第6話
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和人が村木たちに呼び出された日から数日後。村木は和人の心情を理解してくれたのか、あれ以来干渉してくることはなかった。実家のほうにまでちょっかいをかけられないかはまだわからないが、そこは村木という人物を信用するしかない。
和人にとっての平穏な日々。いつも通りの生活ができることに感謝を感じ、一時は自宅でも能力を使うことを控え慎ましく生活しようと考えた和人だったが、時間が経つに連れてその気持ちも薄まっていき、また当たり前のように日常の細々としたことを遠隔操作で済ませる、いつもの生活へと戻っていた。
だが、変化は前触れもなく訪れる。より正確に表すなら、変化を嫌う人間は前触れを見逃すか、見て見ぬふりをしてしまうものだ。
「先生!」
塾での授業中、和人が解答の説明をしている最中に汐梨が唐突に声をあげた。和人が目をやると、汐梨は携帯電話を片手に持ったまま、もう一方の片手をピンと高く掲げていた。
「どうした、汐梨」
「ちょっと電話してきてもいいですか。親から急に連絡があって」
「いいけど、ロビーであんまり大きな声出すなよ」
「はい」
授業が中断され、何事かとざわつく教室を尻目に、汐梨は小走りに教室を出て行った。授業が終わってからにするよう言うこともできたが、不安そうな表情を見せる汐梨を、和人は咎めなかった。少し待って、すぐに戻ってこないようであれば解説を再開しようと考えていた。
「そういえば、沙織里はどうしたんだろうね」
各々に雑談を始めていた生徒たちだったが、一真の言った言葉が和人の耳に止まった。この日、沙織里は塾に来ていなかった。塾には特に欠席の連絡はなかったため、今日の授業も5分ほど開始が遅れたのだが、生徒が無断で欠席するのはよくあることだった。翌日に連絡が来たり、次の授業の日に生徒が「ごめーん」と軽く言ってきたり、はたまたそれから一度も来なくなって保護者から退会の連絡が来たりと様々だが、さほど気にするようなことでもなかった。
「先生!」
教室の雑談の音量が上がってくる前に、汐梨が教室に戻ってきた。だが、その様子は少しおかしかった。雑談を止めた生徒たちと、和人の視線を集めながらも、扉のところで立ったまま席に戻ろうとしない。何かを言おうとしているが言い出しかねているように、口を開いたり閉じたりしていた。
「汐梨?」
「あの……今、うちの親から連絡があって、さおりん……じゃなくて沙織里ちゃんが行方不明だって」
聞き慣れない言葉に、和人は面食らった。行方不明とは、事件や災害のニュースくらいでしかお目にかからない単語だ。
「どういうことだ?」
再度ざわつき始めた教室を尻目に、和人が聞いた。
「沙織里ちゃんの親からうちの親に連絡が来たみたいなんだけど……いつもなら塾に行くって連絡があるはずなのに今日はなくて、家にも帰ってないって。何か知ってるかってメッセージが来たんだけど、私も何も聞いてないし……」
そう言うと汐梨は一真と陽平のほうへ目を向けたが、当の二人も何も知らないようで、首を振るばかりだった。
和人はしばし思案したが、やがて口を開いた。
「うーん、なんだろうな。あとで俺も姉さんに聞いてみるよ」
「ちょっと先生、心配じゃないの?!」
「いや、そりゃ心配ではあるけど……」
勢い込んで詰め寄ってきた汐梨にたじろぎ、和人は一歩後ずさった。
「まあ、たいしたことはないんじゃないか」
「だって、行方不明なんだよ?」
汐梨の表情には不安に混じって、和人への怒りが浮かび上がっていた。なぜそこまで怒るのか和人にはいまいち理解できていなかったが、汐梨はしばらく和人のことを睨みつけたあと、キッと視線を横へ向けた。
「陽平! 探しいにくよ!」
「え、なんで俺?」
汐梨は陽平のところへ歩み寄ると、その手を掴もうとした。無理やりにでも連れていくつもりなのかもしれなかったが、陽平は差し出された汐梨の手を躱していた。汐梨は躱されたことにさらに腹を立てたのか、今度は腕で陽平の上腕あたりを掴むと、椅子から無理やり立たせて連れ出そうとしていた。
「待て、ちょっと待てって」
陽平は抗議の声をあげていたが、狭いところで抵抗すれば危ないとわかっているのか、力なく汐梨に引きずられていた。
「おい、授業はどうすんだ」
「どうでもいいから!」
