第18話 ロールシャッハテスト

「お婆ちゃんは、どうしたいんでしょうね?」


 アラトさんは、頭をぽりぽりかきながら、困ったような表情をしている。

 きっと、アラトさんも何度も考えてきたことなのだろう。


「うーん、親父さんやゴダイにはとても世話になっていたからな……だから俺はなるべくお袋さんの望む形にしてやりたい、力になりたいと思うんだが。俺も若くないし、お袋さんもこんな状態だから会話という会話ができてなくてな。今度、民生委員や地域包括の人たちとも相談してみようとは思ってるんだが」


 記憶を無くした人の思い……か。

 僕は、マンタがお母さんと書いていた日記をふと思い出す。

 日記じゃなくても、認知症が進行する前に何か残しているものがあるのなら、それは何かの手がかりにはなるんじゃないだろうか。


「何か、最期や終活のことについて話してたり、ノート……日記のようなものとかってあったりしないんでしょうか?」

「……どうだろうなぁ、本人はもう色々決めれる状態ではないし。親父さんの時はコロナだなんだで悲しむ暇もなくてな」

「お婆ちゃんの望み、生の声のようなものがあれば、それをもとに代理で解釈することもできるのかなぁと思ったのですが」

「うーん、ダメ元でお袋さんに聞いてみるか?」


 僕らはお婆ちゃんの近くに歩いていく。

 お婆ちゃんとリコは何故か手を握り合って喋っている。


「お婆ちゃん、何か大事なノートとか、自分達のことを書いた日記のようなものとかってあるかわかります?」

「んん、ゴダイかい? あんた、この子いい子よ、この子と一緒になりなさいな。この子がお嫁に来てくれたら私嬉しいわ」

「……え、んえ?」


 リコは無表情で僕を見ている。


「この子いい子よ、あなた達結婚なさいな」

「……え!? はい、うん、えっこん!?」


 リコは無表情で僕を見ている。

 時間が止まったように感じる。

 僕がお婆ちゃんの言葉から受け取る思いと、リコが受け取る思いは、果たして同じ形を呈しているのだろうか、それとも違う形を呈しているのだろうか――


「お前ら何やってんだ? お袋さん、この子はゴダイじゃないよ。ゴダイがこんな若いわけねーだろう」

「ん……そうかい、ゴダイはどこかね」


 リコはまだ僕のことを見つめている。

 僕の中の答えは、リコに届いていたんだろうか。

 お婆ちゃんは、背中をしょんぼりさせている。


「何か、最期のために準備していたものとか、お家にあればいいんですが」

「うーん、あるとすれば大事なものは大体同じ場所にあるから、あの辺にあるのかもしれないが」

「それならもしよかったら、迷惑でなければ僕らも一緒にお手伝いさせていただけないですか?」

「……ん? 手伝い? まぁ、いいが。まぁ、俺の家でもないから、俺がいいというのも変な話だが。あんまり、というか綺麗なとこではないというか……汚いぞ」


 僕は、アラトさんを見てにっこり頷いた。

 僕らは、お婆ちゃんと足並みを揃えながら、公園の出口へと歩き出す。

 アラトさんは、お婆ちゃんが段差などに躓かないよう注意を促しながら歩を進めている。

 公園の行き帰りも、お婆ちゃんからしてみれば大冒険だ。


「アラトさんは、お婆ちゃん達にとても恩を感じられているんですね。お世話になったって言われてましたが、自身の親でない人の介護はそんなにたやすく割り切れるものでもないと思いますし……」

「ん? あぁ、俺は、今だとニートおじさんだっけか。しばらくそんな感じだったんだ。ずっと、前の会社の社長の言いなりみたいに働いていてな。ある時それが無性に嫌になってやりがいもないし辞めちまって……」


 まだ仕事を始めてもない僕からは分からないが、やりがいのない仕事は確かに辛そうだ。

 社長の言いなりで働く仕事は、ロボットのように、自分で動いているつもりでも、それは社長の時間を生きているようなものなんだろう。

 他人の時間……僕はそれに安らぎを覚えていたわけだが。でも、そうか、単に苦痛から逃れるための安らぎだったのかもしれない。


「でも俺のやってる仕事なんて替えはいくらでも利いてさ。それを見てたらもう俺のやってる仕事も存在も時間もクソどうでも良かったんだなって、無駄に黄昏ちまって。俺が今まで費やした時間は何だったんだろうなって。情けない話だよ」


