ななつ。選択肢、昔のお話

 みんな、どんなふうに好きな人と別れているんだろう。

 私はぼんやりと窓の外を見ながら考えていた。通り過ぎていく明かりの数は少なく、道路は昼間よりも遥かに静かで。私は秋の家へと繋がるこの道が好きだった。

 夜のドライブは私にとって特別だった。好きな人にこれから会えるという高揚感と夜のしっとりと落ち着いた雰囲気が相まって、日常から切り離された世界みたいだった。

 この夜道を通るのも今日が最後か。寂しいな。

 でも、そっか、と心の中で呟く。

 私は秋と現実逃避をするために付き合っていたのかな。

 思えば、秋中心の生活になっていた。仕事のストレスから秋への会いたい欲は高まっていくばかりで、それなのに秋からの返信は「忙しくて会えない」ばかり。

 寂しかった。苦しかった。本当はもっと出かけたいし、いろんな話をしたいし、とにかく二人の時間がもっと欲しかった。

 秋の元カノさんたちは彼と付き合って大体1年くらいで別れを切り出すのだという。

 歴代の彼女さんたち、気持ちわかります。

 結婚雑誌を読みながら「私たちいつ結婚するの?」と聞いた前の彼女さんの気持ちだって、今ならよくわかります。

 でも、今までは彼女の方から別れた告げられたことがほとんどだと秋は言っていました。それなのに私は秋の方から別れを告げられました。それって本当に「忙しいから」が理由なのでしょうか。本当は私のことが嫌になったのでしょうか……。

 でも、私がもう何を言っても秋は「別れ」を諦めてくれそうにない。

 彼女の期限っていつまでなんだろう。今日まで?それとももう彼女じゃないのかな。

 私は秋に気づかれないように横顔をちらりと見た。

 前を向いて運転している。黒髪がサラサラしていて綺麗で、色白で。鼻の形が好き。骨張ったその手だって。

「……ん?」

 秋が私の視線に気づいて、こちらを一瞥する。まずい、見すぎた。私はすぐに俯いたが、秋は「菜乃花?」と不思議そうに私の名前を呼んでいる。

「ううん、なんでもない」

 そう言って笑ってみる。上手く笑えたかな。

 秋は「そっか」と小さく笑っただけだった。

 私たちの間に話し合いはもう必要なかった。明日からの二人には未来がないからだ。

 秋の家に着いて寝る準備を済ませる。私の化粧水やコップ、色々持って帰らないと。

 寝室に行くと秋はすでにベッドにいて、私が隣に寝ると明かりを消してくれた。

「変なこと言うけど、」

「……ん?」

 後ろから秋が私を緩く抱きしめる。

 空気に溶けていくような柔らかさのある声で、秋は続ける。

「俺の元カノたちはもうみんな結婚してる。俺と別れてからすぐに。だからきっと菜乃花もいい人が見つかるよ。俺は恋愛の通過点で、多分恋愛のパワースポットだから」

「なにそれ、急に」

 真剣な声で自分がパワースポットだ、なんて言うものだから驚いて秋の方を向いた。秋は冗談でもなんでもなく言っているように見える。

「ウケ狙いで言ったのかと思った」

 目をぱちくりとさせると、「結構本気でそう思ってる」と困り顔をされる。驚いて、可笑しくて笑ってしまった。

「そんなに笑う?菜乃花にとって俺はきっと通過点にすぎないんだろうなって思ってた。いつかは俺の元を去っていく、って」

「そんな気持ちで私と付き合ってたの?そんなの悲しいよ。それに、みんながすぐ結婚することに秋は関係ない。年齢的にそうなだけだよ」

 今度は私が秋に抱きついて、顔を擦り寄せた。

「私は秋がいいって何度も言っているのに全然わかってくれないのが悔しい。それなのに、秋はそういうことを言う。これじゃあまるで私から離れたみたいだよ。離れていったのは秋の方なのに」