どうでもよくはないが、と思いながらも、和人も汐梨を止められそうにないと思っていた。他の生徒たちも、呆気にとられて雑談することすら忘れて汐梨の様子を眺めていた。
結局、汐梨は陽平を引きずったまま教室を出て行った。後ろ姿を見送り、教室に残された和人や他の生徒たちは開いたままの扉をしばらく見つめていたが、少ししてから一真の声が静寂を破った。
「あ、お、俺も行きます!」
「え?」
二人を追うようにして、一真も小走りに教室を出て行った。和人が止める間もなかった。再び、開いたままの扉を見つめる時間が過ぎる。
しばらくして、和人は咳払いをしてゆっくりと扉に近付いていった。注目を浴びながら、そっと扉を閉める。もう、授業を続けられるような空気でも、気分でもなかった。切羽詰まったような汐梨の雰囲気に呑まれてしまったのかもしれない。これも、空気を操る魔法のようなものかな、と和人は思った。
「えーと……まだ早いけど、今日はここまでにしようか」
授業が終わる時間までは30分ほど時間があったが、和人はもう切り上げることにした。生徒たちから喜びの声があがる。
「あー、静かに静かに。他の教室はまだ授業中だから、静かにな。寄り道とかしないで、まっすぐ帰るように」
和人がたしなめると、生徒たちの声のボリュームが少し下がった。帰り支度を始める生徒たちを見ながら、残された一真たちの荷物を片付けるべく、和人は教卓を離れ生徒の席のほうへと歩き出した。いなくなった三人の勉強道具をカバンにしまいながら、思い出したように和人は生徒たちに向けて言った。
「ああ、それと今日の授業を早く切り上げたことは、親とかにはヒミツで頼むぞ。ちゃんと授業しなかったことがバレると、怒られちゃうからな」
和人の注意に、生徒たちが小さく笑い声をあげた。
一真、陽平、汐梨の三人のカバンを持って教室を出ると、和人は残った生徒たちが帰るのを見送り、最後の生徒が建物を出たのを見届けてから、デスクへと戻った。デスクの横に三人の荷物を置き、椅子に座る。さてどうしたものか、と考えていたところで、斜め向かいに座っていた講師の鈴木が声を掛けてきた。
「何かあったんですか?」
鈴木は授業が非番で事務作業をしていたのだろうが、どうやら勝手に出て行った汐梨や陽平、一真のことは止めなかったらしい。もしかしたら声を掛けたかもしれないが、たぶんあの様子では声を掛けられても詳しい説明などせずに出て行ってしまったのだろう。
「いや、なんかちょっと生徒が一人、連絡がとれないみたいで。心配した子が探しに飛び出しちゃいましたよ」
「菅原先生は行かないですか?」
「えぇ? うーん……」
「どっちにしろ、もう授業終わらせちゃったじゃないですか。評定下がりますよ」
「それ言っちゃいます?」
飽くまで他人事のように話す鈴木の言葉に少し苛立ちを感じる和人だったが、沙織里のことが心配なこともあり、探しに行こうかとは考えていた。何より、今は心当たりがひとつある。ここ最近で起きた妙な事の関わりで考えれば、おそらくあの童貞老人たちが関わっているのではないか。とりあえず聞いてみる価値はあると思った。幸い、村木の連絡先なら知っている。
「まぁ、私はどっちでも良いんですけど、菅原先生が出てったらタイムカード押しちゃいますからね」
「ちょちょ、それは勘弁してくださいよ」
だが、目の前のことも解決すべき急務だった。授業が終わる前の時間にタイムカードを押されてしまっては、いくら生徒がヒミツにしても、早く切り上げたことが上にバレてしまう。押し忘れたことにして後で修正申請しようと考えていたが、勝手に押されたら説明がしづらい。
「今度なにか奢りますから」
「じゃあ、うなぎの店あるじゃないですか。塾の前の坂を降りたところの。うな重弁当くらいで」
「えぇ……」
和人としては缶コーヒー程度を想定していたが、思ったより高く付きそうだ。だが、飲み代を奢らされるよりはマシだ。
いずれにせよ勤務時間が足りなければいろいろな手間がかかるし、後々にも響く恐れがある。結局、和人は提示された条件を飲むことにした。
「わかりました、それで手を打ちましょう。そのかわり、鈴木先生が帰る時に一緒に押しといてもらえますか」
適当な時間に合わせて押しておいてもらえれば、申請の手間も省ける。和人の返事を聞くと、鈴木はにっこりと笑った。
和人はため息をつき、三人の荷物も車に積んでいってやろうと考えながら荷物を片付け始めた。
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