王太子からの招待
「……これでいいわ」
ふう、とジュリアナは右手の甲で額を拭う。
「派手すぎないか」
「何を言っているの! これでもまだ地味なくらいよ」
本当にそうだろうか。アレクシスは鏡に映る自分の姿を疑わしい思いで眺めた。
アレクシスが纏うのは黒い上着と光沢のある明るいグレーのジレ、同色のトラウザーズだ。黒の上着と言っても襟や袖、そして前身頃に濃いブルーの布と金糸の刺繍があしらわれており、非常に凝ったつくりであることが一目で分かる。もちろんそのブルーの布地は天海の稀布だ。
形よく結ばれたクラヴァットと、袖口から覗くのは淡雪のように繊細なサビーヌ・ホームのレースだ。靴は磨き抜かれたヘシアンブーツで、礼装用の刀を腰に佩き、髪を整えたアレクシスはどこからどう見ても文句のつけようのない見事な出で立ちだった。
「ちょっと待って。あとは肩にこれだけ……」
しかし、満足を知らない妹は勲章を片手に近づいてくる。アレクシスは半歩後ずさった。
「勲章までつけるのか。非公式の謁見だろう」
「非公式だろうが何だろうが、王族と会うのだからこれくらいは当然よ。それからクラヴァットにはこのピンをつけてちょうだい。カフスとお揃いなの」
ウィンズロウ・ハウスに届いた一通の招待状。それは王太子ジョージからの王城への招きだった。
兄の求婚をきっかけに全てを知らされたジュリアナは、王城へ向かう兄を完璧な姿にすると決めたらしい。装いの全てを取り仕切り、さらに上着の胸にいくつもの勲章をつけた。これらは実際に王からアレクシスに贈られたものだが、中にひとつだけ男爵家に代々受け継がれている勲章がある。ルフトグランデ王国を救ったハリントン男爵家の功を労し、永遠に称える最上位の勲章だ。当時の国王が、子々孫々ハリントン男爵家を――歴代の「ジョナサン・ハーヴェイ」を尊重するようにとの願いを込めて贈られたもの。それを一番目立つ場所につけた妹の気持ちが痛いほど伝わってくる。
彼女にとって王太子ジョージは兄の想い人を横から奪った憎い男なのである。容姿で兄に敵う男性がいるとは思わないが、装いの点でも気を抜く訳にはいかない。ジュリアナは固く決意していた。
妹の熱意に負けたアレクシスは、言われるがままにクラヴァットピンをつける。カフスと同じくダイヤモンドと白金でつくられたピンは当然のごとく最上級グレードのものだが、他人の目を惹くほどの大きさはない。ただし見る目がある者なら誰でも称賛せずにはいられないという玄人好みのものだ。ジュリアナが兄の好みに配慮した結果だった。
「そろそろお時間でございますよ」
ブランドンが兄妹にそっと声をかけた。また男爵邸を訪ねていた彼は、従者代わりに王城まで同行することになっている。断るつもりだったアレクシスは、道中の話し相手として結局それを受け入れた。彼は彼なりにアレクシスのことを案じていると分かったからだ。
ポケットチーフの形を直していたジュリアナは、改めて兄の姿を確認した。
「……完璧ね。世界で一番素敵な貴公子よ、お兄様」
にこりと笑ったジュリアナも、美しいベージュのドレスに身を包んでいる。綺麗に化粧を施した顔には、もう失恋の痛手は見当たらない。まだ残っているはずの心痛を思いやりながら、アレクシスは軽くうなずいた。
「ありがとう。では、行ってくる」
キッド革の手袋をつけながら言う。てっきり部屋の中で別れるとばかり思っていたのに、ジュリアナとダンカンは揃ってエントランスまでついてきた。仰々しい見送りを好まないアレクシスに対して、これはとても珍しいことだ。
アレクシスは不思議に思いながらも目線で二人に合図をし、馬車に乗り込む。
「お兄様」
振り向けば、目を潤ませた妹と家令が同じ顔をしてこちらを見ている。まるで敵地に向かう家族を見送る顔だ。
「心配するな。すぐに戻る」
唇に微かな笑みを刷いたアレクシスは、帽子のつばに手を置いて出立の挨拶をした。
「……ご心配なさっておいででしたね」
王城へ向かう馬車の中。ぽつりと言ったブランドンに、アレクシスは苦笑だけで応えた。
従弟のドミニクから、クラリスと王太子ジョージが結婚すると聞かされたのはつい一週間前のことだ。
ただちに調査したところ、ルフトグランデ王太子の婚姻の準備は確かに進められていた。しかも水面下で密かにだ。どうやら婚約期間を可能な限り短くしようと画策しているらしい。クーデターの余波が残るシエルハーンは大わらわだろう。
ドミニクの父バークリー公爵は宰相の地位にある。だからこそ知り得た情報をドミニクから聞いたダンカンやジュリアナは驚き騒いでいたが、アレクシスは却って冷静になった。
そうか。……そうか。
クラリスが誰かの妻になる。
婚姻の申し込みを断られた時から、分かっていたはずだった。
「王太子殿下は、どのようなご用件でアレクシス様をお招きになったのです?」
車窓から外を眺めていたアレクシスは、数拍置いてからブランドンへ向き直った。
「……メルボーン侯爵邸の夜会で殿下とお会いしたことがあるんだ。その時に次は王城で会おうと仰せだった」
「では、そのお約束を果たすためということでしょうか」
「ああ。……いや、どうかな。あの時は従者の
