【長編】接吻×チャンバラッ!! ~狐面の彼女は赤面を隠し切れない~
音乃色助
序.
0-1
暗がりの大通りを一人だらだらと歩いていたら、遠くに眩い光の塊が見えた。歩みを進めて近づくことで、それがコンビニエンスストアの電飾看板なのだと理解する。空腹を思い出した僕は街灯に引き寄せられる夜虫が如く、フラフラと入り口に向かった。
Aストア24。赤と白を基調としたポップなロゴマーク、及びその店名には見覚えも聞き覚えもない。西東京限定のローカルチェーンだろうか? でもまぁ『コンビニエンス』を謳っている小売店である以上、おにぎりの一つも置いていない事案はまさかないだろう。
僕が自動ドアの前に立つと、静かな開閉音と共にやはり聞き覚えのない電子メロディが僕を迎えた。店内には、レジ前に立つ不健康そうな顔色の店員以外に人の姿はない。僕は特に何を考えるコトもせずに右折をして、店内奥の壁面に設置されている総菜コーナーへ向かう。
おにぎりの棚は閑散としていた。夜の十時近くという時間帯もあってか、具材を選り好む権利は与えられないらしい。鮭結びと塩結びを手に取ってレジに向かう。不健康そうな店員からはやる気のかけらも見えず、ボソボソと何を言っているのかがよくわかなかった。
「温めてくれますか?」店員から返事はない。ただの屍のようには見えない。
「あの……」再び僕が口を開くも「えっ?」不機嫌そうな声が跳ね返る。
僕は店員から目を逸らして「……なんでもないです」そうこぼすと、二つのおにぎりが入ったビニール袋を黙ったまま差し出された。
※
「本当に、ココで、大丈夫ですからっ」
その声が聞こえてきたのは、僕がコンビニを後にしてから五分くらい経った後だった。
そろそろ家に帰ろうかなと、僕は大通りに対して水平方向にのびる一本の小路を曲がった。閑静な夜の住宅街はシンと静まり返っている。だからこそその声はよく響いたんだ。
僕の眼前、距離にして約5メートルくらい先に真っ黒な乗用車が停まっていた。助手席からスーツ姿の女性が飛び出す。彼女は、車内にいるのであろう誰かに向かってそんな台詞を吐いていた。
女性が飛び出してきたドアの反対側、運転席から降りた誰かがすぐに姿を現した。遠目かつ暗がりなので輪郭がうすボンヤリとはしているが、恰幅のいい中年の男性のように見える。その人もやはりスーツを身に纏っていた。
「遠慮しなくていいから。家の前まで送るって、ホラ、乗りなよ」
中年の男性が乗用車の前面をぐるりと迂回して女性に近づく。女性は少し後ずさりしながら男性から距離をとろうとしていた。
短いやりとりではあるけど、会話の内容とその様そうから、状況はなんとなく察することができた。同じ職場の男性上司が女性部下を無理やり家まで送ろうと迫っていて――とか、大方そんなところだろう。
面倒ごとに関わりたくないな――直感的にそう思った僕は彼らから目を逸らし、歩みを速めてその場を通り過ぎようとする。僕がちょうど乗用車を横切るくらいの位置まで近づいても、中年の男性は僕がいるなんてまるで気づいていないようで「いいから、いいから」と女性の腕を掴んで強引に車内へ引っ張ろうとしていた。生暖かい酒気が僕の鼻をツンと刺激して、僕は少しだけ顔をしかめる。酔っているのか――
「ホント、勘弁してください。あの、今日は彼も家にいるので、ホントに」
女性の悲痛な声が僕の耳をなぞる。でも僕は黙って彼らの横を通り過ぎた。
「何? お前、俺がお前の家に無理やり上がり込もうとしているって、そう思ってる? ……そんなコトしねぇよ! 俺は親切心で言ってやってんだ! 黙って言うこと聞けよ!?」
さっきまで猫撫で声で女性に迫っていた中年の男性が、人が変わったようにがなり声をあげた。背後ろから聞こえたその声に僕は緊張し、無意識で肩に力が入った。女性は恐怖ですくんで声が出ないのか、彼女の返答は聞こえてこない。
モヤモヤと、一抹の罪悪感が僕の胸に広がる。……そりゃあ僕だって、困っている人を見て心が痛むくらいのモラルは持ち合わせている。でも一介の高校生である僕が、大人の痴情のもつれ(?)に入り込む義理はない。
そもそも僕は、もうあまり人と関わりたくないんだ。
下手な正義を振りかざしたところで、およそ痛い目を見るのが世の条理。
『渡る世間に鬼はない』のは先人の戯言でしかなく、歪み切った現代社会においては『正義が勝つとは限らない』事案の方が、圧倒的に多い。
「てめぇ! 何黙ってんだよ! 俺のコト舐めてんのか! ああっ!?」
中年の男性がなおも低いしゃがれ声で喚き散らす。……聞こえない、聞こえないッ――
僕は更に歩くスピードをあげようとしていた。でも。
「きゃっ!?」
甲高い女性の声が僕の襟首を掴んだ。僕は足を止めて、脊髄反射で振り返ってしまった。
視界が捉えたその光景に、僕は驚愕する。
スーツ姿の女性は地面にへたりこんでいて、遠目からでもわかるくらいに全身を震わせていた。彼女は、両掌で顔を覆って頭を垂れていた。女性の目の前には中年の男性、中腰の姿勢で、ふぅふぅと荒い呼吸を洩らしながら、右腕をだらんと垂らしている。
……マジ、かよ――
その瞬間こそ直接見たワケではない。けど、確かに聞こえた。女性の甲高い悲鳴と共に響いた鈍い音。おそらく中年の男性は、女性の顔を殴りつけたんだ。
僕の脳は混乱をきたしている。……さっきのやりとりから察するに、彼らは会社の上司部下の関係性――なのかは実際のところ知らないけど、少なくとも顔見知りであるのは間違いないだろう。女性の方が敬語なので、恋仲や家族ではないと思う。……ハラスメントが声高に叫ばれるこのご時世、こんなにも簡単に人に、しかも女性に手をあげる男が存在するのだろうか? 怒りの沸点が、あまりにも低すぎる。
僕は、焦燥と不安が胸の中を一気に駆け巡るような心地を覚えていた。
まざまざと見せつけられた暴力。和の国日本ではついぞ見かけることのない殺伐。
――このままでは、あの女性はこの男に殺されてしまうのではないだろうか?
