アレクシスの決断


 彼の衣類が高価なものだと知っていて、汚さないよう、皺にならないようにと遠慮しながら上着の端をつまんだのだ。そうまでしてアレクシスの意識を向けたかった理由は、ストロング警視監に渡したメモと同じ、ハリントン男爵邸ウィンズロウ・ハウスに居させてくれということだろう。


 意志を示す瞳の強さとは裏腹な、遠慮がちな仕草に胸が痛む。どれほどの苦難を乗り越えてここまでやってきたのか、アレクシスにはその苦労を察するだけの想像力と洞察があった。

 ジュリアナに受け入れられ、ようやく安心できると思った先のドミニクの提案だ。不安になるのも無理はない。それでも国家権力を後ろ盾にできる公爵家へ彼らを委ねるのが最善であることは間違いないのだ。


 しかし。

 先ほど危うく真相に迫りかけていたドミニクの推理。二人がバークリー公爵家に住むことになれば、当然ドミニクと接する機会も多くなる。もしドミニクがクラリスの性別だけではなく、二人がシエルハーンの王族だということまで突き止めてしまったらどうなるのか。


 軽率で短慮で甘ったれた従兄弟だ。母親であるバークリー公爵夫人と同じように、悪意など持ち合わせてはいない。だが重要な秘密を共有できるような相手でないことも事実だ。


 やはり、彼らの素性を明かすわけにはいかない。アレクシスはしぶしぶと、シエルハーンの王女と王子を自分の庇護下に置くことを認めた。

 

「ドミニク。ジュリアナには護衛がついているから心配する必要はない。ただ、その心遣いには礼を言っておこう」


 アレクシスは視線を妹へ移した。


「ジュリアナ。俺の仕立て屋テーラーに連絡して、急いで二人の洋服を誂えさせろ。それから家庭教師を手配するんだ。金に糸目をつけず最高の教師を雇え。教科はひとまず国語と歴史、礼儀作法あたりでいいだろう。気分転換には何をさせてもいいが、危なくないものだけにするんだ。言っておくが乗馬は駄目だぞ。無理のないよう日程表を作って、計画的に勉強させるように。進捗はお前が管理してくれ」


 兄の突然の要求にジュリアナは数度瞬き、ダンカンとドミニクは目を見合わせている。アレクシスは奇異に思われると十分に理解していたが、この姉弟を引き取ることになった以上出来る限りのことをすると決めていた。そう、シエルハーンの王族に相応しいことを。


「でもお兄様。二人はここで働きたいと言っていたわ」

「仕事などさせなくていい」

「いいえ、お兄様」


 ジュリアナはつんと顎をそらした。兄と自分の意見が違った時に出る仕草だ。アレクシスは嫌な予感を覚えた。


「私、もう決めているの。フレディはお兄様の従者にするわ」

「はっ?」

「えぇっ!」


 男二人は同じようにぎょっとして目を見開いている。ジュリアナは澄まし顔だ。


「何を言っている。俺に従者など必要ない」

「そ、そうだよ。アレクの従者は僕がすることになっているんだ」

「ドミニク、お前は黙っていてくれ」

「何を言っているのよ。次期公爵が従者なんてできるはずないじゃないの」


 あっさりと断じられたドミニクはしゅんと肩を落としたが、アレクシスはそれを面白く思う余裕もない。


「お前が引き取ると言ったんだぞ。自分で面倒を見るのが道理だろう」

「私は一言だって、この子たちを客人扱いで預かるなんて言わなかったわ。そうでしょう、バリー」

「はい。お嬢様の仰るとおりでございます」

「ちょっと待て。だからと言って何も俺の従者などに」

「お兄様」


 ついさっきまでいたずらっぽく目を輝かせていた妹が、両手を胸の前で組み合わせて急に悲しそうな顔になる。

 

「お兄様。ドミニクの言葉も一理あると思うの。私も未婚の娘だもの、いくら見た目が女の子のようでも、男性と四六時中一緒にいるのは好ましくないわ。私に悪い噂が立って婚期が遠のけば、亡くなったお母さまも悲しまれるはずよ。それに、もうずっとお兄様の身の回りの世話をする者はいなかったでしょう。バリーだって忙しいし、年齢も年齢だもの。あまり頼り切りになってもいけないから、この際正式に従者をつけるのはいい考えだと思うの」


 アレクシスは眉間に皺を寄せ、反論の言葉を飲み込んだ。

 妹の芝居がかった態度はともかく、ドミニクの指摘を否定はできない。ましてや亡母のことまで引き合いに出されては、アレクシスにできることはもはやないも同然だった。

 もちろんフレディが実は女だと明かせば全ては解決する。しかし、二人を引き受けると決めたからには、秘密を知る者は少なければ少ないほどいい。アレクシスは口を閉ざした。


「ねえバリー。あなたもそう思わない?」 

「はい。若は注文が煩さ……細かくていらっしゃいますので。無口で控えめで気が利き、若とお嬢様に色目を使わず、目の前に黄金を積まれても当家の内情を漏らさない者となると、おいそれとは見つかりません。ですが」