 仕事の優劣なんてわからないが、会社という虚構の下に形作られた歯車の1つのような仕事、それこそ言いなりでやらされるような仕事が多かったのかもしれない。大量消費、高度経済成長期では、それが心地よかったのかもしれない。ただ、そこに一度疑念を抱いてしまった人にとっては居心地が悪く、辛いものになっていってしまったんだろう。

 ニートも僕ら学生も認知症のお婆ちゃんも社会人としてみれば大きな違いはない……みんな何もしていない。

 ただ少なくとも、お婆ちゃんにとって、今アラトさんはエッセンシャルな存在ではないのだろうか。たとえそれが世間的にはエリートだろうがニートだろうがそんなのは関係ない。お婆ちゃんが決めることなんだ。


「ニート……ですか、それでゴダイさん達が助けてくれたんですか?」

「……そんな感じだな。何回かゴダイの会社に誘われてというか喧嘩というか、まぁ、そんな簡単な友情物語ではなかったよ。おっさんのプライドってもんは厄介でな、へんにつっぱねちまうんだ。そしたら親父さんも半ば強引にかまってきてくれてな。こっち手伝えって。定職についたわけではないんだけど、半ば毎日そこで手伝わせてもらうようになってな」


 アラトさんは、最初は信じてた仕事に、自分を捧げてきた。それが崩れてしまった時、人を信じにくく、自分で作り上げてきた自分を手放せなくなってしまっていたのかもしれない。

 そこに寄り添ってくれたゴダイさんたちは、アラトさんを、自分の時間を歩いていけるように引き戻してくれたんだろう。


「関係が持続してるっていうのはいいもんだ。あれからの時間は心地よかった。同じ時間のはずなんだけどな。仕事をやらされてた時と仕事を自らやろうとした時間、そこの違いは明白だったんだ」

「人情というか、温かみというか、昔ながらの……なんかいいですね」

「あの人達には頭が上がらないんだ。俺なんかみたいのだけ残されちまって……まぁ、本人達は気にしてないだろうが。どうでもいいんだ、自分がお袋さんのために少しでも何かできればなって思ってるだけだから。エゴかもしれんが」


 時間は平等だろう……確かに時計をながめているとそう思う。

 他人の時間を過ごしている時、その時間は使われたと不平等に感じるのかもしれない。

 なら自分の時間が多いと幸せを感じるのか? 楽しくゲームに没頭した後の虚無感、賢者タイムは幸せの証なのか。僕はそうは感じない。

 いや、そういったものも自分の時間ですら本来ないのかもしれない。何かしらに依存した時間だ。

 じゃあ、自分の時間とはなんだろう。

 自分と他人が交錯した時、そこの時間は活き始めるのではないだろうか。いつ死ぬかわからない中で、隣に心を許せる存在があるのなら、その時間が1番心地いいのではないだろうか。


「……それが、アラトさんにとっては、お婆ちゃんの笑顔ってことですよね」

「……あぁ、なんの捻りもないけどな。自分も引きこもってた時は、独りだった時は、多分笑ってなかったと思う。笑ってたかもしれないが、そんなの空笑いさ」

「……空笑い」


 リコもお婆ちゃんを挟んで僕らを見てくる。


「アラトさんにとっても、空笑いが自分の想う笑顔になった時、それは、仕事も言われてやるんじゃなくて、自分からやりたいと思ったものになってたってことですかね」

「確かにそう言われちゃそうかもしれない。やってる中身自体は大したことないし、要は自分次第なんだな」


 アラトさんにとって、自分の想いとゴダイさんたちの想いが交わり、自分と他人の境界が曖昧になった時、それは自分のためにも他人のためにも頑張れる時間になった。

 自分のためとも、他人のためとも思える人生を歩き始めた時、空笑いは空笑いじゃなくなったのかもしれない。

 アラトさんが、お婆ちゃんを助けたいのも、自分のためであり相手のためでもある。お婆ちゃんにとってもそうであるのなら、きっと笑顔につながるんだと思う。


「ほら、家着いたよ」


 そう言いながら、アラトさんは引き戸の玄関を開けて入っていった。

 大柄なアラトさんには少し小さく見える玄関の中へと。

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