そんな想像すらよぎる。……クソッ――
考える前に身体が動いた。『これからはなるべく人と関わらないで生きよう』。そう決意したはずなのに、僕は、どす黒い予感をどうしても拭いさるコトができない。
ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。通話ボタンをタップして、三ケタの数字を打ち込む。『1・1・0』――打ち込みながら、僕は足早に彼らに近づいた。「あの」声をかけると、中年の男性が僕をギロリと睨みつけた。
目の奥をきゅうっと引っ張られるような感覚が僕を襲う。無我夢中で僕は右手をあげて、握り込んだスマートフォンの画面を中年の男性に突き付けた。
「け、警察呼びますよ。本気、ですよ。その人から、離れて下さい」
僕の声は震えている。突き出した右腕も震えている。
でも僕は、この時点ではまだ自分に『分がある』と踏んでいた。
いくら理性を失っているとはいえ、相手はルールだらけの社会を生き抜いてきた『大人』だ。きっと会社ではそれなりの地位を築いているだろうし、家庭も持っているのだろう。見ず知らずの他人に「警察を呼ぶ」と脅されて、怯まない道理はないハズだ。
ハッと我に返った中年男性が、青ざめた顔つきになって、しどろもどろな口調で「それだけは、勘弁してくれ」と僕に懇願する――それが僕の思い描いた筋書きだった。だけど。
僕が急ピッチでこしらえた都合のいい台本は、一瞬で破り捨てられる運びとなる。
「……なんだクソガキ、てめぇには関係ねぇだろ! あぁっ!? てめぇまでオレのコト……、舐めるっていうのかよっ!?」
中年の男性が、咆哮するように大声をあげた。怯むどころか、逆上した様子で僕を威嚇してくる。予想外の展開に、虚を突かれてしまったのは僕の方だった。
僕は全身が硬直し、声が出せなくなる。呼吸の仕方すら、うまく思い出せない。
中年の男性が今度は僕に詰め寄った。浅黒くしわが深い顔面を、僕の水晶体が視界いっぱいに捉える。ギラギラと充血している真っ赤な両目は、もはや人間のソレとは思えなかった。
この男には知性があるのだろうか?
この男の脳には、想像力を働かせるという機能が備わっているのだろうか?
そんな疑問をふいに覚えた僕だったが、さ中。
視界がグニャリと揺れた。燃えるような痛みが顔面を襲った。
平衡感覚を失った僕は足をもつれさせ、情けなく尻もちをつく。握っていたスマートフォンを手放してしまい、カランと乾いた音が響く。ビニール袋から二つのおにぎりがこぼれ落ちた。
防衛本能に従うままに僕は両掌で顔を覆っていた。
中年の男性には、一切の躊躇がなかった。
当たり前のように、流れ作業のように、その人は僕の顔面を殴りつけたんだ。
――えっ……?
混乱に混迷が二乗され、いよいよ僕の頭はマトモな思考が働いていない。
「いやあああああっ!?」甲高い絶叫と共に、スーツの女性が慌てて走り去る足音がフェードアウトしていった。
僕はおずおずと顔をあげる。地面にへたりこんでいる僕を見下ろす恰好で、中年の男性が僕の目の前にそびえ立っている。その人は僕に目線を向けているものの、瞳孔が開ききっているその眼は、視覚がマトモに機能しているとはとても思えない
『ドイツも、コイツも、ミンナ、ミンナ、オレのコト、バカにしやがってよぉぉぉ、オレを……、オレをダレだとオモってんダヨ……、オレを……、ナンだとオモってやがんだよ……ッ!』
ブツブツブツブツブツブツブツブツ。
中年の男性が念仏のような独り言を洩らし始めた。
直感的に違和感を感じる。
どこか、妙にエコーがかかったような、ノイズが混ざりあったようなその声に。
中年男性のソレとは、似ても似つかないようなその声に。そして。
『ソレ』は唐突に現れた。
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