第3話 月光館

「おはよう」と地下鉄蔵前駅からの通学途上で志野に声をかけてきたのは、同じ都立蔵前総合高校に通うクラスメートの箕輪百合子だった。

「ああ、おはよおおう~」返す志野の言葉に元気のかけらもない。

「あれ、どうした志野。寝不足なの、目も赤いよ」

「ん、まあ、その、そうねぇそんな感じ」大きなあくびをした志野は寝ぼけ眼である。

 結局、昨夜は眠れなかった。昨日の帰りに道に不可解な現象を目撃した後、あの時を境にして志野の何かが大きく変わったらしい。どうやらそれは疑いようのない事実だった。

 変わるにしても何か自分にとって好ましい状況に変化するなら歓迎だったが、どうやら事態はそうではないらしい。そのことが酷く志野を動揺させていたし、苛立つ原因にもなっていた。

「何かあったの。よければ相談乗るよ」と極めて明るく、真摯な声で百合子は言ってくれるが、理解してもらえる内容ではないことは想像がつく。どだい信じてもらえる部類の話でもないのだから。

「うん、ありがとう百合子、ごめんね」と返す志野はその視線の先に、狒々のような獣が跳ねながらこっちをじっと見ていることに気がついた。

「どうしたの?」

 絶句して立ち止まる志野に、百合子が声をかけた。

 瞬間に白い靄が視界を覆い、他にも不気味な肢体の怪物たちが動き回りながら、遠巻きに志野を見ているのがわかった。まるでこちらの様子を伺いながら機会を待っている。そんな風にも見えなくない。その現象はほんの数秒ですぐに普通の光景に戻ったが、決して気持ちの良いものではなかった。ましてや見せられているものが気味悪いものであるならばなおさらである。

「あ、うん、大丈夫」答える志野の言葉には力がない。

 加えて時々耳元にざわつくような囁き声が聞こえることがさらに癇に障った。耳をふさげば聞こえなくなるが、ずっとそうしているわけにも行かない。白い靄が見えた時だけとはいえ、嫌な気分にさせてくれることに違いはないのだ。

「これから何が起きるのだろう」志野の不安はどんどん大きくなるばかりだった。

 学校では昨日の蔵前通りで起きた騒ぎの話で持ちきりで、どことなく何時もと違う雰囲気が校内を覆っていた。関係ある事なのかどうかは知れないが、一年と三年の生徒が二人ほど蔵前の辺りで行方不明になったという噂も流れていては、よりそうなることは歪めない。誰もが不安そうな表情でひそひそと話し合う風景が目に付き、あまり良い感じには思えなかった。

「ごめん、ちょっと体調不良なんだ、今日は部活パスするわ」と志野は隣りのクラスの陸上部部員である沙織に言うと、終礼のチャイムと同時に学校を出た。

 一度国際通りを浅草方向に歩き、春日通りに出たところで右に折れて緑色の厩橋を歩き隅田川を渡る。そのまま直進して大きな宗教施設を右手に見ながら進むともう、本所二丁目である。通りは夕方となって交通量は相変わらずの混雑ぶりだが、マッチ箱の側面に書かれた住所を探してコンビニの横から一本左に曲がると、その辺は住宅と雑居ビル、商店が軒を並べる生活空間でもありさほどうるさいという感じはなかった。正面右横の業平橋電波塔だけが、存在感を主張しそびえているのが目に付くくらいだろうか。

「こっちって東駒形じゃないの。何で表には本所二丁目ってあるの?」と志野はつぶやきながら、右肩にかけたスクールバッグを持ち直して先に進む。

 今日一日、うわの空で授業受けながら考えていたことは、この理解しがたい現象が起きたことに対する説明を自分が求めている。その気持ちをどう解決するかだった。答えを得ようとするならば、あの不可思議な現象のなかで突然現れた長い黒髪の女性がいった言葉、「知りたいなら会いに来い」ということに尽きる。

 もちろん、昨日あの時初めて会ったどこの誰かも分からない人物に不安や恐れがないわけではない。しかし同じ現象を認知して、その中で人とは思えない力を発揮し、事の顛末を知っていそうな素振りを見せたのはあの女性しかいない以上、以後の結果がどうなるにせよ会いに行かないわけにはいかないといえた。ならば、一刻でも早くという気持ちが志野を即断させここまで動かしていたのである。