「それは、」

「私の幸せのため、でしょ?」

 声色がどんどん強くなっていく。秋の言葉を奪って、私はむくれていた。

 秋の決心は固く、もう私が何を言っても駄目だと私は悟っている。それなのに諦めきれなくて、私から「最後にする」と言ったくせに拗ねてしまう。

 別れたら、今日が本当の最後になってしまうのに。最後くらい笑って終わりたいのに、気持ちが追いつかない。

「他の人とがいいって、その『他の人』はまだ私の前に現れてないよ」

「これから現れるんだよ」

「……秋の馬鹿」

 まだ知らない誰かと出会うために別れる。

 そのほうが私は幸せになれるのかな。そのために今は辛い選択をする。未来の幸せとやらのために。

「でも、今の私の幸せは、秋の彼女でいることなのにな」

「嬉しいよ、菜乃花。ごめん」

 掠れた秋の声は力なく沈んでいく。秋の気持ちは変わらない。それを強く感じた。

それでも、私はまだ「別れ」を受け入れきれないでいる。

「……やっぱり、納得いかない。好きだから一緒にいたい」

「だめ。別れるよ」

「……やだ。別れ、」

 秋が近づいてくる気配を感じて見上げると、キスが落ちてきた。驚いて抵抗しようと胸板を押した手は、秋の手によって難なく捕らえられ、自由がきかなくなる。

「ん、あ……きっ」

 必死の抵抗で名前を呼ぼうとするにも、息を吸うことで精一杯になり、上手く呼べない。

 酷い。秋は、酷い。

 私の言葉をキスで消して、「別れたくない」を言わせてくれない。

 でも、どうして、と思う。

もう別れたいと思っているのなら、どうしてこんなキスをするんだろう。

 余裕のない深い口づけ。それは、秋の思惑通り、私の思考を緩やかに停止させていった。

 私の恐れていたものが、すぐ近くにまで迫っている。

 私は秋を受け止めながら「始まり」を思い出していた。私がまだ秋のことを知らない、初めて会ったあの日の秋を。

 「菜乃花ちゃん」と呼んで、私のことを「綺麗だね」と口説いてきた大人の秋臣さん。

 この人はどんなふうに人を愛すのだろう、と考えていた。

 別れを怖がる私の手を握って、心配そうに眉を下げた秋。

 私はあの時、今が一番幸せなんだろうなと思っていたし、始まりは終わりの始まりだとも考えて怯えていた。明日が最後の日。私が恐れていたものがやってくる。

「……怖い」

「……え?」

「秋、こわい」

「菜乃花?」

 涙が溢れ出し、ぼろぼろ落ちていく。顔を覆って、目の熱さにも体の震えにも大きな感情の波にも耐えようと必死だった。

 秋は私の背中に手を回し、強く抱きしめて「ごめん、菜乃花」と強く、苦しそうに、何度も言っていた。

 心も体もばらばらになったように思えた。

 自分が駄目になっていく恋愛は良くない恋愛だと知っている。だから、これも悪い恋愛だから、私は秋から一刻も早く離れないといけない。

 それなのに、夜が永遠に続いてほしい、と願ってしまう。

 秋はこの先、他の人に触れるだろうし、優しい目を私の知らない誰かに向ける。

 秋は、私と一緒にいるといつも苦しそうだった。

秋が私に、他の人との幸せを求めるように、私も秋のことが本当に大切ならば、他の人との幸せを願わないといけない。

 とん、とん、とゆっくり一定のリズムを保って、秋が背中に触れてくれる。

 泣き疲れて体が怠く、ティッシュで涙を拭いてからペットボトルの水を貰って飲むと、疲れがどっと体に現れた。自分の呼吸が近い。

「菜乃花、怖いって何が怖いの?」

 優しい声で、ゆったりと秋は私にそう聞いて、頭を撫でる。

「ううん、なんでもないの」

 薄闇の中、小さく首を横に振る。秋は一瞬動きを止めてから「そっか」とゆっくりとした動きで私を抱きしめた。

「……菜乃花、」

「……ん?」

「……ありがとう」

「なんでお礼なんて言うの?」

「今まで、ありがとう」

 私は「ううん」としか言えなかった。何か言葉を探さなくちゃ、と思うものの、何も見つからない。秋に触れる気力もなく、胃の気持ち悪さを感じて唇を固く閉じた。



