第七章

別れの言葉

 それは、予感のようなものだったのかもしれない。

 

 キィ……という微かな音を立ててバルコニーへ現れた人を見ても、クラリスは驚かなかった。


「……また、そんな薄着をして」


 顔を合わせてすぐそう言ったアレクシスは、夜着の上にガウンを羽織っただけの細い肩を厚手のショールで優しく包んだ。頬を刺す冷たい空気がふわりと動き、馴染みのある香りが鼻腔をくすぐる。アレクシスの匂いだ。

 フフッと小さく笑ったクラリスを、アレクシスは首を傾げて見つめる。曖昧に首を振ったクラリスは、バルコニーから見える冴えた月に目を遣った。


 あの事件から十日が経った。

 アレクシスは事件の後始末のため、しばらくは忙しくしていた。各所への根回しも碌にせず、囮捜査に踏み切ったことが問題になったらしい。しかも現場は貴族院議長であるウィンシャム公爵家のタウンハウスだ。問題にならないほうがむしろおかしいだろう。


 忙しいアレクシス自らが対応を迫られるほどの事態を引き起こしてしまった身としては、ただ小さくなっているしかない。だが家令に言わせれば「滅多にない当家の瑕疵ですからね、ここぞとばかりに騒ぐ者もいるのです。まあこれも若が今まで上位貴族との交流を疎かにしてきたツケでしょう。社交の一環として対処なさればいいのです。後始末の一端を担った方々とは今後もよい関係を作っていきますし、妙ないちゃもんをつけようとする者がいたら百倍は大きな貸しを作って仕返しするだけのことですので、何の心配もいりませんよ」とのことだった。


 だが、そう言うダンカンもアレクシスが叔父の脅しに乗り、公爵邸へ行くことには大反対したという。男爵家に仕える家令としては当然のことだ。クラリスは心の底からそう思い、またそれだけアレクシスを大切にしてくれる人がいることを嬉しく思った。


 アレクシスの手が伸びて、クラリスの前髪をかき分ける。


「もう痛みはないのか」


 クラリスは鼻先をショールに埋めるようにしてうなずいた。叔父に拳銃で殴られた時にできた額の傷のことだ。救出されてすぐ担ぎ込まれた病院では、額を少し切って出血してはいるものの脳にダメージはないこと、傷も残らないだろうということを聞かされている。気を失ったのは気が緩んで眠っている程度のことだとも。

 ノエルからの手紙を受け取ってからは一睡もしていなかったのだから、疲れから睡魔に襲われたのも納得できた。ただ、そのせいで一層騒ぎを大きくしてしまったと、目覚めてからは申し訳なさと恥ずかしさが先に立った。


 ノエルは姿を消したという。

 騎士として、彼はクラリス個人よりもまず国に仕えていた。だから、王太子である兄を救うためとあれば彼の言動は十分に理解できた。しかし、護るべき王族の一人を危険に晒したのだから思うところがあったのだろう。簡単な事情聴取の後、行方が分からなくなったのだそうだ。


 その頃クラリスはアレクシスから命じられ、弟のヴィクターと入れ替わるようにして寝台の上の人になっていたので、詳しいことは分からない。あの地下牢で話していたように、器用な彼は自活の術を持っているのだろう。生きてはいけるはずだと分かっていても、クラリスは願わずにいられなかった。

 いつかまた、会えたら。彼の心の整理がついて、シエルハーンへ戻る気持ちになれたなら。いつかまた、きっと。


「……何を考えているのか、教えてくれないか」


 らしくなく遠慮がちに問われ、クラリスは月光の中でアレクシスを見上げた。

 ほの白い光で彼の黒髪は濡れたように光り、深く青い瞳は宝石のように輝いている。何て美しい人なのだろう。クラリスはその姿を目に焼きつけてから、彼の大きな手を両手で持ち上げた。

 温かい手だ。自分とは違う厚い手のひらの上に指で文字を書く。何度も繰り返してきたように。今夜で最後になるその感触を生涯覚えていられるように、ゆっくりと指先を動かした。


 ――兄に早く会いたいと、そう思っていました。


「……そうか。そうだな。腕は残念だったが、生きていらして本当によかった」


 そう。クラリスの兄ルーカスは本当に生きていたのだ。

 腕に重傷を負い、出血多量で一時は生死の境をさまよったらしい。それでもどうにか生き延びたのは、護衛騎士の中に医術の心得がある者がいたことと、山中でたまたま出会った商人たちの荷馬車に乗せられエーベルへ入国できたからだった。そしてエーベル王家に保護され、今は体調を取り戻しつつあるという。


 しかし、兄は左腕を失った。

 生死を危ぶまれるほどの大量出血。揺れる荷馬車を急がせて越えたエーベルの国境。

 続く振動が傷口を刺激し壊疽を起こしてしまう。もう少し早くエーベル王家に保護されていたら違う結果になっていたのかもしれないが、高熱を発し意識を朦朧とさせながら、兄は付き従う騎士に命じたのだそうだ。毒素が全身に回る前に腕を切り落とせと。

