第10話 特訓

 翌朝は日の出前に起こされた。運動部の合宿でそういう事態に慣れているとはいえ、ここではもうひとつ勝手が違った。簡単な朝食を済ませて上下ジャージ姿に着替えると、志野と燐は本殿から少し離れた位置にある総社の奥宮に向かう石段の前で麻里子を待った。白い霧は昨日ほどではないが、それなりに深い。

「眠い?」

「あ、いえ」

 燐の問いに首を横に振る志野だったが、眠くないと言えば嘘になる。そこに少々大き目のリュックを二つ持った麻里子が姿を見せた。

「お早う、ちゃんと起きられるとは偉い偉い」

 にこやかな笑顔を浮かべて麻里子はリュックを地面に置いた。

「準備運動は済ませた?」

 頷く二人に麻里子はリュックのひとつを燐に渡す。

「じゃ、とりあえず中宮あたりまでダッシュ三本行こうか」麻里子は左手の親指で石段を差す。

 やっぱりそうか、と志野は思ったが、ここで引き下がるわけにはいかない。何せ一応現役陸上部としてはなおさらである。

「えと、ちなみに何段くらいあるのですか」

「ん?中宮までは八百段くらいだっけ。さらに奥宮まで五百段くらいかな」

「は、八百段ですか」少しだけ志野はうろたえる。

「お、ビビった?」ニヤリと笑い麻里子は答え、もうひとつのリュックを背負う。

「あれ、それ」てっきり自分が背負うものと思っていた志野だけに少し戸惑う。

「ああ、初めての志野には無理だと思うから」きょとんとする志野に麻里子は答えた。

「じゃ、行くよ」と麻里子は言うと二人を置き去りにして石段を駆け上がる。

「は、はやっ!」正直に志野は驚いた。プロアスリート顔負けのダッシュである。

「まあ、それなりにこなしているしね」燐は苦笑し、リュックを背負うともう一度背伸びと屈伸運動をして準備を整える。

「じゃ、先行くわよ志野さん」と言い残して燐も駆け上がる。

 その意外にも慣れた足取りに志野は驚いたが、それで彼女に俄然、火が付いたのは言うまでもない。

「ようーし」二人に続き、志野は石段を蹴った。

 しかし、結果を言えば石段ダッシュを舐めていたのは志野のほうである。八百段といえば普通に歩いてもかなりの負担になるが、そこを駆け足である。これが堪えないわけがない。二本目までは気力でこなしたが、三本目はもう意地しかない。