 住宅街と言って差し支えない東駒形の街は、静かでもあり、騒がしくもあり、何となく落ち着かない雰囲気があったが、自分が住んでいる曳舟近辺と差して変わりはない感じだった。四つ角にあったお惣菜屋からは、美味しそうな揚げ物の匂いが漂っている。

「あ、ここ?」

 さらに一本路地に入ったところに「月光館」、と彫られている古びた看板を控えめに掲げた白い洋館を見つけた。洋館と言っても和洋折衷という感じもあり、周囲の建物と較べて浮いている雰囲気は拭えない。見上げると屋根裏部屋の天窓らしき部分が開いており、暖色系の淡い色が漏れているのが見えた。

「営業中」というプレートが掛かって店内の明かりも見える以上、お店はやっているのだろうが、今更ながら志野はドアの取っ手を引けない自分がいることに気がついた。

『こ、ここまで来て帰るのは・・・』回れ右をしては意味がないと考え直し、志野が改めてドアノブに手を置こうとした時、

「お店はやっているわよ、入ったらいかが」と言う声が背中から聞こえた。

「え?」振り返る志野の後ろには、クリーム色のセーラー服を卒なく着こなしている少女が立っていた。真っ黒なショートボブに前髪を切りそろえ、切れ長の瞳にはこれまた黒く長い睫毛が揺れているという、色白な相当の美少女である。

 志野は反射的にドアの前から体を横に反らして道を譲ると、美少女は横目でチラと志野を見て前に進み、ドアノブを回し月光館の中に入っていった。

 少し店の中に入った美少女は振り返り、「そう緊張しないでお入りなさいな、綾川志野さん」とこれ以上にないであろうと思わせる微笑を浮かべて言った。

『な、何であたしの名前を知っているわけ…』と絶句した志野の驚きは当然だが、その言葉に促されて一歩踏み入れてしまったことは確かだった。

 戦々恐々としながら月光館の中に入った志野は、それでも目が店内を観察しようと動いていることに自分でも呆れたが、意外にも落ち着いているのかもしれないと思えて少し安心した。店の外観から想像するほど店内は広くはなく、こじんまりとした家庭規模の喫茶店という感じである。それでもマホガニー色が優しいアンティーク調の品の良い調度品に椅子、テーブルと店の雰囲気は悪くない。大きな柱には年代物と思わしき柱時計が独特の音を刻んでいるのが聞こえた。

「いらっしゃいませ」というカウンターの中から聞こえた声の持ち主は、蔵前であった女性とは別人で、これまたファッションモデルにもなりそうなくらい妖艶で大人の雰囲気がある人物だった。

 セーラー服の美少女は、三セットあるテーブル席の一番奥に座る。

 志野が一見してあの女性がいないことに気がついた時だった。店の奥から階段を下りる足音が聞こえ、こちらに向かっていることに気がつく。暖簾がめくり上がり、そこからのぞいた顔は忘れもしない、あの酷く端整な顔立ちはしていても、どこか一つ外している感じのしたかの人のものだった。

「あら、意外に早く来たわねぇ」と彼女はニコリと崩した顔を見せ、ククと含み笑いをしてみせた。

「まあ、とにかくお座りなさいな、ええとコーヒーでいいかしら」

 カウンターの女性は満面の笑みを浮かべて、志野にカウンターの椅子へ座るように勧めた。あの黒髪の女性もカウンター席に座り、手にした古そうな本を何冊か置いた。

 志野は店内をもう一度見回した。気まずいと言う感じはなかったが、自分がこの中にいることに対しての違和感は歪めない。何となくお辞儀をしてスクールバッグを肩から下ろし、目の前の椅子に座った。

「あ、あの・・・」と言いかけた志野の言葉を黒髪の女性が左手で制す。

「良く来てくれたわね、どうするのか気になっていたけど、こんなに早くやってきてもらえるなんて思わなかった」と言った彼女は席を立つ。

「まあ、取りあえずは、ここにいる人たちの自己紹介と行きましょうか。カウンターの美人は及川そのみ、通称おそのさん。あなたと一緒に入ってきたセーラー服の美少女は阪上燐、あとロンゲでイケメンの木戸譲之介、次郎丸紫雲という坊主と堂島真衛門というおじさんがいるのだけど、今は所用でいない。そして私は佐伯麻里子というわ、以後お見知りおきをね、綾川志野さん」

