対魔少女と逆行時計

悦田半次

第1話 再会と幼馴染み


 空が、真っ赤に染まっていた。


 さっきまでの青さが嘘であるかのように、血に濡れたように赤い。


 それは異常気象などではなく、どうやら自分の体が異常を来していることが原因のようだった。


 真っ赤に染まっているのは空ではなく、俺の体だった。


 その塗料は、他ならぬ俺の血だ。


 逃げたくても、脚が潰されて逃げられない。


 起き上がろうとしても、手が毟られている。


 叫びたくても、声帯が抉られている。


 体がこれ以上警報を鳴らしても助かるまいと判断したのか、痛みは既に感じていなかった。


 傷口が、妙にすーすーするくらいだ。


 今日は真夏日のはずだったのに、いやに寒い。


 唯一動く、目を動かす。


 ぼやけ始めた視界に、一人の怪物が映り込んだ。


 全身に刻まれた刻印。


 額から伸びた二本の禍々しい角。


 両手に溶け込んだような刃。


 俺の血のように真っ赤な瞳とつり上がった口元からは、どうしようもない喜悦の色が浮かんでいる。


 鬼だ。


 昔話にしか出て来ないフィクションの産物が、目の前にいて、俺を殺そうとしていた。


 俺の腸を弄びながら、鬼は笑う。


その様は見惚れてしまうほど無邪気で――どうしようもなく邪悪だった。



 目が覚める。


「……なんつー夢だ」


 一富士二鷹三茄子が裸足で逃げ出すレベルの悪夢だった。

 

