蒼キ龍ノ覇道

とうがけい

第1話 遭遇

 その瞬間に綾川志野の心臓が『どくり』と音を立てた。

 東京・蔵前のとある通り、季節は桜の頃、時刻は黄昏時。周囲を行きかう自動車や歩く人々、街の喧騒が耳をついて煩わしい。そんな中で突然、志野は自分の心臓がこれまでとまったく違う音を立てたのをはっきりと聞いた。 

 その場に立ち尽くし、自分の額と背中に滴る汗を感じながら、志野は訳もなく周囲をゆっくりと見渡した。すぐ横を歩いていく同じ蔵前総合高校の生徒たち。左右に何時もの寺院、正面の先には亀の湯の玄関。

『どくんどくんどくん』と音を立てる胸の鼓動。同時に志野は見慣れた街の風景とは明らかに違う景色が目の前に広がっていくのをただ呆然と眺めていた。

「い、一体、何が起きた、わけなの・・・」

 志野はそれだけの言葉を搾り出すのが精一杯だった。

 黄金色に染まっていた蔵前の街がどこからとなく発生した白い靄に包まれ、これまで一度も見たことがない景色を映しだす。それと同時に志野は人や自動車、建物の間を動き回る得体の知れない生き物たちを目撃していた。

 蜥蜴、狒々、百足、おぞましいそれらの生き物はまさに怪物、化物と呼んで相応しい醜悪な肢体をさらし、薄気味悪い雄叫びを上げながら人々と車の辺りを駆け回っていた。

 何をしているのだろうと志野が思った瞬間、そのうちの蜥蜴に似た巨躯の一匹が突然に道を歩く通行人に襲い掛かり、その体を瞬時に丸ごと飲み込んでしまった。

 志野が日常では絶対にありえないその光景を前に絶句して、何も言えぬままその場に釘づけとなってしまった時だった。

 不意に志野の頭上の空が渦を巻いて広がりはじめた。見上げたその目には、ぽっかりと黒い穴が開いているのが映る。不意にその中から出てきた長細い体躯を持つ巨大な生物が、真上から自分を目がけて一直線に降下してくるのがわかった。

その巨大な生物は志野の数メートル手前で体を捻ると、彼女の眼前を左から右へ横切っていった。

『え、えっ、あ、あれって、りゅ、龍?ドラゴン?…』

 その青く光る肢体は俗に言う伝説の生き物である「龍」そのもので、姿かたちからそうであることは志野にもすぐにわかった。ただ、それが伝説や空想上の生き物であることはすぐに思い出していたし、つまりは実在の生き物でないこともわかっていた。しかし今、目の前で空中を浮かびながら通り過ぎて行った生き物は正しく『龍』である。

『だったら、私は龍を見たというわけで・・・』

 にわかには信じがたい事実に驚愕した志野は、ゆっくりと目の前を行く青い龍が振り向きざまに自分を意識してにらんだことに気がついた。

 口元にニヤリと笑みを蓄えていても、その目は突き刺すように志野を見つめている。それがどんな意味を持つのか彼女にはわからないが、いわば値踏みをされていると言えばそれに近いのかもしれない。

 青い龍は道路を徘徊する怪物たちの姿を認めると、素早く体制を立て直して襲い掛かった。その動きはまさに電光石化のごとく、狙われた蜥蜴の怪物にしても何が起きたのか分からなかったに違いない。

 蜥蜴の胴体にかぶりついた青い龍は、一瞬にしてその肢体を噛み砕いた。断絶魔の絶叫があたりに響くと同時に、蜥蜴の体が眩い光に包まれ消滅していく。そして天に上るように渦を巻いていく光の束を追って、今度は青い龍がその光を飲み込むようにしながら後を追いかけていった。

「な、何が起きたっていうのよ、本当に・・・」

 泣く気力も萎えてその場に座り込む志野は、まさに腰が砕けた、と言い表すに相応しい状態だった。

 と、その時、「バキッ!」ともの凄く硬い何かを叩き割ったような轟音が、志野のすぐ近くで弾けた。

 今度は何が、と振り返る志野の目に身の丈数メートルはありそうな蟹、おそらくは蟹らしい生き物、いや化け物蟹が真っ二つにされて果てるのを目にした。瞬時にしてその体は消滅し光に変わって天に昇っていく。

「ぼやっとしていると、命を落とすよっ!」

 切り倒されたた蟹の化物の後ろには、大きな刀を構えた若い女性、腰まで届きそうな長い黒髪を後ろで一つに束ねた人が立っていた。一見して癖のありそうな難しい表情を浮かべて刀を構え直し、志野に一瞥をくれてから、視線の先に動く別の生き物を凝視している。