 ぜえぜえという荒い息で志野が戻ると、二人は疲れた様子も見せず、タオルで汗を拭いていた。

「おーお帰り。なかなかどうして根性あるね志野は。さすが私が見込んだ娘だねぇ」

 麻里子は嬉しそうに言ってタオルとスポーツドリンク入りのボトルを投げ渡す。

 受け取った志野はドリンクで喉を潤す。じわりと滲み込む冷たさが心地よかった。

「お、お二人ともやりますね」どうにか息を整えた志野が半ば負け惜しみのように言った。

「ふふん、志野ちゃん、まあ何だ私を年寄りと思って甘く見てたでしょ」

 愉快そうに笑い麻里子は答える。

「そ、そういうわけではないですけど」悔しいが志野は現実を認めるしかない。

「一応、これでも鍛えてます」

 麻里子は左の手首をくるりと回し敬礼してみせる。残念だが余裕綽々というところであろうか。

「じゃ、次行こう、志野、このリュック持ってきてね」

 麻里子は言い放ちそそくさと歩き出す。

 ため息をついた志野がリュックを片手で持ち上げようとするが「お、重い」と片手ではとても持ち上がりそうにない。

「あ、それ三十㌔あるから」と燐が平然と答える。

「三十㌔ですかっ!」

 それには志野も驚いた。麻里子は三十㌔のハンデを背負いこの石段を三往復したというのか。しかもあの速さで。

「私は十㌔なんだけどね」さらりと言った燐にさらに志野は驚く。

「まあ、いくら鍛えると言っても三十㌔はやりすぎじゃないかと思うのだけど・・・」

「いえ、燐さん、十㌔でもやりすぎですよ」

 燐のどこにそんな体力があるのだと、改めて華奢な体を見て志野は思う。彼女が東都で所属しているのは確か華道部と聞いたが。

 すでに驚きを通り越して驚異的としか言いようのない二人に志野はやられっぱなしである。

「こ、これは本当にとんでもないことになりそうだ…」

 気がつくのが遅いのか、それとも早いのか、志野の仰天境地はまだまだ始まったばかりだった。

 さらに午前中いっぱいは山中にこしらえたフィールドアスレチックのコースに挑戦し、クロスカントリーをプラスしたような訓練をひたすらこなした。ただ、フィールドアスレチックと言ってもその難易度の高さは半端ではなく、普通の人にこれがこなせるとは思えないものばかりだった。その後に合気道の初歩の初歩を志野のためにやって昼休みとなった。

「くー去年の夏合宿の比じゃないわ、これ…」

 食後休憩のために昨夜夕食をとった広間に倒れ込み志野はぼやく。何をするかと思いきや、スポーツ選手向けなんてものじゃない位のハードさに志野は出鼻を挫かれたといえた。それだけ自分の体力を過信していたといえばそうなのだが、それにもましてあの二人がこのメニューを余裕でこなすところが信じられず、余計にへこむ材料となった。

「初めてだもの、仕方がないわよ」と燐は言ったもの、志野には何となく納得できない自分がいるのは確かだった。

「こういうの、何時もやってるんですが」

「うーん。夏冬に二回くらいかな。あとは随時各々出向いたりすることもあるけど。東京での活動を疎かには出来ないし。今回は志野さんが加わったから特別かも」

「はあ、それにしてもハードっていうか、ちょっと驚きました」

 志野としてはかなりの本音である。

「まあ、スポーツのための基礎練習じゃないしね。言わば覇力を常に高め保つための鍛錬と言うべきかしら。それとモウリョウの力をセーブしこちらの意のままに操るためには強い体が必要ね」

「でも、そのために体力づくりするなんて考えても見ませんでしたし」

 志野は常人では考えられないようなメニューを次々と突きつけられて正直、面食らっていた。モウリョウの力を得たということは、人並み以上どころか桁違いの身体能力を手に入れたことだと正に身を持って知ったわけである。まさかジャンプして何十メートルも飛べたり、桁外れに大きな岩の塊を持ち上げたりと、そんなことが出来るなんて体感するまで信じようがない。

「相手はモウリョウ。生半可な体力や気力、覇力じゃ相手は出来ないわ」

 その点は燐としても同意できるらしい。

「うー」

 どういう解説を聞いても、志野としては全て初めての体験であるということで自分を納得させるしかないと思った。

  

「午後は覇力の操り方をやってみようと思う」

 麻里子は妙義総社から少し離れた場所にある、森の中の突然に開けた更地に二人を呼んでそう言った。もっとも燐に向けてというよりは、もちろん志野に対してのメニューが主になることは言うまでもないのだが。

「己の覇力、力の集中だな。これを得た得物の形として持つべき手の中にイメージし具現化させる」

 麻里子がそう話しながら右手の中に力を集中させていく、握った拳の間から光が漏れ出し、それが次第に上下に伸びて太刀の姿になっていく。

「蔵王丸!」

 叫ぶ麻里子は右手にあふれた光の中から大振りの太刀を手にしていた。

「わ、凄い」志野はみとれるだけである。

「これがわが得物、蔵王丸」麻里子は太刀を抜き、刀身を志野の前にさらす。研ぎ澄まされた鋼色の切先が光を受けて光る。幾多の戦いと年月を乗り越えてきた貫禄に近い輝きは見ているだけで怖れを感じるものがあった。

