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 明くる日、タイラーはエマを連れて街道を歩いていた。彼は――この森で、この街道で――二人だけの散歩がしばらくぶりのように思える。理由はとすると、このごろ外出を避けた生活をしている。彼に関してはそうでもないが、エマは特にそうだった。何もなかった頃のように、自由に遊びに出掛けるにはまず危険を排除しないといけない。

 されど、この点に関して、完璧に排除したと判断できるものなどいるだろうか。もう安全だ、と多くの者たちは口にしている。国の兵士もやって来た。村の住人も次第に生活を戻している。

 だが、紛れもなく、安全だと口にできる者はいないだろう。

 もとのように穏やかな森に戻ったのかは、正確さを持って述べることは、タナラ村の住人も、森を歩き回る兵士も、誰であろうとできない。

 一度起きた出来事は、人々のなかに深く傷として残っている。消えるといいのだが。消えないこともまた大事なことであり。

「タイラー」

 エマはそう言って、足を止める。彼女は間延びした呼び方をした。タイラーは彼女の癖ある呼びかけが自分の名前ではないように聞こえる。響き方が、(何でもいいが)日用品の名前でも呼んでいるかのように思えた。

「うん?」と彼は言う。こういう響き方の時は、たいしたことではないことが多いと知っている。

「なにかいた」

「なにか?」タイラーは調べる。茂った草の影が目についた。しかし、生き物がいるようには見えない。「なにかって、なんだ? 鹿か?」

「なにかいた」

「それを聞いたつもりなんだけど」

 タイラーは念入りに調べてみようとする。「いる」と言われても、気配も感じない。もし潜む者がいるとして、正体を知るのは大事だ。危ない生き物なら近づかない。村の大人たちに伝える。だが、こうも何も感じないとすると。

「なにかいるようには見えないが」

「なにかいた」

 タイラーはエマの手を取る。彼女が走り去っていくような気がした。そこにはほんとうに得体の知れない生き物がいて、彼女の目には映っていて、夢中で追いかけるのではないかと思えた。

 エマは彼の顔を見る。「どうしたの?」とでもいうような顔で、瞬きを繰り返す。

「タイラーの手、温かい」

「そうか? エマの手も温かいとおもうが」

「じじは、くさい」

「くさいって」タイラーはいかにも難しそうに笑う。真正面から体当たりしていくかのような発言に困ってしまう。

「えっと、タバコか?」

 エマは黙ってしまう。

 煙草なのかな? タイラーは真相はわからなかった。彼女はそれらしい反応をしなかった。

「なにかいたって、魔女ではないよな?」彼は話を続ける。

「魔女?」

「あの背の高くて、綺麗な女の人。ドレスを着た」

「ううん」

 エマは首を振る。赤い髪の毛が大きく揺れた。全然違うらしい。魔女ではなかった。

「だとすると、なんだろ」

 森はいつにもまして静かだ。もちろん自分の存在を主張する生き物はいる。ここが緑いっぱいの森のなかであることを忘れてはならない。地面を見れば、虫が歩いている。それは樹木でもいい。鳥も仲間に向けてだろうか、どこかで鳴いている。

 豊かで安らかな時間が流れた。

「エマ」

「エマ?」タイラーは彼女を見る。

「エマ、おなかすいた」

「そうか。ご飯は、家に帰ってからな」

 もうそんな時間か。タイラーは一息吐くと、とくに理由もなく振り返る。もっとはやく家に帰るつもりでいた。エマがお腹空いたというのなら、もう昼食の時間帯なのだろう。

 彼は歩き出す。

「前に聞いたんだけど。ジュナさん、もう帰ろうと思ってるって」

「ジュナ?」

「赤森の魔女」

「まじょ」

 エマはそう言うと、俯く。そうして彼女は口元に片手をもっていく。少しして、腕をおろした。「タイラーに会いに来た」

「そう、その人。でも、正確には、俺に会いに来たわけではなくて」

「タイラーじゃない?」

「俺じゃない。あの人は、俺に会いに来たわけではなかった。会いたかったのは、俺の父さんと母さんだった。だから、もう帰っちゃったかもな。見ないし」

「タイラーのお父さんとお母さん」

「居場所なんて聞かれても、わからないよ」

 エマは黙ったまま見詰める。ちゃんとは物事をわかってはいないだろう。もとよりこの一件は、彼女どころか全体を把握できているものなどいないのだから。

 タイラーはその顔を見て、薄く笑んだ。

「俺がおしえてほしい」と彼は言う。

 赤森の魔女ジュナ・コーデンにくわしい話を聞くことはできない。彼は彼女に会える機会はあっても、両親について尋ねることまではしなかった。なぜならば彼女が二人のことをよく知っているとはとうてい思えないからである。彼女は危害を加えられた側の立場にある。自分を害した相手であるその二人が、「何をしているのか」、「何をしてきたのか」など知っているわけがないだろう。

 最低でも、タイラーの両親と会っているのは確かだ。だが、いちど会っているからといって、二人のことをすべて知っているとはかぎらない。

 憎いはずだ。そんな彼女に二人のことを教えてとは聞けないだろう。この二年間でもいいと。タイラーには無理だった。

「エマがいる」

「エマ、が?」彼は彼女の言葉が何を意味しているのかわからない。繋がらなかった。

 俺は一人だ、と思ったと。そう考えたのだろうか?