 ダンカンは言葉を切り、主の後ろに立つクラリスへ目を遣った。


「見たところフレディは賢く控えめで、主の上着を皺にしないだけの分別もある。ロナルド様から拝見したメモを見るに、大層字も綺麗でした。若のご要望に限りなく近い方かと存じます」


 アレクシスは心の中で思い切り舌打ちをした。したたかな妹と、主以上に注文の多い家令が結託すればろくなことはない。苛立ったアレクシスが二人を睨みつけた時、また遠慮がちな弱い力が上着に加わった。やれやれと思いながら見下ろすと、そこにはまた澄んだ菫色がある。


「……何か言いたいことでもあるのか」


 再び上着をつまんだクラリスは、アレクシスの目を見つめながら唇を動かした。何か言いたいようだが、読唇に慣れていないアレクシスにはさっぱり分からない。


「あ……フレディ、僕が伝えようか」


 弟が小声で助けを出すが、クラリスは弟を見て首を横へ振った。自分で直接伝えたいのだ。それからも何度かアレクシスに向かって口を動かしてみせるが結果は同じだった。


 紙とペンを持ってきたほうが早い。メイドに合図をしようとしたアレクシスの右手を、今度はクラリスがキュッと握った。


「何を――」


 咄嗟に握りしめた大きな拳を優しく開かせ、クラリスは手のひらを細い指先でなぞるようにして動かし始めた。

 文字を書いているのか。アレクシスが驚きながら目で指の動きを追うと、だんだん彼女の伝えたいことが分かってきた。


 ――どうかわたしを あなたのそばで はたらかせて


 分かりやすく意志を伝えるためだろう、長い文字を綴るのを避けた砕けた言葉だった。絶体絶命の危機をアレクシスに救われたことで、弟の分も合わせて何とか恩を返したいと思っているのだ。

 だがクラリスは王女で、女性だ。それこそ四六時中男と過ごすのは不適切だし、何より王女に従者などさせられない。


「いいか、君たちのことを考えたらむしろ――」


 アレクシスが納得していないと分かったクラリスは、また文字を書いた。アレクシスの広げた手を支え、右手の人差し指で手のひらをなでるようにして書かれた短い文字は、彼がいつも目にするものよりずっと特別に思える。


 ――おねがい どうかわたしを あなたのそばに 


 アレクシスは顔を上げ、クラリスの顔を見つめた。必死の様相で見つめ返すクラリスと、どことなく不安そうな弟のヴィクター。握られた手にクラリスの体温が伝わる。胸に不可解なほど大きな感情が押し寄せたが、それが何なのかアレクシスには分からなかった。


「お兄様、どうしたの?」


 ハッとしたアレクシスは、勢いよく手を振りほどいた。


「いや。何でもない」

「でも……」

「ジュリアナ。お前の言うことも尤もだ。彼は俺が引き受けることにしよう」

「本当!?」


 ジュリアナは兄の突然の変化に目を丸くしている。アレクシスは続けざまに指示を出した。


「ああ。だがさっき言った家庭教師の件は二人とも受けさせるように。勉強以外の時間はフレディを俺が、ヴィクターをお前が面倒をみることにする。それから言っておくが、従者といっても見習いだぞ。地味な仕事ばかりだ。根を上げるようならすぐに辞めさせてお前に任せる。いいな」

「アレク、従者は僕が……」

「お前を従者にすることはできないと言っただろう。だがその代わりに、二人に礼法を教えてくれ。回数はジュリアナと話し合って決めればいい。相応の謝礼を支払おう」

「やった! 母上も喜ばれるよ」


 自分の意見を受け入れてもらった妹と、目先の仕事を与えられた従兄弟はきゃっきゃと喜び合っている。アレクシスは自分が引き受けると決めた二人に向き直り、厳しい口調で告げた。


「二人とも、すぐに仕事だ手伝いだと気を遣うのはやめろ。今のお前たちに必要なのは、ゆっくり休んで栄養を十分に摂ることだ。無理をして病気にでもなられたら敵わんからな。それから俺の庇護下にある以上、一番重要なのはお前たちの安全だ。自分勝手な振る舞いはしないよう気をつけてくれ」


 ひと息に言いきって、それでも足りないと言わんばかりに辺りを見回した。


「ぐずぐずするな。皆、俺が言ったことを今すぐ始めるんだ。さあ、早くしろ!」


 ジュリアナは上機嫌で、二人の背を押して歩き始めた。クラリスは喜びと戸惑いの入り混じった顔でアレクシスを見上げ、ぺこりと頭を下げていく。


 部屋がしんと静まり返る。アレクシスはメイドまで追い出し、ようやく一人きりになった応接室でため息をついた。椅子に座りかけたところで思い直し、部屋の隅のワゴンに歩み寄る。

 酒瓶の蓋を外し、勢いよくグラスに注いだ。アルコール度数の高い蒸留酒だ。グラスの酒は指四本分はある。

 迎え酒だ。明日はもっと酷い頭痛に襲われるかもしれないが、それでも構わなかった。琥珀色の液体を一気に流し込む。喉を熱の塊が流れ落ち、一拍遅れて脳天にガツンと衝撃がきた。

 タン、と音をさせてグラスを置き、再びため息をついて椅子に座る。目を閉じながら右手で額をこすった。


 顔が熱いのは、きっと酒のせいだ。

 

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