「ま、見世物じゃないけどね」

 麻里子は苦笑して鞘に収め、手から消滅させる。

「でも凄いです、麻里子さん」

 とにかく志野には驚くしかない。

「志野にもできるさ、特にこの妙義総社の中ならなおのことね」

「覇力が集中しているからですか」

「そういうことかな。さらにはこの得物から覇力を実際に威力ある力として構成し使うことも出来る。光や風、火、水、土、鋼など世界を構成する元素を土台にね」

 麻里子の返事を聞いて、志野も目を閉じ同じように力を、覇力を右手に集中させる。少し教わったように青龍の得物を手にしているよう、その形を頭の中で強くイメージするだけなのだが、そこが第一歩だという麻里子の言葉どおりやってみるしかない。

 志野は何気に握った右拳の中が熱くなり、手のひらに何かをつかんでいるような感じを得ていた。

「錫華御前!」と得物の名を叫ぶ志野は眩め高校の校庭で青龍が初めて見せたあの薙刀の姿を頭の中に描いていた。と右手には確かに硬い木材の感触があり、ギュっと得物をつかむ手ごたえがあった。

「わ、出来た」

 志野は手にした薙刀を見て驚く。本当に自分がやったことなのか。

「上手い上手い。初めて挑戦していとも簡単に成功させるなんてさすが志野ちゃんね」

 多少の茶化しを入れながら、麻里子は手を叩いて言った。

「そ、そうですか」

 志野としては褒められているのか否か複雑でもある。

「それだけ、あなたの覇力が強くて確実にものになっているということではないかしら、ねえ麻里子さん」

「ん、まあ燐のいうことは外れていないね。ここがいくら覇力の満ちあふれているパワースポットでもね」

 麻里子はそう答え、志野を見る。確かに並外れた覇力を持ち、詳しく教えるまでもなくそれを使える素質を持ち合わせているということだとしたら、全部を承知で青龍は契りを立てたということか。そんな風に麻里子は考えてみる。

「お待たせしました・・・」という声が麻里子の後ろからした。

「お、神楽悪いね、総社の仕事もあるのに」

「いえ、麻里子さん。こちらでのお付き合いも仕事のうちですので」

 名を野々宮神楽という、妙義総社で志野たちの面倒を見てくれる美少女巫女が何の前触れもなく姿を現した。誰かが来る気配などまるで感じられず何時の間に、というのが志野の正直な感想だった。

 神楽は何時見てもどことなく不思議な雰囲気を秘めている少女というか、少しとらえどころのない感じがしなくはない。同じ不思議なという意味では燐にもそれはあるのだが、彼女はちゃんとした存在感があって安心できる。

「志野、神楽はあなたと同じ薙刀を得物として使い、免許皆伝という実力の持ち主なのよ。そんなわけで、燐の槍術といっしょに得物の扱いを学ぶ上では良い先生になると思うわけ」と麻里子は説明する。

「得物って、神楽さんもキズキビトなんですね」

「うん、志野と同じ龍のモウリョウと契りを立てている。もちろん青龍ではないけど」

「二人から薙刀の扱いを学べということですか」

「そそ、ただこう見えて神楽は燐よりずっとコワイから覚悟してね」

 ニヤリと麻里子は笑い、燐と神楽を見た。

「志野さん、初歩から一歩ずつ学べは大丈夫です。頑張りましょう」

 神楽は抑揚のない声で志野を見据えて言った。

 確かに神楽の指導はハードといってよかった。最初は本当に基本というべき薙刀の構えの形や扱う上での留意点などが中心だったが、すぐに相対しての打ち込みという実戦モードに切り替えての訓練となった。

『あ、あの私、今日始めて薙刀を構えたのですけどー』と志野は思いっきり胸底で叫んでいたが、神楽は容赦せず自分の得物を上下左右から打ち込んでくる。

「次は私が・・・」という燐は中国の棒術や槍術などを織り交ぜて、まるで実戦のように志野にたたみ掛けて来た。無論彼女なりに相当手を抜いたモードではあるのだが。

「マジ死ぬるー」

 偽りのない、志野の本音であった。

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