 その狭い部屋には二人掛けのソファーが一つ。そこにはよく知った顔の男が一人、座ってこちらを不機嫌そうに見つめていた。

「……大丈夫。私はここにいるよ」

 そう呟いた瞬間、スマホの着信音が鳴り響く。びくり、と体を震わせて目を向けると、端っこの方にスマホが落ちていた。取りに行こうとして、足を止める。彼の顔色を伺うと、彼は特に気にしていない様子だったため、私はスマホを手に取った。

『着信 秋臣』

 ハッとして、彼を見つめる。そうだ、私は秋と付き合っていた。目の前のこの人をやっと克服できたと思っていたのに。——ああ、私はまだ囚われていたんだな。

「出ないの?」

 彼——葵くんは私の手元へ視線を向けて、ハッと鼻で笑う。相手が誰かわかっているようだった。それはそうだ、葵くんは私の中の葵くんなのだから。

 部屋には窓も扉もなく、閉鎖的な空間だった。

『最初は不安そうで怖がっていたけど、今はなんだか満足そうだね。不安、消えた?』

 付き合ってから間も無く、秋が私の頭を撫でながら嬉しそうに聞いてきたことがある。

 消えたと思っていた。私だって、てっきり。

一度できた心の傷は、そうそう消えてはくれないものなんだな、と、私を見下ろす彼の目を見ながら思った。

「もう付き合ってないから」

「だから出ないの?ふーん。そんなもんなんだ?」

「そんな、もん?」

「お前の気持ちはそんなもんだったのかって聞いてんの」

 すっと葵くんの顔から笑みが消え、着信がピタリと止まる。

「——っ、」

 そこで、目が覚めた。夢だった、と認識するまで随分と時間を要した。

 隣で秋が寝息をたてている。何度か呼吸をすると、現実を認識できて、私は秋に擦り寄った。

 もう秋は傍にいてくれない。私はいつまで囚われたままなんだろう。

 ぼんやりと真っ暗な天井を見つめがら、絶望に浸っていく自分を、私は救えない。



 あおいくんは、私の初めてだった。それは文字通り、全てが初めて。

「ナノちゃんって呼んでもいい?」

「は、はいっ」

 葵くんとは大学の友達の集まりで出会った。大勢の集まりが苦手だったけれど、友達が作りたくて必死だった私は無理をして笑っていた。その日は慣れないバーベキューに出席をしていて。

なんだか疲れたな、と端っこで小さく溜め息を吐き出していると葵くんが隣に座ってきて「大丈夫?」と声をかけてくれた。

葵くんは誰とでも仲良くなれるタイプで、話も面白いし明るい人だった。

「どこの大学なんですか?」

 もっと葵くんのことが知りたいな、と思って聞いたことだった。友達が友達を呼び、いろんな人が集まっていたため、大学もみんなバラバラだったのだ。

 すると、葵くんは困った顔をして「実は大学生じゃないんだよね」と苦笑いを浮かべた。

「嫌だったら僕とはこれっきりでいいよ。でも、今日だけは楽しくお喋りしよ?」

「ううん!そんなこと!私も、もっと葵くんと話したいです」

 「そう?よかった」と葵くんは歯を見せて笑った。話を聞くと、葵くんは高校を卒業した後、いろんなところに行って派遣として仕事をしているのだという。

「ていうか、同じ歳なんだから敬語やめてよ」

「あ、ご、ごめん!」

 もう仕事をしていて、コミュニケーション力が高い葵くんは眩しかった。私が持っていないものをたくさん持っているように見えた。

 すらっとして身長が高く、明るい茶髪、笑うと目がなくなって可愛かった。

 葵くんとはいろんなところに一緒に行った。動物園も水族館も、温泉だって。同じ土地にそう留まらない葵くんは、長くても三ヵ月で違う場所へと行ってしまう。

「遠距離になっちゃうけど、我慢できる?それか別れる?」

 葵くんの彼女になるのにそう時間はかからなかった。彼が次の土地へ働きに行ってしまう間際、別れるかどうか聞かれた。

 葵くんは実家暮らしをしていた。私は大学に通うため、都内で一人暮らしをしていた。だから、葵くんが私の部屋に泊まりにくることが多くなっていた。別れを切り出されたこの日も葵くんが泊まりに来ていた日だった。

