第292話.懐かしい感覚
スライムの巨大な壁から魔毒が次々と放たれると、毒々しい濃い紫の液体は、日の光を遮るように空を埋め尽くす。しかし今回は、全力を出して魔毒を中和し跳ね返したブロッサは表に出てこない。
『カショウ、どうするの?あまり臭いが付いたりするのは嫌よ!』
それを見上げて、ムーアは急に臭いのは嫌だと言い出す。
「急にそんな事を言われてもな。それに、スライムの魔毒は無臭だろ」
『でも、何かと反応すれば臭いを放つ可能性は大いにあるわよ』
オヤの草原では、オークの異臭に苦しめられた。流石に、連続して臭いに我慢する事は耐えられないのかもしれない。
「だけど一番重要なのは、タイコの湖の水質を保つことだろ。それはムーアが一番分かってるだろ!」
スライムの魔毒が一番脅威となるのは、カシミ川へと流れ出し、生態系に大きな影響を与えてしまう事にある。毒で湖が汚染されても、それを中和する事は出来る。しかし生態系が大きく変わってしまえば、タイコの湖はもう御神酒としての質を維持することは出来ないかもしれない。
今はタイコの湖は大部分が凍りによって閉ざされ、毒が拡散してしまう可能性は低い。だから、ブロッサも無理には表に出てこない。
『変な臭いが付いても、御神酒としての価値はなくなると思うわ。それに道具が駄目になるかもしれないわよ』
しかしムーアは喰い下がり、執拗に毒を避けようとする。俺の身に付けているチュニックやマントは影響はないのかもしれないが、その他の装備品や道具が駄目になってしまう可能性は否定出来ない。
「全部は無理でも、吸収してみるか?ブロッサが解析済みの毒ならば、俺の体へは影響はないだろうし」
『それがイイと思うわ♪』
「お主、急に吸収するといわれても、量も範囲も広すぎるぞ!」
スキルから作り出した毒であれば、魔力を抜くことで無効化することは出来る。しかし、この量の魔毒を無効化する為には、イッショも全力でスキルを発動する必要があり、少なくない量の魔力をカショウの体内へと吸収してしまう。
「大丈夫だ。ニッチにも吸収させるなら問題ないだろ。ニッチには臭いの耐性もある!」
「それならば良いぞ。吸収しきれない分は、俺様が面倒を見てやる!」
「ニッチ、出番だぞ!スライムの魔毒を吸収する」
「しつこいかもしれぬが、絶対に臭いはしないんだな!」
しかし、オークキングの放つ異臭に耐えてきたニッチは嫌そうに聞き返してくる。
「臭いがしたら嫌なのか?」
「臭い耐性なんてあるわけがない!あれは只の我慢」
しかし降り注ぐスライムの魔毒は、ニッチの主張を待ってはくれない。途中で言葉を飲み込むと、スライムの魔毒を吸収し始める。
スライムの魔毒を吸収すると、臭いはしないが山葵のように鼻にツーンとする感覚が襲ってくる。俺にとっては元の世界の懐かしい感覚が甦る。
「うん、懐かしいな。俺は嫌いじゃないし、それに悪くない」
「ウヴッ、ヴッ、ヴッ」
しかし、オークロードのニッチには刺激が強すぎたようで、悶絶しているのが伝わってくる。
「オーク達の負の感情やウィプス達のサンダーボルトに比べたら、この程度の刺激は軽いもんだろ?」
「経験したことのある、ヴッー、感覚ならば我慢出きるヴッー、こんな感覚は知、ヴッー、らん」
始めての慣れない感覚にニッチはもがき苦しんでいる。しかし俺が吸収を止めないので、ニッチも諦めることが出来ずに意地とプライドで吸収を続ける。
そのニッチの感情の声以上に、スライムの動揺する感情の声がハッキリと聞こえてくる。
毒で飲み込まれた俺は、湖の底に沈んで消え去っている予定だったのだろうが、それなのに毒の殆どが吸い込まれて消えてしまい、そこから現れた俺は無傷で宙に留まっている。一番与し易いと思っていた相手に、未知の力を見せつけられて理解が追いついていないのかもしれない。
そして魔毒が完全に消え去ると、睨み合いのような状態になる。魔力で俺達のことを感知しているスライムとの間には、睨み合いという概念は当てはまらない。しかし俺の視線を感じているのか、さらにスライムの混乱は極限に達してしまい、その声さえも消えてしまう。
そしてスライムのとった行動は、単純に俺を巨体の中に取り込んでしまうこと。毒が通用しなくても体の中に取り込んでしまえば、呼吸が出来なくなり死に絶えてしまう。
「まあ、それしか無いよな」
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