 まったくもって何が起こっているのか志野には理解できない。

 次にドーンという音と共に通りの一角にある商店がつぶれ、前の大きな蟹よりもさらに数倍はありそうな化物蟹が姿を現した。両手の鋏をばたばたさせながらこちらを伺い、今にも襲い掛かろうかと身構えている。一瞬ではあるが、志野はその化物と目が合った気がした。

「鉄鋏、いや巨蟹か、こいつは・・・」

 その女性の声が聞こえたのかどうかはわからないが、彼女が一歩踏み出すよりも早く、巨大な蟹はその大きさからは想像し得ない素早い動きで体の向きを変えると、脱兎のごとく国際通りを構わず突っ切り、都下水道局の敷地を横断して蔵前橋通りに飛び出し川に向けて駆け出した。

「ああ、待てこら・・・」

 叫ぶ彼女の声など聞くはずもない。道路にいくつもの大穴を穿ち、何台もの自動車が左右に蹴散らされる。まさに巨蟹は逃げるために、死に物狂いで突き抜けたという感じに見て取れた。

 しばらくして、何か大きなモノが水に飛び込んだらしい音がここまで響く。あの巨大な蟹が隅田川に飛び込んだということは予想がついた。

「んー逃がしたか・・・」

 女性が手にした刀は腰に下げた鞘に収めると、まるで最初から持っていなかったかのように消えて失せた。

「それにしても奴め、今頃になって復活するとは合点がいかないわね、あの時、間違いなく封印したはずなのに…」

 そんな独り言にしてはやけに大きめの言葉が志野の耳にも届いた。と同時に周囲を包んでいた白い靄が瞬時にして消え失せ、先ほどまでのごく当たり前な蔵前の街並みが目に入る。しかし耳に届いた音は幾つもの救急車とパトカーのサイレン。そして人々の怒号と悲鳴だった。

「あーあ。大変なことになっちゃったわねぇ…」

 志野はそうぼやくあの女性の顔を見上げた。厳しい表情は微塵も崩すことなく騒ぎの方を凝視している。確かにとんでもないことが起きたことには違いがない。その視線に気がついたのか、目だけを動かして志野を見下ろした。

「ああ、あなた大丈夫だった」

 言葉は安否を気遣っているようだが、そのトーンは社交辞令的な雰囲気がありありと感じられた。

「だ、大丈夫です」

 言い切った志野はまだ腰が抜けているに近い状態であったが、それに反して口から出た言葉は随分と威勢を張ったものだった。ここで自分が軽くあしらわれることには、無性に小腹が立つというか、気分を害されてならないと感じたが故である。本心を語れば気分仰天、冷や汗全開というところであろうか。

「そう、ならいいわ」そう答えると腰をかがめて志野に面対する。

「ところでお嬢ちゃん、もしさっきの騒ぎの中で現れた青い龍を見てしまったなら、アレの存在を確かなものとして感じとってしまったというのならば、あなたはもう引き返すことの出来ない一線を越えてしまったということになるわけだけど…」

「は?」

 志野には何を言われているのか分からなかったが、青い龍という言葉には意識が動いた。自分の真上から現れて、眼前を悠々と横切っていったあの生き物ことだろう。

「まあ、そうは言ってもすぐに理解できることではないのだけどねぇ」

 また、どことなく値踏みをされているような視線と態度を感じながら、志野はその女性の言葉を聞いていた。

 ただ、どういうわけか何ら嘘偽りでも冗談でもなく、大真面目に何かを語ろうとしていることは間違いないと思えたのは気のせいだろうか。

「それ、ど、どういう意味なんですか。あ、あなたはどこのどなたなんですか」

 志野の質問は真っ当なものだった。

 女性は立ち上がり、上着の左ポケットをまさぐって小さな箱を取り出していた。

「うーん通りすがりのお節介、いや人助け。違うわねぇ、それも・・・」

 またも意味不明な単語を並べ、志野に向けて左手につかんだ小箱を投げた。

 受け取った志野は、それがマッチ箱であるとわかる。

「本所二丁目、茶館月光館・・・」

「話すと長くなるし、今の事が気になるならそこに来なさい。理解できるかどうかは別として、話はしてあげる」

 長い黒髪の女性はそう言い切ると、志野に背を向けて後ろ手にバイバイをしながら国際通りに向けて歩き出していた。

「だ、だから誰なの、あの人。てか、ここで何が起きたわけで・・・」

 歩道に座り込んだまま、志野は騒ぎで集まった人ごみの中に消えた女性の姿を探していた。集まってくる緊急車輌のサイレンはさらに幾つも重なり合い、上空にはヘリコプターが飛ぶ音が聞こえてきた。それだけとんでもないことが起きたことに間違いはないのだが、志野にはそれが他人事のような気がしてならず、醒め切った視線でしか眺めることが出来なかった。

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