目利きの証

「ああっ!」

「ブランドン、いい加減商売に戻らないか」


 商売。仮面で隠された客の顔を見上げていたブランドンは、数拍おいてから咳払いをした。


「……失礼いたしました。あのう、話に戻る前に念のためお伺いいたしますが」

「ルイからこの時計を決して手放すなと口酸っぱく言われていてな。どこの誰に強請ねだられたとしても売ることはできん」


 ですよね。肩を落としたブランドンは、売り込もうと思っていた時計がまだ自分の手の中にあるのを見て驚いたように瞬きした後、大きなため息をついた。


「仰りたいことはよくわかりました。確かに、貴方がお持ちの時計と比べれば、世に出回っている高級時計を全て集めたとしても色あせてしまうでしょう」

「ああ。分かればいいんだ」


 興奮のあまりかいた汗でペシャンコになった髪を手で整えていたブランドンは、客のあまりにも横柄な物言いにイラッとした。こいつ、こっちが下手に出ていればつけ上がりやがって。


「ミスター・A。では、次のお品についてご説明してもよろしいでしょうか」


 ブランドンは今日一番の笑顔になった。客商売をして長い彼は、腹の立つ客を相手にするときほど笑顔になるのだ。


「聞かせてもらおう」

「はい。ではどうぞこちらへ」


 客を部屋奥の壁前へと誘った。そこには小さな絵が飾られている。


「こちらでございます」

「先ほど見せてもらったエバンスはどうした」

「エバンスは確かに素晴らしい画家ですし、先ほどご覧いただいた絵も大変高価なものでございます。しかし、ミスター・Aのご慧眼に見合うかと考えましたら、いささか力不足かと思い至りました」

「それでこの絵か」

「はい。そう値の張るお品ではございませんが、私が何よりも気に入っているこの絵をご覧いただきたいと思いまして」


 ミスター・Aは静かにその絵を見ている。背の高い彼と並んで立てば、ブランドンとの身長差が一層際立った。


「これは……ネヴィルか」

「っさすが! よくお分かりで」


 まさか画家を言い当てると思っていなかったブランドンは舌を巻いた。端正な横顔をみせる客は、変わらず絵をじっと見たままだ。


 ジョナサン・ネヴィルは写実的な画風の人物画で知られる画家だ。

 その筆致は硬質かつ静謐。暗い色合いながら肌の柔らかさや髪のしなやかさを余すことなく表現し、特に彼の描く人物の瞳には魂が宿っていると言われている。確かに、虹彩まで細かく書き込まれた瞳を見ると、そこに自分が映っているような気になるから不思議なものだ。

 だが、近年の画壇の流行には乗れておらず、市場価格はおしなべて低かった。かつ、彼は昨年亡くなっており今後作品が増えることはない。ブランドンはそこを狙ったのである。

 ネヴィルの絵は必ず売れる。それならば、投機目的で早めに購入しておくべきだろう。

 ということで、号数の大きな絵を何枚か購入し、値上がりするのを待って寝かせているところだ。元々美術には全く興味はなく、仕事上の知識を備えているにすぎないブランドンだが、自分の嗅覚には自信があった。


 しかし、この絵はネヴィルの得意な人物画ではない。

 パステルタッチの水彩画は、彼の故郷を切り取ったものだ。戦禍にまみれ今はなくなってしまった小さな村。その生家の窓から見た、彼の記憶の中にしかない景色だった。


 ブランドンが些か特別な入手経路でこの絵を手にしたのは、気に入ったなどというウェットな理由ではなく、単に金になると踏んだからにすぎない。ジョナサン・ネヴィルの描いた水彩画で残っているのは、ブランドンの知る限りこの一枚のみ。重厚な人物画で知られるネヴィルの絵が高騰してから、彼のエピソードとともに売り込む予定だった。


 当初ミスター・Aに売ろうとしていたのは、既に市場で高く評価されているエバンスの絵だった。しかし、この客を感心させるには普通の品ではだめだ。ちょっとひねったつう好みのもの。金額ではなく希少価値の高い、感性に訴えかけるものでなければならない。


 当然ネヴィルのことなど知らないだろうから、不世出の画家として若干脚色した解説をしてやるつもりでいたブランドンだが、ミスター・Aと名乗る男は予想以上に見る目があるようだ。この世の中に、あの水彩画がネヴィルの作だと分かる者が何人いるだろう。正直に言えばプロの自分でも自信はない。ブランドンがそれを知ったのも、入手の際にたまたまネヴィルを好きな画商崩れが一緒にいたからだ。


 金を持ち、見目も良く、そして専門家も顔負けの大変な目利き。

 ミスター・Aの反応が商人としての自分の評価のように思え、柄にもなく緊張しながら男を見つめていたブランドンは、ぽつりとつぶやかれた言葉で有頂天になった。


「……いい絵だな」


 グッとこみ上げるものがある。ブランドンは平静を装ったが、声は奇妙にかすれていた。


「お気に、召していただけましたでしょうか」

「ああ」


 やった……! ブランドンは心の中で拳を突き上げた。

 やれやれ、なかなか難物だったが、成約にこぎつけられて何よりだ。ブランドンはホッとして、絵に幾らの値付けをするか素早く計算した。本来なら寝かせてこそ価値の上がる絵だ。だが、商売人として自分の見る目に対するプライドもある。あたら安値で売りたたくことはしたくない。

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