(三)平治の乱

保元の乱とは即ち、皇位を巡る皇室内の争いと、摂関家内部の主導権争いが絡まって起きた内紛であった。この乱に勝利した後白河天皇は、荘園しょうえん整理を主たる内容とする『保元新制』を発令して天皇親政の確立を図った。これら一連の流れに糸を引いていたのが信西である。

ここにもう一つ別の政治勢力が台頭してきた。美福門院を中心に、東宮・守仁の擁立を図る一派である。もともと後白河天皇は守仁親王が即位するまでの中継ぎとして実現したものであった。美福門院は信西に働きかけ、後白河は守仁(二条天皇)に譲位させられることとなる。


  ・・・・・ 朝廷ではまたしても後白河院政派と二条親政派の対立が始まり

  おった。全くもって懲りぬ連中よのう。

  今は四宮に仕える信西も元はと言えば鳥羽法皇の側近じゃで、美福門院とは

  深い繋がりを有しておった。それで否応いやおうなく譲位させられるはめになって

  しもうたのじゃ。

  四宮としては自分を第一に支えてくれる側近の育成が急がれておったのだが、

  とは言え、よりによって信頼のぶよりなどという阿呆を抜擢ばってきするとはな。


平治元年(一一五九)、信西の専横せんおうに不満を持つ後白河院の近臣・藤原信頼らが

二条天皇親政派と手を組んで兵を挙げる。平清盛が一族を引き連れて熊野に参詣さんけい

したすきを突いての反乱であった。

信頼に同心した源義朝の軍勢が院の御所・東三条殿を襲撃し、後白河の身柄を内裏

の東にある一本御書所いっぽんのごしょどころに移して幽閉した。二条天皇も清涼殿の一廓に軟禁状態に

されてしまう。

信西は山城国田原まで逃れたが、発見され自ら喉を突いて自害した。信西の首は京

に戻され、獄門にさらされた。


  ・・・・・ 信頼の一門は武蔵や陸奥を知行地としていたのでな、義朝ら源氏の

  一族とは繋がりを深くしておった。義朝も保元の乱の後、報奨や身内への後始末

  について信西を深く恨んでおったからの。


熊野で都の異変を知った清盛は、帰京すると信頼に名簿みょうぶを提出して恭順の意を示した。

ところが朝廷では、今度は信頼の専横が始まる。これに反発した二条親政派の藤原経宗つねむね惟方これかたは秘かに清盛と接触を図り、二条天皇を清盛の邸である六波羅ろくはらへと逃がすことに成功した。

天皇を手中にしたことで平家こそが官軍となった。兵の数に勝る平家軍は六条河原において信頼ら源氏軍を散々に討ち破った。


  ・・・・・ 信頼らには大義がなかった。これでは信西憎しの者が集まっての

  反乱に過ぎぬであろう。二条の近臣にとっては、信頼が信西に替わって権力を

  欲しいままにするのでは全く意味が無いということだわな。信頼の阿呆は酒に

  浮かれている隙にまんまと天皇を奪われてしまったのじゃと。

  四宮は変わり身が早いでな、信頼や義朝らをさっさと切り捨てて反乱者として

  追討の宣旨を下しおった。四宮にしてみれば、自らの院政を妨げていた信西が

  廃されて一応の成果は手にしたということであろうな。

  この戦いによって長年に亘り繰り返されてきた天皇家や摂関家内部の争いが、

  武力でもって一気に片付けられてしもうた。即ち、ここが武者の世の幕開けじゃ

  と言うても相違あるまいて。


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