 

 医療器具などない荷馬車の上だ。麻酔もなくただ肩をきつく縛っただけの状態で、騎士はその命令に従った。兄が「これは私が命じたことだ。処置の後に自刃することは許さない」と告げていなければ、おそらくその騎士は自ら命を断っただろう。

 血に塗れ、片腕を失った隣国の王子が担ぎ込まれたたことでエーベルの王城は大混乱に陥ったそうだ。しかしかの国で何よりも敬われるプラチナブロンドの髪と紫の瞳を持っていたこと、そしてエーベル王家の王太子と兄との間に以前から親交があったことから、丁重に受け入れられたらしい。


 兄が生きている。

 それはクラリスにとって、神からの贈り物に他ならないものだ。

 アレクシスから初めてそれを聞かされた時には信じられず、思わず泣いてしまったものだ。だがその知らせが真実だと分かってすぐ、クラリスはある決意をしていた。

 いつの間にかうつむいていたクラリスの頬を、アレクシスがそっと包む。クラリスが握っているのとは反対の手だ。


「父からの知らせがもう少し早ければ、君を苦しめることもなかったのに」


 クラリスはまた、ショールの中で小さく首を振る。アレクシスの優しい香りがして、鼻の奧がツンと痛くなった。

 

 アレクシスの父ゲイリーから連絡があったのは、クラリスが秘かにウィンズロウ・ハウスを出た日の昼間だった。そこには叔父グレッグがクーデターを起こすに至る様々な事情が事細かに書かれていた。クラリスの兄の情報をもたらしてくれたのもゲイリーである。ありがたい反面、独自の調査ではそれを突き止められず、引退して三年以上も経つ父に完敗したアレクシスは更なる精進を誓ったらしい。


 ブランドン・クーパーからも、天海の稀布を買い占める過程で黒幕がウィンシャム公爵であると分かったこと、クーパー商会がハリントン男爵のせいで煮え湯を飲まされたと知り、向こうから一矢報いないかと打診があったことを報告された。更にはウィンシャムを頼って身を潜めていたグレッグに取り入り、彼がクラリスたちを使ってアレクシスを強請ゆすろうとしていることまで聞き出していたのだ。


 ゲイリーの調査能力はいつものことだが、ブランドンは想像以上に上手く立ち回ったと言えるだろう。さすがは裏社会に通じているだけのことはあるとアレクシスも感心していたが、実際はウィンシャム公爵の体調悪化から資金繰りが苦しくなり、そこに国を追われたグレッグが転がり込んで暴走した、というのが実情のようだ。

 グレッグも公爵家の庭で偶然ノエルを見つけなければ、そしてクラリスたちを探していたノエルが看護師の噂話から二人の居場所を突き止めていなければ、あんな事件は起きなかったかったかもしれない。


「……ダントン公はいずれシエルハーンへ護送される。然るべき裁きを受けるだろう」


 こくりと頷く。頬に当てられたままの手がこすれ、体温が上がった。

 ハリントン男爵に対して複数の罪を犯したグレッグだが、シエルハーンで起こした罪のほうが重い。国家間の条約により、彼はシエルハーンの法で裁かれることになった。それも全ては兄ルーカスが国に戻り、教皇の祝福を得て戴冠してからのことだ。即位に関する手順は全て、王権神授説を唱えるエーベルと同じである。


 ――いままで ありがとうございました フレディとして過ごせた時間は とても幸せでした


 目の前が涙でかすむ。奥歯をぐっと噛みしめた。


 事件の後も、クラリスとヴィクターはただの「フレディとヴィク」として過ごしていた。王族だと知られればいち下級貴族の邸宅にはいられないし、何よりも二人がそう望んだからだ。


 ――たくさんのことを学びました


 小国の王女だから、自国のことをよく知っていると思い上がっていた。実際は何も知らないのに。使用人たちのこと。庶民の暮らし。民が毎日何を食べているのかすら。

 ウィンズロウ・ハウスでは賓客に近い扱いを受けていたが、二人が王族だと知るのはアレクシスとダンカンだけだ。ジュリアナはうすうす事情を察していたようだが、余計なことに口出しするつもりはなかったのだろう。終始ただの「フレディ」として扱ってくれた。本当に感謝の気持ちしかない。


