(一)治天の君

藤原氏が朝廷を牛耳っていた摂関政治の時代が終わりを告げ、時は天皇の父が実権を握る院政の時代へと移っていく。

白河天皇は応徳三年(一〇八六)、当時八歳の善仁たるひと親王(堀河天皇)に譲位して『太上だいじょう天皇』(上皇)となるが、幼帝を後見するため『白河院』と称して引き続き政務に当たっていた。


  ・・・・・ そもそも上皇とは何ぞや。

  皇位継承の安定のためとは言うがな、早い話がおのれの血筋に皇位を継承させんが

  ため「自らの目の黒いうちに我が子に譲位してしまえ」という魂胆こんたんが見え見え

  であろう。これが院政の始まりなのじゃ。

  白河上皇の後、院政を布く上皇は『治天ちてんの君』、即ち事実上の君主として君臨し

  た。その一方で天皇は、まるで『東宮とうぐう』(皇太子)のようになってしもうた。


院の権勢を弓矢で支える集団が台頭してくる。それが二つの武士団、源氏と平氏である。武士たちは院御所の北側の部屋の下に詰め、上皇の身辺を警衛し、あるいは御幸ごこう供奉ぐぶした。これを『北面武士ほくめんのぶし』と言う。

武力を持たない院や摂関家は競って武士たちを雇い、それぞれ直属の兵を組織して自らの身を守るようになる。しかし武士に昇殿しょうでんが許されることはなく、公家との身分の差は天と地ほどに大きなものであった。


  ・・・・・ 当然のこと、院側は政治の実権を巡って藤原摂関家と対立すること

  になるわな。院は摂関家の勢力を削ぐべく虎視眈々こしたんたんと機会を狙っておったので、

  その矛先ほこさきは摂関家に仕える源氏にも向けられることになったのじゃ。

  朝廷は東国の八幡太郎義家の嗣子ちゃくし・義親を、あろうことか西国辺境の対馬守に

  任じた。すると直後の一一〇一年、「義親が九州で略奪を行い官吏を殺害した」

  との訴えが届けられたのだ。何があったのかは儂には分からぬがな、東国の義親

  を慣れぬ西国に配したこと自体、源氏の勢力を削ごうとした白河院のはかりごとでは

  ないかと疑うておる。


この乱を制圧したのが伊勢平氏の平正盛であり、この後、白河上皇は平氏を殊更に

重用した。

一方、源氏は摂関家ともども厳しい立場に置かれることになる。折悪しく、義家の後を継いだ義忠が身内の内紛で暗殺されるなど、源氏は凋落ちょうらくの一途を辿たどることとなった。

源氏の若き棟梁となった源為義ためよし嫡男ちゃくなん義朝よしともを関東に、八男・為朝ためとも鎮西ちんぜい(九州)の領主に預けた。都で権勢を誇る平氏に対して、地方を足掛かりに劣勢の挽回を目論んでのことである。


  ・・・・・ 平正盛の嫡子・忠盛は白河院が祇園女御ぎおんにょうごの元へ通う時も警護にはべ

  ておった。後に女御の下げ渡しを受けたのだがな、この時、腹の中にいたのが

  清盛であった。みるみるうちに忠盛が出世を遂げた、というのも理解できる話

  じゃろう。

  一方、為義は摂関家の長者・藤原忠実ただざねを頼って、次男の義賢よしかたを「日本一の大学

  生」とも言われるほど将来を嘱望されていた頼長(忠実の三男)に奉仕させた。

  義賢は後に木曽義仲の父となる男なのだが、かなりの美男子であったそうじゃ。

  何せ頼長は、男色の趣味が激しかったというからの。

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