 ざっくりと各々を紹介され、会釈するのを見ていた志野は、すこしばかり気が抜けた。何を気負ってといえばその先の言葉が出るわけでもないのだが、自分の中で何か難しく考えていたことに違いはない。いや、本当は難しいことなのだが。

「私の名前、ご存知なんですね」とわざとらしい口調で志野は言った。

「まあ、気を悪くしたなら謝るわ。ちょっとだけ勝手に調べさせてもらったわけだし」

 麻里子の言葉には取りあえず謝罪の気持ちがないといわけではないらしい。

「皆さんは、一体どういう人たちなんですか」

 志野に、この人々の集まりがどういう関係にあるのかわかるはずもない。

「そうねぇ、あまり積極的ではない、ちょっと変わった人助けの一味かな」

 と言う麻里子の言葉に燐がクスリと笑う。

「まあまあ、そうギクシャクしないで、コーヒーが入ったわ。今日はちょっと苦味が大人の気分を感じられるグアテェマラですよ」

 そのみが言ってコーヒーカップを載せた銀盆をカウンターから差し出す。

「そんなに角が立っているように見えた?おそのさん」

 そう答えて銀盆を受け取った麻里子はまず、志野の前にカップを置き、それから燐に配ってから自分の分をカウンターの席に置いた。

 カップから湧き上がるコーヒーの心地良い香りが志野にも届く。それだけで何ともいえないリラックスした気分にさせてくれるのは気のせいだろうか。無意識のうちににカップを持ち一口飲むと、芳醇でかつコーヒーらしい苦味が口の中に広がり、志野は気がつかぬうちに心がほぐれていくのを感じていた。

「昨日から今日にかけて、あなたの身の上に起こったことをどこからどう説明したものか、正直なところ難しくて理解しがたいことなのは十分承知していると思うのだけど、取りあえずは最後まで話を聞いてはもらえないかしら」

 麻里子はそういって志野を真正面から見据えた。早々に自分で答えを見つけようと、手がかりになる物から当たってみるという、その頭の回転のよさと行動力は彼女の良い一面であると麻里子は思った。後は話を聞いた後にどう気持ちが変わってしまうかということであるが。

「そ、それは、もちろんです。突然、街が白い靄に包まれた後に青い龍が見えて、気味の悪い生き物が現れて。その時から何かにずっと見られている感じがして、誰かがずっと囁いている声は消えないし。一体自分に何が起きたのか私、まるで理解できません」

 どっとあふれ出た感情と共に志野は叫んだ。

「まあ、そうだろうね。取りあえずはそんなところか…」

 頷いた麻里子は他の二人の顔を確認するように見回した。

「あなたも魑魅魍魎とかあやかし、もののけ。あるいは簡単に妖怪とか呼ばれている人外の生き物のこと、聞いたことあるでしょ」

 唐突に出てきた麻里子の話に志野は面食らった。

「あ、あのそれって昔話や伝説や、怪談の類に出てくるそれですよね」

「そうそう、それよ。最近じゃマンガやアニメの方が詳しいくらいになってるけどね」

 何を突然そんな話をと志野は思ったが、なるほどそんな風に解釈すれば自分が見たものが当てはまると思えなくはない。ただあまりに現実離れしていて、今思うとそうなのだろうかと考えてしまうこともまたあった。

「顔に嘘でしょ、って書いてあるね。正直でいいけど」と言って麻里子は笑った。

 まさかと思いつつ志野は、それはあながち間違いではないのかとも思う。彼女の生活の中でそういう存在は作り話の中だけであり、実在のものとしてありえないことになっているからである。

「嘘ならそれでよかったのだけど現実は少し違ってね、これが本当のお話なのよ。魑魅魍魎、チミモウリョウ。私らは長いし面倒だし、語呂がいいから上を省略して単にモウリョウと呼んでいるけどね。現世ではない本来は常世、つまり異界に住む生き物たちの総称。一千年以上昔に二つの世界に切れ目が生じてから、時代によって頻度の差こそあれ連中はこっちの世界に出てきているのだけど…」

 真面目に語る麻里子にどう反応したものか、正直に志野は迷い、いや困った。何か騙されているとか、そういうことならもっと別な方法もあるかもしれないが、こうも真面目にそうだと迷わず言い切られては返す言葉に苦慮してしまう。