 ――物事には色々な見方があるのだということが よく分かりました 自分の価値観と同じように 誰かの価値観も大切にしなければならないことも


 両親を殺した叔父のことは今でも憎い。だが……物事には様々な側面があることもまた、学んだことのひとつだ。

 もし、誰かが叔父の心に寄り添っていたら。

 もし、父が……同性婚に賛成はできなくても、一緒に良い方法を考えていたなら。そうしていたら、もっと違った道が開けていたのではないかと思えてならなかった。


 ――本当に 本当に ありがとうございました


 引き裂かれた母国を立てなおす兄を助ける。クラリスはそう決めていた。

 兄は自分たちを逃がすために片腕を失った。国は穏やかな王と王妃を失った。……私だけが何も失うことなく幸せになるなど、許されるはずがない。


「…………行くのか」


 王太子ルーカスはエーベルだけではなく、ルフトグランデの王太子とも親交を深めていたようだ。今回の件で彼の妹弟が男爵家に保護されていると知り、シエルハーンの王族として迎え入れると非公式の申し出があった。落ち着いたら帰国に向けた準備も始めてくれるそうだ。


 ショールに深く顎を埋め、息を吐きだす。湿った吐息で温められた空気が鼻孔に運ぶ、好きな人の匂い。

 クラリスは小さくうなずいて顔を上げた。


 アレクシスは何かを堪えるように眉を寄せ、口を引き結んでいる。


「国を立てなおすには資金が必要だろう。うちの関連企業をシエルハーンで立ち上げてはどうだろうか。もちろん個人的に無償の資金援助をすることも考えている。だから金のことは――」


 クラリスは激しく首を横に振った。

 

「なぜだ。ハリントンのものではない、あくまでも個人的な支援だぞ。必ず役に立つ。ただで受け取ることができないと言うなら、利息なしの貸し付けという形にしてもいい」


 クラリスはアレクシスの顔を見ながら首を振る。駄目、それはできない。だって私は――――


 ――アレクシス様のことが 好きです


 ハッと息を呑む音がした。アレクシスが目を見開いている。私の気持ちなんて、口づけた時に知っていたはずなのに。どうしてそんなに驚くのだろう。


 ――好きな人からお金を受け取ることは できません だいじょうぶ 兄妹弟三人でやっていきます


「しかし」


 ――お願い 私の恋を こわさないで


 金を受け取るのが駄目だと言っているのではない。ただ、叶わないこの恋を、損得で計れるものと引き換えたくなかった。愚かで純粋な、乙女の願いだ。


「…………そうか」


 ぽつりと言う。彼の声を聞くのも今夜が最後だ。胸がぎゅっと苦しくなる。


「……ジュリアナは、好きな男から求婚される時には指輪と花束が欠かせないと言っていた。君が受けた初めての求婚はあの男からだっただろう? 兄君がいる限り、二度とあんなことはないだろうが……きみの理想の求婚とはどんなものか、聞かせてくれ」


 突然変わった話題に瞬いたクラリスは、しばらく考えてから応えた。


 ――子供の頃から 花の咲く庭園に二人きりで 私の前に跪いてプロポーズしてほしいと思っていました 


 花びらの舞い散る庭園で、跪き愛を乞うアレクシスと、はにかみながらそれを受け入れる自分の姿。

 夢の中の情景だ。こぼれそうな涙を懸命に堪える。


「指輪と花束は? 無くても構わないのか? 随分安上がりだな」


 揶揄われて思わず微笑んだ。とうとう目尻から涙がこぼれる。

 保守的で家父長制が色濃く残るシエルハーンでは、自由恋愛は忌避される。クラリスもいずれ、王家にとって最も利益のある結婚を命じられるだろう。それはおそらく国内の有力貴族か、他国の王族が相手になるはずだ。

 クラリスは国を立てなおすための言わば「商品」だ。相手が誰であれ純潔であることは必須。だからこそ、アレクシスに全てを捧げることも、奪って欲しいと願うこともできなかった。


 ――お金はなくていいの 私を愛してくれさえしたら 他に何もいらないから


 手の甲で素早く涙を拭い、指先で言葉を紡ぐ。続けて別れの言葉を書こうとして…………アレクシスの手のひらに涙がいくつも落ちる。


 さようなら。たった五文字を書くことができない。次々に溢れる涙を何度も何度も拭い、濡れたアレクシスの手のひらをガウンの袖で拭く。

 ふわっ……と身体が熱に包まれた。目を見開いたクラリスはアレクシスの肩越しに月を眺め、自分が抱きしめられていることに気づく。


「きみは……きみは、私の生涯たったひとりの人だ。クラリス……どうかそれを、忘れないでくれ」


 青白い月が二人を照らしている。クラリスはぎゅっと目を閉じ……広い背中に腕を回した。涙がとまらない。クラリスはアレクシスの胸に顔を埋めた。月から隠れるように。






 翌朝、王家からの馬車にひっそりと乗り込む人影があり、その日からウィンズロウ・ハウスで「フレディとヴィク」の姿を見ることはなくなった。

 しばらくの間、使用人たちは二人のことを噂したが、当主と家令、そして当主の妹が揃って口を閉ざしていたため何か事情があると察し……やがて、彼らの話をする者は誰もいなくなった。






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