 別れたくない。でも、葵くんは別れたいのかな。そもそもどうして明るくてかっこいい葵くんが地味な私なんかと付き合っているんだろう。別れたいに決まってるよ。

「別れても、大丈夫だよ」

 無理矢理に笑おうとした私の言葉に、葵くんは少しも笑わなかった。

「ナノちゃんの気持ちってそんなもんなの?」

「え?」

「本当にそう思ってる?」

「……ううん。でも、私なんかと付き合っていて本当にいいの?私でいいの?っていうのは、思っちゃう」

「……まじか」

 はーっと深い溜め息を吐き出して葵くんは項垂れた。

「葵、くん?」

 顔を覗き込むと、葵くんの長い睫毛が上がり、黒い瞳が私を映した。ぐいっと手を引かれ、葵くんは私にキスをした。

 驚いて固まっていると、少しだけ唇を離して顔を近づけたまま、葵くんははっきりと口にする。

「菜乃花、好きだよ。僕が好きな菜乃花のことを菜乃花自身が悪く言うなよ」

「……あお、」

 葵くんの名前を呼ぼうとした唇を塞がれ、そのまま押し倒される。待って、と目で訴えると、葵くんは、ふっと笑って「可愛い」と囁いた。

「……っ、私も葵くんが好き」

 キスの合間にそう伝えると、葵くんの目が嬉しさに滲んだのがよくわかった。

 葵くんは、そういう人だった。

 照れるような台詞だってさらっと言ってしまうし、サプライズも好きでよく私を喜ばせてくれた。

「ナノちゃん、ここ、見て」

「ん?」

 ある日の休日、私と葵くんは近くの図書館にいた。私も葵くんも本が好きで、時間があれば図書館に行っていた。

 葵くんは小説を開いて、指をさす。それは「ノノ」と書かれたところだった。

「この本の主人公、ナノカっていうんだ。真ん中のノを取ってノノってみんなから呼ばれてる。だから、ナノちゃんも、ノノ」

「そんな呼び方、初めてされた」

 私と葵くんはクスクスと笑った。

 葵くんは私のことをいろんな呼び方で呼んだ。菜乃花、ナノちゃん、ノノ。

「……ナノちゃん、次は四ヵ月くらい小豆島に行ってくる」

「小豆島?って、どこだっけ」

「……香川県」

「遠いね」

 寂しいな、と俯くと葵くんが私の頬を手で包み、上を向かせる。

「毎日電話する。たまに会いに行くし、不安だったら溜め込まないでちゃんと言うこと」

「うん、ちゃんと言うね」

「ノノ、愛してる」

 ちゅ、と額にキスを落として、葵くんは目を細めて笑った。

 有言実行の葵くんは本当に毎日電話をしてくれた。

 けれど、私の寂しさは募っていくばかりで、月日が経つごとに心はどんどん不安定になっていった。

「……葵くん、寂しい」

「あと一ヵ月だから、もう少し頑張って。会ったら何したいか考えておこうよ」

 アパートの窓際に座って、都会の真っ黒な夜空を見上げながらスマホを耳元でぎゅっと握る。

「今すぐ抱きしめてほしい」

「次に会ったら何度でも」

「次じゃなくて今がいい」

「そんなに寂しいの?ノノ」

「会いたいのに会えない。遠距離なんてもう嫌だ」

「……寂しいのは自分だけだと思うなよ」

「……他のカップルが羨ましい。すぐに会える距離にいて、いつでも会いに行けて」

「じゃあ、他の奴と付き合えば」

「え?」

「僕じゃなくて他の奴と」

 ブチッと電話を切られてしまった。私はよく泣いていた。寂しくて、会いたくて、泣いていた。

「エンジェルロード?」

 葵くんの派遣期間が終わり、こっちに帰ってくる日程が決まり、私は小豆島まで葵くんを迎えに行った。

「そう。エンジェルロ―ド。潮の満ち引きで、道が現れるんだ。大切な人と手を繋いで渡ると願いが叶うっていわれてる。もちろん、行くよね?」