「昨日遭遇したのは間違いなくそいつら。運がいいのか悪いのか、特にあなたの強い覇力に魅かれて出てきた青い龍。一般には四神瑞獣の青龍とか蒼龍とか呼ばれているやつよ。どうやらそいつがまた、化け蟹みたいのとか他のモウリョウをついでに呼んだらしいともいえるのだけど」

 そういわれても志野はさらに困る。だが、彼女が見たものが夢でないなら、そうなのかもしれない。

「ええとその、覇力って何ですか」と志野は何気に引っかかった言葉の意味を聞いてみた。

「ああ、生き物が持っている根源的な力のことよ。あるいは生命力とも言っていいかもしれない。それの強弱大小でモウリョウの格や力が決まる。そう、よく覇気がないとかいう例えをするでしょ。それはここからきているんじゃないかな。モウリョウは基本、餌として他のモウリョウや人間、他の生き物の覇力を喰らう。ま、覇力だけでなく、頭から全部がぶりといく奴もいるけどね」

「あの、お話を伺うに私の覇力がその青い龍ですか?青龍というモウリョウを呼んだということになるみたいですけど」

 志野にはそう聞こえた。

「察しがいいわねぇ、まあ簡単に言えばそんなところ。恐らくは青龍は復活の途上にあったのだと思う。そこに覇力が抜きに出て強く、波長の合うあなたがいたからやって来たと」

 麻里子はさらりと答えた。

 志野には何で私にという怒りが沸々と湧き上がってくるが、そんなことを言ってもあまり意味はないのだろうなと思う。そこに私がいたことがポイントと言うなら、避けがたいことだったというのか。だとしても個人的には迷惑この上ない。

「だから気味の悪い生き物が見えたり、誰のものともわからない囁きが聞こえたり、気配を感じたりするようになっちゃったということなんですね」

「そう、青龍の覇力と同調したから、あなたの中の現界と異界の境が消えた」

「何とかならないんですか」

「モウリョウと出会う前の状態に、てこと?」

「はい」

「残念だけど、無理ね」あっさりと麻里子は答える。

「そ、そんなに簡単に答えないで下さい」と志野はヤケになって叫んだ。

「まあ、気持ちはわかるけどあなたがモウリョウの存在に気がついてしまった以上、モウリョウにその強い覇力の存在を気がつかれてしまった以上、私たちが呼ぶところのキズキビトになってしまった以上、もう普通の人として暮らすのは難しくなってしまう。奴らは相手が人でもモウリョウでも、自分より強い覇力の持ち主を何とかして喰らおうとする。自分がもっと強くなるためにね。だからより強い覇力を持つあなたは、これからずっとモウリョウにつけ狙われることになる」

 志野の気持ちは十分に察しがついたが、麻里子としては真実を語る以外に無い。

「そ、そんなあ・・・」

 麻里子の答えは志野にとってはある意味死刑宣告に近い。この先ずっと、自分が殺されるまでこういう不可解な生き物がまとわりつき、あるいは襲い掛かってくるかもしれないということなのだろうか。そう考えると次の言葉は浮かばない。

「ま、麻里子さん、少し単刀直入に話を進めすぎてはいない?」

 そのみがカウンターの中から心配そうな声で言った。

「そうだけど、無意味に話を誤魔化してもなんにもならないわ、おそのさん」

 かなり落ち込んだ表情を見せる志野に向き合った麻里子は、小さく深呼吸をして自分の心を落ち着かせた。

「志野、だからといって他に手段がまったくないわけじゃない。モウリョウはこっちの世界に出てくるようになってから、自分よりも強い覇力を持つ人間の存在に気がついて、そういう場合は積極的にその人物と主従関係を結び、こちらの、人間の世界での立場をより優位にすることを思いついた」

「何でそんな面倒くさいことするんですか。モウリョウって人より強そうなのに」

志野はぶっきらぼうに尋ねた。

「異界からこっちの世界に出てこられるだけの力を持つモウリョウはそれなりに強い。だけども連中にとっては勝手の違う世界であることにかわりはないわ、意外に覇力も消耗するみたいだしね。そしてまさかと思うかも知れないけど案外と連中は臆病でもあるわけ。だから自分より強い覇力を持つ人間には協力してやることで、現界で活動するための覇力不足を補うことを考えついた。そうやってこっちの世界で自由に動ける環境を整えた上で、この力を求める相手とは協同で、現界に巣食う強いモウリョウを狩るという行動を取るようになった。そんな連中の本心は分からないけどね。でも、結果的にそれが自分の主を守ることにもつながるから、それはそれでいいのかもしれない。つまりそうやってより大きな覇力を取り込めるようになれば、より強力なモウリョウとして天下に君臨できるかも知れないから契れる人間とは主従関係を結ぶ。そんな感じかな」

