【完結】ハリントン男爵アレクシス・ハーヴェイの密かな悩み
ひなのさくらこ
第一章
悪徳商人ブランドン・クーパー
「つまらんな。他のものを出してくれ」
渾身の逸品を言下に、しかも続けざまに否定され、クーパー商会会頭ブランドン・クーパーは頬を引きつらせた。
「お客様。これほどの宝石をつまらないなどと……」
「八十カラットのルースダイヤ。黄味ががっているがイエローダイヤと判定できるほどの発色はない。光り方からみてもう少しカットしないとグレードは上がらないだろう。この程度のものならいくらでも転がっている。もっと驚くようなものを持ってこい。俺を失望させるな」
ちらりと見ただけで言い当てるとは大した目利きだ。しかしカットした状態でこの大きさとなれば希少性はかなり高いのにこの言われようとは。ブランドンは手もみしながら、横柄な視線を寄越す客をさりげなく盗み見た。
目元を黒い仮面で隠した客は、クーパー商会の地下にある、賓客だけが入室を許される秘密の部屋の中にいた。
恐ろしく整った顔だちの男だ。斜めに流した黒髪に高い鼻梁。仮面越しに見える瞳はハッとするような青。背は高くすらりとしているが、広い肩幅と身体の厚みでひ弱な印象は微塵もない。
男は商会の中で最も座り心地がよく、値段も一番高い椅子に寛いだ様子で座り、手すりに肘をついて指先で頭を支えている。
たった一人で初めての店へ、ましてやクーパー商会の裏の商売を聞きつけてやって来たにしてはリラックスしすぎではないだろうか。ブランドンは改めてこの見知らぬ客を観察した。
金を持っているのは間違いない。深いブルーの上着の肩には飾り徽章と金のモール。襟元に特徴のあるこのデザインは、ファッションの発信地として知られる隣国エーベルの最新流行だ。多種多様な商品を仕入れるクーパー商会でも、まだ一度も取り扱ったことのない品だった。
おまけにあの生地。ブランドンは男を案内する際間近に見た上着の織地を思い出し、心の中で感嘆のため息をついた。
あれは近年交易を始めたばかりのサノイ国で作られる希少な絹織物だ。特別な蚕の糸を紡いで織った美しい布は、驚くことに染めなくても深い藍色をしている。どうやら蚕ではなく食べさせる桑に秘密があるようだが、それ以上のことはわかっていない。
その糸で織った布は空と海を写し取ったかのような色合いと希少性から「天海の稀布」と名付けられ、美しさと軽さ、加工のしやすさから取引を希望する声が引きも切らない。だがごく僅かしか産出されず、高値をつけたくとも市場へ出回ることすら滅多にないため、人々がその布に言及する際は「幻の」と冠されるのが常だ。一説によると布地一反が同じ大きさの黄金に匹敵するとまで言われているほどだった。
到底一般庶民の手に入るものではなく、そんじょそこらの貴族でもおいそれと購入できるものではない。せいぜいチーフやタイの一部に取り入れるのが関の山だ。
しかしこの客は希少な天海の稀布で仕立てた服を惜しげもなく身に纏い、平然と椅子に腰かけている。目の玉が飛び出るほど高価な布地だと理解しているブランドンがハラハラするほどの無頓着さだ。
――これはどう見ても、警邏の犬ではないな。
知人から客を紹介したいと言われたブランドンは大いに警戒していた。最近、違法な商品を売買する闇ルートの摘発が相次いでいる。そんな折に紹介された
だが、結局それも杞憂だった。決して高給取りとはいえない彼奴らが、たかだか商人を捕まえるために、こんなに金をかけて変装するはずがない。
となると、やはり目の前の男は正真正銘の、しかもそんじょそこらの成金とは桁違いの金持ちということになる。ブランドンは緩みそうになる顔を引き締めた。こういう本物の客をモノにできるかどうかで商人の真価が問われるというものだ。
宝石にはそれなりの知識はあるようだが、やはり
――よし。少々吹っかけてやろう。
なあに、これだけの金持ちなら細かいことは気にしないはずだ。何なら盗品を売りつけてもいい。この手の客は自分を目利きだと過信しているぶん、納得して購入したものを疑うことはない。よしんばゴタゴタ言い出したとしても、自分は商人として持ち込まれた品を扱っただけだと言えば済む。
悪い顔になったブランドンは、心の中だけでにやりとした。
クーパー商会の経営は順調そのものだ。品揃えは豊富で質もよく、客層は平民から貴族までと幅広い。中でも社交界に顔のきく伯爵夫人に伝手があり、サロンへの出入りも許されている。
だが、この見知らぬ客の紹介者はクーパー商会の裏の顔、非合法取引の関係者だ。その紹介者からはくれぐれもよろしく頼むとしか言われていないが、おそらく裏の商売で扱う「特別な商品」を聞きつけてきたに違いない。
となると、こいつも相当なワルだな。ブランドンは手入れの行き届いた指先を軽く組み合わせてにっこりと笑う。ではまず表の商品を売り、客のほうから裏取引に言及させることにしよう。焦らして焦らして勿体つけてから、できるだけ高値で売りつける。そうすればもはや互いに後ろ暗いところを持つ仲間。太客として今後も末永く付き合っていけばいい。
心の中で舌なめずりしながら、ブランドンはいかにも人のよさそうな顔でへりくだった。
「お客様。お言葉ではございますが……」
「その『お客様』という呼び方はやめてくれないか。その他大勢と同じように呼ばれるのは嫌いなんだ」
ブランドンはつや出しを塗ったまつげを――美味いものに目がないおかげで体形はビヤ樽のようだが、彼はなかなかに美意識が高いのだ――をパチパチとさせた。裏の商売で自分の名前を簡単に明かす客を見たことがない。お互いに信頼関係ができてからならともかく、初見であれば支払いも記名が必要な小切手は使わず、現金で行うのが定石だった。
「そうは仰いましても」
「おまえだって特別な客とは名前で呼び合っているんだろう」
「まあ……それは、それなりに深いお付き合いがあるお方とは、ですが」
「では、俺もおまえのことをブランドンと呼ばせてもらおう。問題があるか?」
つまり、この客はクーパー商会にとって「特別」になるほど金を落とすということだ。ブランドンは握り合わせた両手に力を込めた。
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