「うん!」

 私は葵くんと手を繋いでエンジェルロードを歩いた。日に照らされた砂浜はキラキラと輝き、海は透き通っていた。

 隣には葵くんがいて、私はずっとニコニコしていた。

「願い事は?口に出さないといけないルールだよ?」

「えー?内緒だよ」

 そう言いながら、私は願っていた。葵くんとずっと一緒にいれますように。

「……僕さ、ノノの家に住んでもいいかな?」

 私の一人暮らしのアパートに戻ってくると、葵くんが私の様子を窺いながら聞いてきた。

「私の家に?」

「うん、完全な同棲とまではいかないけど、半同棲くらいな感じでさ。仕事も近くで探すし」

「うん!いいよ!嬉しい!」

 それから葵くんはほぼ私の家にいた。一人暮らしのため、1Kの部屋を借りており、正直狭かったけれど、葵くんが家にいてくれるのはすごく嬉しかった。

 けれど、毎日生活していくというのは、現実をみなければならなくなるということで。

「葵くん、仕事見つかった?」

「まだだけど、派遣で働いた貯金があるから」

 私が大学に行っている間、葵くんは働かなかった。私の目から見ると、堕落した生活を送っているようにしか見えなかった。

「ねえ、そろそろ働いた方が……。」

「何度も同じこと言うなよ。うるさいな」

 結局三ヵ月、葵くんは働かなかった。食費は半分出してくれるものの、家賃や水道光熱費は私の両親が払っていてくれたため、彼がお金を出すことはなかった。

 半同棲と言っていたものの、もはや同棲となっていた。

 一人の時間がどんどん失われていく。もやもやが溜まっていく。そんな私の心中を察したのか、葵くんはレストランのバイトでやっと働き始めた。

 その後、私は大学三年生となり、就活が始まる。

この頃からだった。葵くんと上手くいかなくなったのは。

「親の金で生活できていいよな」

 葵くんはたまに、そういう嫌味なことを口にするようになった。

 言い返すと険悪なムードになるため、私はいつの間にか葵くんと衝突するのを避けるようになっていた。

 そういう日々を過ごしていた、ある日のこと。ある日、というのは本当になんてことのない日に訪れる。

「……何、なん、で」

 部屋に置いてある封筒の中にバイトのお給料を入れようとして動きを止めた。生活費が入った封筒は本棚の端っこにいつもしまっていた。今では珍しく、お給料が手渡しのバイト先だったからというのもある。封筒には私のバイト代が全て入っており、常に7万円ほどはあったはずだ。それなのに。

「空……?どうして」

 夕飯の支度をしている葵くんが丁度コップをテーブルへ置きにくる。目が合うと、葵くんは自然に逸らした。不機嫌そうでも鬱陶しそうでもなく、表情を変えないまま。

「葵くん、私のお金、知らない?」

 味噌汁をよそっている葵くんに問いかけても、彼は私を見ない。

「ああ、うん、」

「葵くん?ねえ、聞いてる?」

「使った」

「え?」

 葵くんは味噌汁をテーブルに置きにきて、またキッチンへと戻って行く。

「どういうこと?」

「パチンコで全部使った」

「……え?」

「わ、私の生活費だよ?7万も?パチンコで?どうして?」

「食費、俺の方が多く出してるじゃん。俺の方が多く食べるからってさ、食事に行く時も俺が出してるし、なんか馬鹿らしくなって」

「食費は多く出してもらってるけど、でもそれは葵くんからの提案でしょう!?食事の時、奢ってくれるのだって、私はいつも出すって言ってるのに、いつも払ってくれて……どうして?」

