同上  の4

 ばあさんの仕事は汚れた食器を洗って納める。食器を出してきて並べる。湯を沸かす。ご飯を炊く。漬物を漬ける、切る。飯を櫃または椀に盛る。握り飯を作る。それに海苔を巻く。等々。料亭の調理場からレストランの厨房まで料理の材料の運搬もしなければならない。こういう作業を言いつけられるままに行う。

 料亭の方に予約がない時は、ばあさんはレストランの厨房に行く。そこの方が細々とした仕事が多い。食器を洗うのはもちろんだが、ここでは料理も作らなければならない。茶漬け、釜飯、雑炊などのご飯ものはばあさん達炊事婦が大部分を作るのだ。調理士は天ぷらなど油を使うもの、刺身を切るものなどをして、こういうご飯ものは材料を揃えるだけだ。

 「おばちゃん、〇〇が通ったよ」という調理士の声で、ばあさんは洗浄機から離れて、ヨタヨタと配膳台の処へやってくる。「おばちゃん」と呼ばれている。また、そう呼ばなければ機嫌が悪い。パートで洗い場に入った主婦が、「ばあちゃん」と呼び、ばあさんはむっつりした顔をして返事をしなかったそうだ。「え、〇〇ですか」、出てきたばあさんは調理士に一度訊いて(答が返ってこないことが多い)作業に入る。と、「おばちゃん、ご飯ついで! 」という声がする。「吸い物ついで! 」という声がする。ばあさんはしかけた仕事をやめて、あちこちへ動く。「鉄板いいよ! 」と調理士が叫ぶ。ガスコンロで熱している鉄板から煙が出ている。ばあさんはコンロの火を消すと、鋏で鉄板を挟み上げ、木の受け皿に置く。焼き上がったステーキが鉄板のうえで音を立てる。最初の作業に戻ろうとすると、「おばちゃん、これ出して」と不機嫌に調理士が言いつける。見るとトンカツ定食の盛り付けが出来上がっている。調理士は出来た料理は少しでも早く目の前から消したいらしい。手間取ると「早くせんね」と叱られる。ばあさんは年寄りの緩慢な動作でそれを配膳台の上に置く。さて、作業の続きに取りかかろうとすると、再び調理士の声がかかる。「おばちゃん、向うから刺身のケン持ってきて」―料亭の調理場から大根の千切りを持って来いと言うのだ。ばあさんは長靴の音をクチャクチャさせながら厨房を出ていく。

 まぁ、こうした具合だ。ばあさんが何をしていようとお構いなしに用事は降りかかる。ばあさんは口をへの字にして言いつけられた用事を果す。負けん気のばあさんだが、耳が少し遠いので、時々トンチンカンな動作をする。それは皆のくすくす笑い、大笑い、からかいの種となる。そしてばあさんの容貌―板前がオコゼに似ていると囁く。俎板の上にオコゼを載せ、口にタバコを咥えさせて、ばあさんだ、と笑う。ばあさんは咥えタバコで仕事をする癖がある。

 もちろん、ばあさんはそういう揶揄いには平気である。蛙の面に小便というが、そんなものはばあさんの浅黒い顔面に当って、つるりと落ちていくだけだ。恐らくは長い人生の間に浴びせられた様々な悪意ある揶揄いがばあさんの面皮を厚くした。自分の息子や娘ほどの年齢の人間から言われるそうした言葉がばあさんにこたえるはずはないのだ。

 しかしそんなばあさんも、時折相手に皮肉を言い返すことがある。その言葉は、年輪を経ているせいか、グサリと相手を刺す鋭さを持っている。ばあさんの負けん気が凝っている感じだ。ばあさんをからかっていて、言い返された調理士が、その言葉の効き目のためか、本気に怒って、ばあさんに次から次に用事を言いつけ、ちょっとしたミスがあると声を荒げて叱ったものだ。そうなるとばあさんは抗わず、言われるままに動いている。

 大体私の職場ではからかいや冗談が飛び交うなかで仕事をしている感がある。誰も無傷では居られない。言われたら言い返す。それがポイントだ。からかわれて黙っていれば見くびられるし、本気に腹を立てるようでは相手にされなくなる。冗談にくるんで相手を攻撃しなければならない。こういう遣り取りで日を費やすと言ってよい。その中に互いのコミュニケーションもあるわけだ。

 ばあさんはひと月に一度髪をセットしてくる。白髪も黒く染めてくる。頭頂の辺りは薄くなって、褐色に光る地肌が見えるのだが、後ろからふっくら膨らんだ髪だけ見ると、四、五十代の婦人に見える。前に回ると顔は同じだから、カツラを被ったようで、少々滑稽な感じがする。本人は照れもなく、至って自足した顔つきである。前述の、腹を立てたレストランの調理士が、ばあさんの動きが遅いのを、「髪だけキレイキレイしてもダメなのよ」と皮肉った。この時はさすがにセットされた髪の下でばあさんはムッとした顔をした。

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