場へ肩を落とした。

「……良い。何事もないから先の事は忘れてくれんか。然しその画は処分すべきだ。庭先で燃して貰いなさい、今直ぐに」

 其のまま井上は仏間を立ち去ろうとするので、原は慌てて後を追い掛けていった。後へ残された龍太郎と詠太郎が互いの顔を見合わせる。

「……おぉ怖い。帯刀も許されぬ僕らが武士とは、帝都で流行りの冗談かな。悪名高き鹿鳴館外交で頭の中まで欧化していると見える」

 井上最大の失策である不平等条約改正の頓挫を出しに上げ、龍太郎がニヤリと笑う。

「……鹿鳴館の事を悪く言わないでくれるか。兄上がその名付け親なのだから」

「ふふふ、詠太郎叔父さんは本当に父上がお好きだねぇ。まるで信奉者のようだ」

「滅多な事を言うな、僕は兄上を尊敬しているだけだ」

「あの人はそんなにご立派な人では無かったよ」

 龍太郎はほくそ笑むと、懐から扇子を取り出して即興で狐火を舞ってみせる。──此の人を食ったような言動を詠太郎は昔から好まなかったが、同時に目の前の軽薄な態度の甥が兄・中井弘の滑稽家としての気質をまま受け継いでいるのだと否が応でも思い知らされるのだった。

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