(一)平家にあらずんば

一一一八年、清盛は伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生を受けた。生母は

白河法皇の寵愛ちょうあいを受けた祇園女御ぎおんのにょうごである。忠盛は後に正室・池禅尼との間に家盛、経盛、教盛、頼盛などの子を設けた。

清盛は祇園女御の庇護ひごもとに育てられ、十二歳で従五位下じゅごいのげ左兵衛佐さひょうえのすけに叙任される。


  ・・・・・ 女御が白河法皇から忠盛に下げ渡された時、既に法皇の子種を宿し

  ておったという話をしたであろう。つまりは清盛は法皇のご落胤らくいん、正室の子

  でもないのに嫡男として扱われた理由はここにあったのじゃ。

  法皇に忠誠を誓う忠盛は武家でありながら唯一昇殿を許されてな、源氏は大きく

  差をつけられることとなってしもうた。


清盛は成人すると高階たかしな基章の娘との間に嫡男・重盛と基盛を、継室に迎えた平時子との間に宗盛、知盛、徳子(後の建礼門院けんれいもんいん)らを儲けた。

一一五三年、忠盛の死後、平氏一門の棟梁を継ぐ。


  ・・・・・ 時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代ほうがんだいでな、信西らとともに院庁

  の実務を担当しておった。その伝手つてもあって清盛は、四宮の側近となった信西と

  よしみを通じることができたのじゃ。

  清盛は安芸守に任じられると、瀬戸内の海運を支配下に置いて宋との貿易に乗り

  出した。平家の繁栄を支えたのは日宋貿易で生み出された経済力と言っても過言

  ではない。彼奴あやつの才覚には脱帽するほかあるまいて。

  その頃からであろうかの、宮島の厳島いつくしま神社を殊更に信仰するようになったと

  聞いておる。


保元の乱(一一五六)では信西の求めに応じて後白河陣営に加わり戦いに勝利した。この後、清盛は播磨守に任じられるなどめきめきと頭角を現していく。

平治の乱(一一五九)では源氏を撃破する。この戦いで信西を失うが、亡き盟友に

代わって自らの政治的地位を高め、武士として初めて公卿(正三位しょうさんみ)に昇進した。

一一六一年、後白河上皇が最も寵愛する滋子(時子の妹、建春門院けんしゅんもんいん)との間に憲仁のりひと親王が誕生した。すると後白河の近臣が憲仁の立太子りったいしを画策する。この動きに二条天皇は激怒し、平時忠(時子の弟)、教盛、藤原成親らを解官して後白河の院政

を停止させた。


  ・・・・・ 継室の時子が二条天皇の乳母であったことから、清盛は天皇の後見

  として中納言になっておった。ところが後白河の院庁の別当べっとうでもあったので

  な、上皇と天皇の双方に仕える難しい立場に置かれていたのじゃ。

  この時、さすがは清盛じゃな、二条天皇への支持を明確にして厚い信任を勝ち取

  ることに成功した。更には関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも

  緊密な関係を結びおった。

  一方で政治から排除された四宮への配慮も怠ることなく、蓮華王院れんげおういん(三十三間

  堂)を寄贈するなどして磐石ばんじゃくの体制を築いたのじゃ。


二条天皇に順仁のぶひと親王が誕生した。

体調を崩していた二条天皇はわずか二歳の順仁(六条天皇)に譲位し、二十三歳の

若さで崩御した。後継の六条天皇は幼少のため、近衛基実が摂政せっしょうとして政治を主導することとなる。清盛は大納言に昇進して娘婿である基実を補佐した。

一一六七年、清盛は武士として初めて太政大臣に任じられる。家督・重盛は権大納言ごんだいなごんに昇格、他にも四人の公家を輩出するなど平家一門の隆盛はここに頂点を極めた。


・・・・・ 近衛基実が急死すると、清盛は基実の領していた摂関家領を後家の盛子に相続させた。あの頃は、平家のやりたい放題じゃった。

「平家にあらずんば人にあらず」とか、平時忠が調子に乗ってほざいたそうな。


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