「ああ、そうだな」

 タイラーは彼女の手が弱い力で握り返したことを感じとる。やわらかい手から気持ちが伝わったような気がした。妙かもしれないが、だんだんと湧くように元気が出てくる。

「ソラも。じじも」

「そうだな」タイラーは頷く。そうだ、と彼は心のなかでもいう。「でも、エマ。タイロンおじさんを困らせるようなことはしないようにしないとな」

「うん」

 彼は聞いて、昨日、ソラとのあいだに起きた出来事を思い出す。胸のざわめきが抑えられなくなったあとのことだ。彼は一人でいられる場所を探して、そこに跳びつくように身を縮めた。まるで何もできない、怯える子供のようだった。身体の内側でも確かめるかのようにして、彼は対象に光を当てようとする。どうして、こうも疼いてしまうのだろう。それもよくわからない。黒い影でも覆い尽くしているようで彼は原因が見つからなかった。感情が働き、激しさをもって暴れている。落ち着いてはいられない。

 悲しみが行き場を探す。身体の中からどこにもいけない。あるいは出ようとする。激しさは増す一方であり、抑えがきかなくなる。放っておけば自分では手に負えなくなる。彼は怖くなった。だから、走り去ったとも言える。

 なんでもいいから吐き出してしまえば、楽になれたのだろうか。

 ソラは鳴いていた。頭を擦りつけるようにして下から上へと動かし、相手の反応を窺っている。鳴いてはやめて、鳴いてはやめる。決まりがあるわけではないだろう。どのような時にもっとも適して、もっともいい声量で鳴けばいいのかわかっているわけでもない。ソラはタイラーのようすをその目で見て、暗闇のなか感触を頼りに彼を探し求めている。

 彼は追い払おうとはしない。一人になろうとした結果がこれだ。それでも竜を手で払いはしなかった。大きな声を出すことだってしない。罵るなんてものはしなかった。自分を見失いそうにはなるが、彼は身体の奥のほうで消滅したわけではなかった。

 暗い森のなかを歩いている。消えることはなく。

 タイラーは鮮明に思い出す。ソラに慰められたわけだ。幻獣であるソラからしてみれば、どうして悲しそうにしているのかその理由も定かではない。だが、その気持ちを感じとった。どうにかやわらげようとしたわけだ。

 わからないことだらけ。会いたい。侵食するように、彼は自分でもよく分からなくなっている。

「ソラに、元気を出せって言われた」

「ソラに?」

 エマは足を止める。口が小さく開いていた。舌が見える。

「ほんとう?」と彼女は言う。

 タイラーは間を置いた。「ああ」とだけ伝えた。そして、彼は歩き始める。

「もしな。もしものはなし」

「もし?」

「ほんとは、どうすれば正解なのかわからないんだけど、ソラを仲間のもとに連れていくついでに、俺も父さんと母さんを探すのもいいかもしれないと思ってる」

「……うん」

「いつにするとか決めていないんだけどな。もしはやくするなら、今すぐにでも家を出て」

「山にいく?」

「そういうことになるな。おじさんがいるから、あまり自由にはさせてはもらえないかもしれないけど。パラノマ山に行ってさ」

「じじも、探す?」

「じじも――。そうだな、頼んでみるのもありかもな。父さんと母さんを探したい、って。もし伝えてダメだったら、そのときは身体が大きくなってから、俺一人だけでも探しに行くのもいいかも」

「大きく」彼女はゆっくり口にする。「エマも」

「エマも? ああ、エマもな。一緒に」

「タイラー。遅いと、どうなる?」

「遅いと」彼は考えた。そのようすを思い描いてみる。「『遅い』と、それは、ソラとエマと一緒に行くことになるかもしれないな。その頃だと、エマは身体が大きくなっていて、ソラも今より大きくなってる。ソラは『竜』だから、俺らより大きいかも。針尾竜だから、その頃になると、どうなんだろうな。背中に乗れたりしてな。あの空を高く」

「のれる」とエマは呟く。

「もしかしたら、おじさんも一緒かもしれない。そうなると、いくらソラが大きくても、ソラの背中には乗れないかもしれないな」

「ソラにのれない?」

「さすがに三人は重いだろ。ソラも疲れるだろうし。エマが、ソラを重いって言うようにさ。でも、そうだな。そのぐらいになれば、父さんと母さんを探すことも、もしかしたらおじさんもその気になってくれるかも」

 エマは黙ってしまう。彼女は想像でもしているようだった。いま、青い空の上でも飛んでいるのかもしれない。もしくは地上を歩いているか。

 タイラーは身体の奥が温かくなる。たとえ思い描いた光景が、はっきりとは想像ができずいくらか不細工ではあっても、とてもすばらしく思えた。

「どうした?」

 タイラーは不意に気になり問いかける。彼女が森の奥側を見詰めている。

「だれかいる」

「三人」彼は一瞬で数えた。「村の人、ではないな。町から来た兵士だとおもう」

「兵士」

「まだ、安全ではないのかもしれないな」

 彼は家へと急ぐことにする。そうしたほうがいい、と何者かがささやいていた。

「帰ろう」

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