「モウリョウは他のモウリョウの覇力を食料にしているから、そんな関係に?」

「基本はそう。もっとも人の覇力を喰らう方が手っ取り早いと気がついたござかしい低位のモウリョウや、現界で暴れまわることだけが目的のモウリョウも存在して、人間側としてはそいつらを退治するために使っているいるともいえなくない。いつの間にかそんな風にお互いを都合よく利用しあう関係が出来るようになった」

「あ、あの、じゃあ、みなさんがそうだと」

つまりそういうことを言いたいのか、と志野は察した。

「そう、ここにいる私たちは皆、モウリョウの存在に気がついた人、つまりはキズキビトとしてモウリョウと契り、その力を取り込んで使い人に仇名す奴らと戦っている」

 平然と言い切る麻里子を見ても、志野には今まで聞いた話はまだ、信じることが出来なかった。

「突然に言われて、志野さんには何のことかわからないわよね」

 そのみが志野の気持ちを察し、そう声をかける。

「そう、ですねぇ。いきなりおとぎ話のようなこと言われても・・・」

 志野は答えながら昨日以来の出来事が、そういう訳で起きていると考えれば全て嘘とはいえないのだろうと思う。冗談だと言うのならば、ここまでして自分のようなただの女子高生を担ぐもっともな理由を聞きたいところだ。

「仕方がないわ、最初はみんなそう。自分の身に起きたことがあまりに突拍子もなくて、どう理解したものかわからない」

 麻里子はそう言ってカウンターのコーヒーカップを手に取り一口飲んだ。

「昨日の今日だし、実感がわくまでもう少し時間が掛かるかもしれない。でも志野、あなたは自分の身に起きたことの理由が知りたくてここへ来たのでしょ」

「それはそうですけど、こんな話はどうやっても信じろと言うのが無理ですよ」

 繰り返しでも志野にはそれ以外にいうべき言葉はない。

「ま、そうね、それはその通りね」

 麻里子が言い切る言葉は、志野の答えを予想していたものに違いない。

「ところで、おそのさん、コタローはどうしたの」

 突然にまるで違う話題を麻里子は持ち出した。

「コタロー?さあ、今日は見ていないけど」

 そのみは首をひねって考えるが、思い当たらない。

 だが、すぐに何かが部屋の中にやってきたような気配が志野にもわかった。

「んんん?なんだっつーの、俺様を呼んだのかよ」

 志野にもそんな声が確かに聞こえ、月光館の入り口のドアがひとりでにばたんと開閉する。するりと何かが店の中を動き回る感じがしたかと思うと、それは、麻里子の足元で次第に実態となって姿を表した。

「え、犬?」という言葉が志野の口から漏れた。

 大型の犬に匹敵しそうな体躯は、全身が金色の毛並みに覆われ、耳は凛と立ち、犬よりも攻撃的な視線と口元がそうでないことを告げていた。そして何よりも尻尾が太く、犬のそれではない。

「犬じゃねーよ、え?小娘。俺様は稲荷神、狐様だぜ」

絶句する志野に向かって、間違いなくその生き物はそう言った。

「何してたのコタロー。さっき、すぐ来てと伝えたじゃない」

 若干の文句も含め、麻里子は言った。

「あは?そりゃ悪かったね。この辺り一帯、すげー覇力が渦巻いて、そりゃもう大変だぜ。んでもって木っ端や曹位くらいの連中がうじゃうじゃ出てきていやがる。俺様のシマうろつかれて目障りだからちょいとシバいてたってのに、気がつかなったのか?」

 コタローは自慢げに話し、キキと歯を見せて笑った。

「やっぱりそう。さっき道すがら感じたことのない覇力があふれていたのは、間違いじゃなかったのね」

 それまで黙っていた燐が口を開いた。彼女は彼女で覇力を感じ取っていたらしい。

「あら、そう。私はちっともねぇ・・・」きょとんとした顔で麻里子は答える。

「くはーもうろくしたなあ、千年ババア」

 コタローはケタケタと笑い声を上げた。よほど可笑しいらしい。

「あ、あのこの狐って、その、モウリョウなんですか…」

 もはや人語を話す狐という時点で、志野は先ほどの麻里子の話が冗談でないことを見せつけられた気がしてならない。いや、つまりは実体験をもってモウリョウの存在を証明しようということなのか。