「クラリス王女とアレクシス様を対面させるようなことはなさらないでしょうね? それは少々悪趣味のような……」
アレクシスは無言で窓の外を見る。招待状が届いたのと時を同じくして、シエルハーン国王と妹姫がルフトグランデを訪問するという知らせが飛び込んできている。
王太子との拝謁にクラリスが同席するかどうかは分からない。しかし、可能性は十分にあるだろう。
クラリスへの求婚は王家の承認を得たうえで行った。つまり、アレクシスの気持ちを百も承知で王家は――王太子はクラリスを妻にするつもりなのだ。
ほとんど泣かんばかりだったジュリアナの訴えが耳に蘇る。
『どうしてわざわざ二人が揃うような場所に呼びだす必要があるの? もしや王太子はハリントンを王家を脅かす存在と認識し、クラリス姫を娶ってみせることでお兄様に屈辱を味わわせ、序列を思い知らせようとしているのではない? 王族と、男爵家当主という序列の差を!』
心のどこかでジュリアナの言葉に納得しながら、アレクシスはできるだけ穏やかに諭した。
伝え聞く王太子の様子は聡明で、舐められない程度に臣下を立てる如才なさを持っている。侯爵邸の夜会で会った際も一筋縄ではいかない周到さを感じた。
その王太子が、わざわざハリントンを敵に回すような真似をするはずがない。なぜなら自分が本気になれば、ルフトグランデを割ることさえ可能だと知っているだろうから。
ジュリアナは当然のごとく不服を示し、すぐさま兄の衣装は自分が手配すると宣言した。社交界に於いて女のドレスが戦闘服であるのと同じように、恋敵と対峙する男にも隙のない伊達な衣装が必要なのだと言って。
その結果、アレクシスは本来の趣味とはかけ離れたきらびやかな姿になったわけだ。
「……とんだ
「とんでもない! 見事なお姿でらっしゃいますよ。相手が国王だろうが王太子だろうが、敵う者はありません」
言い切ったブランドンは、何かを思い出して小さく笑った。
「覚えておいででしょうか。私の店に初めてお見えになった時のアレクシス様も、大変すばらしいご様子でした。稀布の上着が素晴らしくて、あれで警察関係者ではないと思った私はすっかり警戒を解いたのです」
アレクシスはつられて微笑んだ。
「そうだったな」
「はい。身につけておられる物全てが一級品でしたが、中でも一番の逸品はアレクシス様ご自身でした」
「……俺が?」
「ええ」
ブランドンは昔の荒んだ顔を思い出せないほど穏やかな顔でうなずいた。
「私はこの商売をして長いですが、正直に申し上げてあなた様ほどのお方を拝見したことはありません。身につける物はもちろん自信に満ちた振る舞い、容姿、そして他を従える威容……どれを見ても世に並びのない宝物だと、私はそのように感じました」
そして、いたずらっぽくちらりと笑う。
「あの、とんでもなく無礼な物言いもそうです。私はあなた様のご身分など存じ上げませんでしたが、仮に王族だと知らされても驚かなかったでしょう。とにかく高慢で傲慢で、自信たっぷりでいらした」
「……そうだったか」
「それでいいのですよ。あなた様は生まれながらの貴種でいらっしゃるのですから」
お前はそのままでいいと――今のアレクシスのままで王太子よりも価値があるのだと、そう言いたいらしい。
アレクシスは凍りついていた心が僅かに動くのを感じた。
「ブランドン、商売のほうは順調なのか」
目端が利き、空気を読むのに長けたブランドンは何くれとなく家令を手助けし、今ではすっかり男爵家の一員のようになっている。このところ精神が鈍磨していたアレクシスは、ようやく彼の生業のことが気になったのだ。
だがブランドンは一度瞬くと、照れたような笑みを浮かべた。
「実は……店のほうは弟に任せておりまして」
「なに? 絶縁していた弟と和解したのか?」
「はい。弟の家を訪ねて謝罪したのです。ちょうど……と言ってはなんですが、弟の失業と義妹の病気が重なって途方に暮れていたところだったようで、お互いに張る意地もなく和解できました。まったく、私が今まで行ってきた悪行を考えれば、思いもよらないほどの幸運です」
ブランドンは意味もなく首の後ろを撫でている。
「薬代にも事欠いておりましたので、住み込みの店員として雇うことにしましてね。弟も恩義を感じたのか、懸命に励んでくれています。今では私の代わりも十分務められるほどになりました」
「そうだったのか」
アレクシスがひとり取り残されている間に、彼の生活は一変していたようだ。手伝ってくれる弟のおかげで、これほどまめまめしくウィンズロウ・ハウスに足を運べるようになったのだろう。
「ブランドン。…………よかったな」
嬉しそうなブランドンの顔を見て、ほんのりと心が温かくなる。
アレクシスは誰かの幸運を……幸福を、喜ぶことのできる自分が嬉しかった。死んだようになっていた心が息を吹き返したようだ。
「……ありがとう」
唐突な感謝の言葉を不思議そうに聞きながら、ブランドンは問い返そうとはしなかった。アレクシスは車窓から近づく王城を見上げる。そびえる円錐状の尖塔と広大な森に囲まれた城は、アレクシスを待ち受けるように佇んでいた。
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