私はあなたに何もしていないのに。

ちわみろく

第1話 送迎と会議


「ねえ、今度の土曜日なんだけど、優希ゆうきの塾の送迎をお願いできないかな。会社休みでしょ?わたし、その日は自治会の打ち合わせがあるのよ。」

 スマホから顔を上げた夫は、一瞬、とても困惑したような表情を作った。

「あー・・・もしかしたら休日出勤が入るかも知れないんだ。俺は無理かも。」

「ええ?休日出勤って・・・。」

 勤続20年近い夫だが、休日出勤などというのは初めて言い出したことではないか?

「いままでそんなの無かったじゃない。」

「いや、ほら、インフルエンザが流行ったせいで、社員の休みが増えちゃって仕事がすすまないんだよ。進捗が悪いと評価にも響くから。優希だって塾くらい一人で行けないのか?高校生にもなって。」

「行きはいいけど帰りが遅いから送迎を頼んでるのよ。若い女の子が遅い時間に徒歩で帰るなんて危ないって、貴方が言ったんでしょ。」

「そ、そうだっけか。」

「自治会だって夜に会議するから、仕方なく貴方にお願いしてるの。休日出勤ってもそんな遅くはならないでしょ?お迎え行ってあげて。」

「ああ、そう、そうだな。わかった。」

「お願いね。」

 それは、火曜日の朝の会話だった。



  八重津賢やえづまさると結婚したのは26のときだった。長女の優希が16歳になる。長男の真弦みつるは14歳。

 昨今の子育てにはお金がかかる。二人の教育資金が夫の稼ぎだけでは足らず、鈴子すずこがパートにで始めたのは5年前から。優希ために入れた塾代が響いたのか、赤字になった家計簿を夫に見せた。それは、申し訳ないが夫が使う小遣いを減らしてもらいたい、という提案をしたかったからだ。ならばクレジットカードを使うから、と言うことに落ち着いて、夫のお小遣い制度は消えた。

 子供が小さいうちは構わなかった。出費が少ないので賢の稼ぎが少なくてもちょっとした節約でどうにかなっていた。わずかながらの貯金も出来たのだ。長女が塾に行ったり長男がスポーツをしたり何かと出費が増えると、とても賢の稼ぎだけでは追いつけなくなった。

 そして、クレジットカードの支払いも段々と家計費から負担する額が増える。夫は会社の出張旅費や細かい手当支給など現金支給されるものからカードの支払いを埋め合わせる、と言っていたのだが、次第にそれも足りなくなっていく。やがて長男が小学校を卒業したのを機に、パートから社員となって働くようになった。

 フルタイムで働くのは鈴子にとってかなり負担であったが、子供のためだ。住宅ローンもまだ残っている。家事をして仕事をフルでこなし子供の世話をする日常は決して楽なものではなかった。

 だから、子供の塾の送迎くらい夫がやってくれてもいいだろう。真弦が部活でレギュラーになったから試合の送迎などもある。土日だからどうにか鈴子も行ってやれるが、時にはそれも難しい場合があれば、賢がしてあげればいい。

 けして経済的に豊かとは言えないが、それでも夫婦でどうにか協力仕合って毎日をまわしていく。その日々は、かつて独身だった頃とは比較にならないほどに忙しくて大変だったけれど、所帯を持つというのはそういうものだ。そう考えて、鈴子はしんどい日常をこなしていた。

 だから、土曜日の夜に携帯が鳴ったことに驚いた。

 自治会の会議中なので、電話に出ることは出来ない。気難しい自治会長のお話やら理事の仕事の配分など、大事な場面でもあった。

 鈴子は申し訳なさそうな顔で慌てて携帯電話の音を消して、ポケットの奥底にしまう。はじめからバイブにしておけばよかったのだが、忘れていたのだ。

 そして、その後も、携帯電話は何度も震え、会議が終わるまで続いた。


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