 昨夜テレビで見た、季節外れの恐怖映像特集が原因だろうとあたりをつける。


 違いといえば、妙にインチキ臭いテレビ番組と違って、あの夢は妙に真に迫ったものがあった。


思わず自分の体を確かめたが、相変わらず千ヶ崎千草ちがさきちぐさの体は五体満足であった。


 脚も潰れていないし、手もくっついているし、言葉を発せられるし腹に穴も空いていない。


 あの物騒極まりない夢に、どのような意味があるのだろうかと思いながら、なんとなく時計を見てみると、時計の針は七時五十七分を指していた。


「なんだ、まだこんな時間か。よっしゃ、また一眠り――」


 そう言ってベッドに倒れ込もうとしたところで、ぴたりと止まった。


 カレンダーを見る。


 五月六日水曜日。


 平日ではあるものの、焦る必要はない。


 何せ今は天下のゴールデンウィークなのだから、二度寝どころか三度寝四度寝お手の物である。


 が、よく見てみればカレンダーの赤文字は五日で終わっており、六日はブラックホールが如く真っ黒に染まっていた。


「……オーケイ、一度落ち着こう」


 これらの情報を整理し、現在自分が置かれている状況を導き出すと、


 ――千ヶ崎千草はゴールデンウィークボケによって、学校に遅刻しようとしている。


 と、なった。


「ぐわっ、最悪だ!」


 慌てて布団を蹴っ飛ばし、部屋の片隅で塊になっている制服に袖を通す。


 俺は決して優等生ではないが、色々面倒なことになるので、遅刻だけはしないように心がけていた。


 二十秒で着替えを終え、階段を駆け下りる。


 朝食の匂いがしないリビングを横切り、家を出た。


 初夏の爽やかな風や、穏やかな陽光などに構っている暇もなく、途中コンビニで菓子パンを三つほど買い込み、全速力で駅を目指す。


「よ、よし。このペースなら間に合うな」


 もうちょっとスピードを緩めようかと思ったときに、小学生が一人、横断歩道へ飛び込んでいった。


 きっと、千草と同じように猛ダッシュで遅刻を回避しようとしていようとしているのだろう。


 ついさっき青信号に変わったばかりだったので、特に問題はなさそうに見えるが――


「……げっ」


 思わず、顔が引きつった。


 交差点に、猛スピードで走るトラックが突っ込んできた。


 トラック側の信号は赤信号に変わったばかり。


 ええいままよ、とアクセルを踏み込んで無理矢理突っ切ろうとしているのだろう。


 小学生はトラックに気付くと、驚きのあまり脚がもつれて転んでしまった。


 考え得る限り、最悪の展開だった。


 次に起きる展開なんて、考えるまでもない。


 トラックに跳ねられる少年、砕ける体、迸る鮮血――


 せっかく買ったエビカツサンドが喉を通らなくなりそうだった。


 だが、俺ではどうすることもできない。


 赤の他人であるこの小学生を、態々危険を冒してまで助ける必要なんてない。


 仮に、絶対に安全が確保されていると言うのならば、もしかしたら助けようと思ったかも知れない。


 本気で覚悟を決めれば無茶を出来ないこともないが――それは、あまりにもリスキーだ。


 今俺に出来ることは、小学生が死んでいく様を黙って目を逸らすことだけ。


 見捨てることだけだ。


 それを悪だと責めることが出来るのは、小学生を救うことができる奴しかいない。


 朝から最悪の気分だ。


 こんなとき、正義のヒーローであれば自分の危険を顧みることなく、小学生を救ってみせるのだろう。


 そんな都合のいい展開が、この現実で起こるべくもない。


 溜息を付いたとき、風が頬を撫でた。


「――」


 目を見開く。


 俺と同じ県立勝山高校の制服に、赤い組紐で結ばれた黒髪。


 竹刀袋を放り出した少女は、猛スピードで小学生の元へ駆け寄り、体を担ぎ上げた。


「お、おい!」  


 このままだと二人纏めてトラックに跳ねられかねないと言うのに、少女は涼しい表情を崩していない。


 衝突する正にその瞬間、少女は跳んだ。


 空いている左手で、トラックの屋根に手をつき、腕の力のみでさらに跳ぶ。


 常人を遙かに上回る跳躍力に、千草は開いた口が塞がらない。


 トラックは、何事も無かったかのように通り過ぎていった。


 少女はすたっと着地すると、担いでいた小学生を地面に降ろした。


 小学生はまるで狐につままれたような表情で、ぱちぱちと目を瞬かせている。


「大丈夫?」


 少女の言葉に、こくこくと頷く。


「いきなり飛び出しちゃダメ。信号が青になってもちゃんと確認しないと危ないんだから。分かった?」


 こくこくと、再び頷く。


「ん、よろしい。これからは気をつけてね」


 少女は小学生に向かって微笑みかけると、竹刀袋を拾い上げて颯爽と去って行った。


 僅か一分にも満たぬその光景に、俺は地面に杭を打たれたように棒立ちしたままだった。


 体を動かすことができたのは、少女の姿が完全に視界から消え去った後だった。


「今のって……信乃、だよな」


 呆然と立ち尽くしたまま、千草は幼なじみの名前を呟いた。






 四宮信乃しのみやしのは幼なじみである。

 

 幼稚園の頃からの付き合いで、よく遊んだり喧嘩をしていた女の子で、当時一番仲が良かった友人は誰かと問われれば、間髪入れずに信乃と答えることができる。


 小学五年の時に、両親の都合で別の街に引っ越して以来、連絡が取れず疎遠になっていたのだが、まさかこのタイミングで再会するとは思わなかった。


正確には再会ではなく、一方的に彼女を見ていただけで、あちらは俺の存在にまるで気付いていないようだったが、それはさておき。


「久しぶり、千草。相変わらず遅刻ギリギリだね……なんか顔が妙にふにゃふにゃになってないかい?」


 と、後ろの席に座っている氷室誠ひむろまことはそう指摘した。


 祖父譲りだと言う金髪に青い目が特徴で、すさまじく女にモテる。

 