「そうよ志野。コタローはこれでも立派な狐のモウリョウでね。訳あってここにいるけど」

「おめー『これでも』ってとこがひっかかるじゃねーか、え?麻里子よお」

 コタローはギラリと目を光らせ麻里子を一瞥し、それから志野をにらんだ。

「フフン、お前の覇力は…。かなり強いな…」

 敵意とも取れそうなその視線は少し恐ろしく思えたが、志野は昨日今日で見たモウリョウとコタローは、明らかに異なるように見えた。雰囲気というか常に殺気立っているような感じがそれほどしないのである。

「さらに驚かせてしまったかもしれないわね」

 言葉も出ぬままコタローを見据えている志野に、麻里子はそういった。

「あ、いえ、その、まあ」どう返事をしていいやら迷う志野には次が出ない。

「麻里子さん、いっぺんに色々では志野さんも混乱するだけだと思うの。今日はもう、このくらいでどうかしら」

 そのみはそう言って、時計を見る。時刻は六時を少し回っていた。志野ももうそんな時間かと思った。

「ああ、そうね。ごめんなさい、志野、悪かったわ」

 麻里子は本当に済まなそうな顔をして謝る。

「そ、そんな、謝らないでください。ここへきたのは自分で考えてのことですし」

「ま、そうなんだろうけど、想定以上にびっくりで驚いた、でしょ」

 麻里子はそう言うと、カウンター机の上に置いた書物を開き、読めそうもない文字で走り書きされた短冊らしき紙片を抜き出す。それを上着の内ポケットから取り出したお守り袋に小さく折りたたみ収めた。

「これはつまり、お守りみたいな物。志野がこれを身につけていれば、あなたの持つ覇力よりも低位のモウリョウは近寄れない。異界を見ることもないし、気味の悪いささやきも聞こえない、多分ね」

「そ、そんなものあるのですか」

 差し出されたお守りを受け取り、志野は少々興奮する。

「期待を砕いて申し訳ないけど、あくまでもそれは一時しのぎよ。無くしたり、手放せば意味はない。それにたかが紙に書いた物だし、いつかはだめになる」

 麻里子の言い方はかなり素っ気無い。

「そうなんですか・・・」多少の希望を持った志野としては、また突き落とされた気分になる。

「あとこれ、モウリョウにまつわる話を少しまとめてみた。あたしたちの背景のことなんかもね。気休めになるなら読んでみて。もちろん、またここに来てくれれば、気になることにはみんな答えてあげるわ」と麻里子はノートを差し出す

 志野はそのノートも受け取るが、気分はさして晴れることもない。

「あ、志野さん、よければご飯食べていかない?ウチのカレー、とても美味しくて自慢の逸品なのよ」そのみは努めて明るい声で言ってみた。

「今日は帰ります。何だかいろいろで疲れちゃいました」

 志野はそう言うと席を立ち、受け取ったノートをスクールバックに入れると肩にかけた。

「待っているわ、また来てくれるの」

 そう言う麻里子の言葉には答えずに深々とお辞儀をして、志野は月光館の扉を開き出て行った。

「はあ・・・」思わず漏れ出たため息は思ったよりも大きい。

 歩き出そうとした時、すぐ後ろにある月光館の扉がばたんと開き、阪上燐と名乗った少女が姿を現した。

「途中まで、送ってくわ」

 燐は志野の横を通り過ぎ、道路に出る。志野は無言で彼女の横に並んだ。

  

 東駒形の界隈は、住宅と中小零細企業の雑居ビルが密集する今の都会にありがちな一帯だった。生活する場と働く場所が同じところにあって、半端に都会なくせにどこか地味というか垢抜けていない。下町とは本来そんなものなのかもしれないが、コンクリートとアスファルトで固められた現代では雰囲気があまりに冷たく、ここが人の住む場所であり続けられるのだろうかとも思えてしまう。もっともそんな感想は、元々ここに住む人々には関係のないことなのかもしれない。