 羨ましいね、まったく。


「え、マジでか。そんなに?」


 慌ててガラスで確認すると、なるほど確かに顔に顔のしまりがなくなっている。


「うっわ、完全に緩みきってやがんな……」


「幸せいっぱいって感じだね。何かいいことでもあったのかい?」


「いいことっちゃいいことだな。実はかくかくしかじか」


 朝起こった出来事を、身振り手振りで後ろの席に座っている誠に説明する。


「なるほど。そんなことがあったのか……」


「つまりあなたは、四宮さんが小学生助けているのを指をくわえて見ていたってことね。ああ醜いこと」


 カチンと来る台詞が、俺の鼓膜を引っ掻いた。


 誰の言葉なんて、目を向けるまでもないというか、あの女のためにその分のエネルギーを消費することがすさまじく惜しい。


「朝っぱらからご挨拶だな、波沢。そんなんだったら、おまえだったら助けたって行くのかよ?」


「嫌よ。なんだって見ず知らずの他人を助けないとかしら」


「じゃあ俺のこと言えないじゃねえか!」


「何言ってるのかしら? あなただから醜いのよ」


 呉沢沙希くれさわさきは、ふふんと勝ち誇った笑みを浮かべた。


「何の用だよ……まさか、朝っぱらから俺にイヤミを言いに来るなんて超絶暇人な真似をしに来たわけじゃないだろうな」


「自意識過剰ここに極まれりね。私があなた如きに時間を割く訳がないじゃない」


 そう言うと呉沢は、ひょいと誠の首に手を回した。


 信じられないことに、誠と呉沢は付き合っている。


 絶対にこの女はやめておけと、あれほど口を酸っぱくして忠告してやったというのに、恋は盲目とはよく言ったもんだ。


「……って待て。今何つった?」


「あなた如きに」


「もっと前だ」


「醜いのよ」


「ムカつくけどもっと前!」


「四宮さんが――」


「はいストップ! それだ! なんで四宮さんなんて親しげに呼んでるんだよ?」


 こいつは何を言っているんだ、と二人は顔を見合わせている。


「親しげにもなにも……」


「クラスメイトじゃない。そんなこともあんたの腐った脳は記憶してないのかしら?」


 交差点での出来事をプレイバックしてみる。


 確かに信乃は、俺達と同じ学校の制服を着ていた。


 別に俺の記憶力が悪いのではなく、『信乃に会えた』という事実だけが頭の中でいっぱいになっていただ

けなのだ。


「そうか、学校同じなのか……」


 果たしてどこのクラスなんだと首を捻っていると、がらりと教室の戸が開いた。


 担任の与田切にしてはやけに早いな――と思って入ってきた人物を見やる。


「なっ……」


 絶句した。


 入ってきたのは信乃だった。


「噂をすればなんとやら、だね。そう言えば、学校に来るのは久しぶりなんじゃないかな?」


「丁度このゴミが学校に来るようになってから休んでいたのよね」


「誰がゴミだ誰が」


 でも、それなら確かに納得だ。


 俺は入学式の前日にちょっとした事故に見舞われ、四月の半ばまで入院していた。


 呉沢の言葉から考えると、俺と入れ違いに休むようになったってことか。


 信乃は教室の隅っこにある席に座ると、ヘッドホンで音楽を聴き始めた。


 席の群れから出っ張った所にあるので、隣の席は存在しない。


 クラスから隔絶されている……いや、自ら周囲との繋がりを立っているように見える。


 ともあれ、信乃が来たのならば、すべき行動はたった一つだ。


「やめておいた方がいいわよ。きっと後悔することになるから」


 ニヤニヤと笑う呉沢を無視して、俺は信乃の席に向かう。


 こちらに気づいたのか、ちらりと目を俺に向けた。


「よう信乃、久しぶりだな!」


 にっと笑って手を上げる俺に信乃はヘッドホンを外して一言。


「――誰?」


「……え?」


 一瞬、信乃の言葉が理解できなかった。


「いや、誰って俺だよ。千草だよ。ガキの頃よく一緒に遊んでただろ?」


「ごめん。本当に知らないから」


 そう言って、信乃はヘッドホンを付けてそっぽを向いた。


 目の前が真っ暗になる。


 背後で、誠と呉沢が『あーやっぱりね』みたいな顔をしている気がした。

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