「いきなりいっぱいで困ったと思うけど、麻里子さんを許してあげてね」

 燐はさも自分に非があるような言い方をする。うつむき加減で目を閉じた横顔は可憐な少女そのもので、志野は少しドキリとした。

「あ、そんな、私は別に怒っているとか、そんなんじゃなくて」

「そうね、理解不能で頭が固まった。そんなところでしょ」

 清澄通りに出た交差点の信号待ちで燐はそう言った。

「うん、そうじゃないかな」

 こんな超絶美少女に済まなそうな顔で謝られたら、誰だって恐縮してしまうと志野は思う。

「私もそうだった。今ほどいろいろなことが解っていた時代じゃなかったけど、理解不能だったし何しろ何故、自分がこんなことになったのと物凄く悩んだ」

「でも確かに麻里子さんの話の通りだったし、それから何となく一緒に活動するようになって、これは凄く大変なことに巻き込まれてしまったのだと実感したわ」

 しっかりとした言葉で話す燐には、強い意志が十分に込められていた。

「だけど、こんな話、誰かに話したとても笑われるだけですよ」と志野。

「そうね、こんなのまるで今どきのゲームとかにありそうなお話よねって、そういうの上手に書かれているものね」そう言い燐はクスリと笑う。

「だから信じるも信じないも志野さんしだいだしね。別に私たちは誰も嘘なんかついちゃいないわ。ただ信じるに至るにはいろいろ誤解や思い違いもあるだろうし、そういうところも含めて考えて欲しいと思うわけ」

 二人はそのまま真っ直ぐ進み、吾妻橋までやってくる。隅田川を越せば浅草だった。

「ところで阪上さんは何時ごろ麻里子さんやモウリョウと出会ったんですか」

 橋の上を歩きながら不意にそんな疑問が志野の心をすり抜けた。

「え、うーん、実は正直に言うとまた驚かれそうなんだけどな…あ、燐と名前で呼んでくれて構わないから」

 茶化す燐は少々言葉を詰まらせる。

「さっきの話だと私なんかより前にですよね。その制服、超お嬢様学校で有名な東都女学院のってことは阪上さん、じゃない燐さんも現役高校生でしょ」

 目聡くというわけではないが、志野は指摘した。何せ名の知れた女子高だけに気にならないわけではない。志野の蔵前総合高校も都立としては、紺色基調のブレザーとスカートにグレーを二色配したまあ、それなりに垢抜けた特徴のある制服ではあるのだが、伝統ある東都のセーラー服の前には及ぶべくもない。

「それはその通りなのだけど」と燐はにが笑いで答える。

「もしかして小学生くらいから、とか」

「あーいえ、私が出会ったのは十六歳の時よ、戦争の遥か前の話で」と燐は答えてから「あ、」と殆ど聞こえない小さな声で呟いた。何か失敗をしたという感じの雰囲気がありありと伝わってくるのが志野にもわかる。

「戦争の前?戦争??えええ?」

 燐の答えを聞いた志野は突拍子もない声を上げて立ち止まった。

「えと、戦争前って、何時の戦争のことなんですか」

 もしも日本を視点に考える戦争というならば、それはもう半世紀以上前のことになる。

「別に隠すつもりや、誤魔化すつもりはないのだけど、驚かないで聞いてくれるかな」と燐は前置きして志野の顔を見る。

「実は一九二三年、大正十一年、関東大震災が起きた年よ」とかなり恥ずかしそうな表情を浮かべて燐は答えた。

「え、一九二三年・・・うーん、え、九十年前???」

 答えを聞いた志野は、またも思考回路が停止するのを感じていた。燐が東都女学院の現役生なら、どう考えても今聞いた答えでは、まるで年の計算が合わないということになる。

「まあ、志野さんが驚くのも無理ないけどね」

 志野が想像通り驚くのを見て、燐はもっともだとしか反応できない。

 驚くとかそういうレベルを超えて、志野にはもはやこの話が想像すら出来ないレベルにあるとしか思えなかった。見た目間違いなく現役女子高生の少女が実は九十歳以上だというのは、何をどうしたら納得できるというのだろう。

「ダメだ、私の頭の中がグルグルしすぎて何も解らないよ」

 燐と東武浅草駅で別れ、混雑する各駅停車の電車の中で、志野は月光館へ出向いたことを多少後悔しながら、積み重ねられた新しい疑問や謎にどうしたらいいのか途方にくれていた。

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