 私の手から空の封筒が音もなく床に落ちていく。言っている意味がわからなかった。

「食事代は男が出すものだから。かっこつけさせろよ」

「家賃も水道光熱費も葵くんは払ってないんだよ?食費だけだし、負担少ないのに、どうしてお金盗ったの!?それに私、葵くんに四万、貸してるんだよ?」

 受け止めきれなくて脱力し、私は座り込んでしまった。私は以前にも葵くんにお金を貸していた。スマホの修理代、いろんな支払いで。

「いいだろ。親に金頼めば、すぐくれるんだから。ノノの家はさ」

「酷い。葵くん、酷いよ」

 いつからこんな人になってしまったんだろう。それとも、これが本性だったってこと?

 味噌汁の湯気がだんだんと消えていく。

「……ごめん、菜乃花」

「触らないで」

「本当にごめん。僕、自分が制御できなくて、駄目なことだってわかるのに、本当にごめん」

「……葵くん?」

 驚いて固まってしまった。葵くんは泣いていた。

「でも、もう葵くんのこと信用できないよ……。」

「もうこんなこと二度としない。本当にごめんなさい」

 私は葵くんを許してしまった。彼には抱えているものが多く、私にも半分背負わせて欲しかったから。今考えれば、おかしかったとわかるし、あの時の私は葵くんのことを「可哀想」だと思っていた。その時点でもう対等な関係ではないし、今すぐ離れるべき人だった。けれど、あの時の私は葵くんのことが大好きだった。例え、どんなことをされたとしても。

「もう絶対に、しないでね」

 葵くんは静かに頷いて、私をそっと抱きしめた。



「……あっ!」

 インターンシップを控え、明日の準備をしようとしていたら、テーブルの野菜ジュースをこぼしてしまった。慌てて布巾で拭いていると、葵くんが近づいてきて、じっと私の手元を見つめた。

「ごめん、葵くん。こぼしちゃった。葵くんも何か作業する?ごめん、すぐ拭いちゃうね」

「……何、こぼしてんの?」

「え?」

「それ、僕が買ってきた野菜ジュースなんだけど」

「ごめんね、こぼしちゃって」

 真っ黒な目をして、低い声を出す葵くんから目が離せず、私の唇は勝手に謝罪を口にする。葵くんに初めて恐怖を感じた瞬間だった。

「お金、払えよ」

「お金?」

「僕が買ってきたのに、こぼしやがって」

「え?な、に」

 勢いよく手を引かれ、床に投げ出される。

 驚いて、思考が止まってしまう。

「正座しろ」

「あお、い、くん?」

「正座しろよ!早く!」

 いきなり怒鳴られて、ビリビリと耳が痺れた。驚いて、怖くて、私は言われるがまま正座をした。それから朝方まで、ずっと説教をされていた。気が遠くなった。説教の内容はよく覚えていない。日本語のはずなのに、彼が何を言っているのかさっぱりわからなかった。

「ねえ、ベランダに行きなよ。言ってる意味わかる?」

「……。」

「そこから飛び降りろって言ってんの。お前は生きてるだけでこの世界に迷惑かける存在なんだよ。わかる?俺だってお前のせいで寝不足になってるだろ」

「……。」

 この人は誰だろう。気づけば、私の知っている葵くんはどこにもいなくなっていた。言葉の暴力を一晩中浴び続けた私はぼろぼろだった。

インターンシップを休もうかと何度も思った。けれどここで休んでしまったら何だか負けた気がする、と私は気合いでスーツを着た。

 準備で一睡もできなかった私が出ていく頃、1時間ほど前に寝てしまった葵くんがのそりと起きてきて、「行ってらっしゃい」とふわふわした声を出すものだから、私は口を抑えてそのまま玄関を飛び出した。込み上げてきそうだった。

 葵くんはおかしくなっている。そう、思った。

 その日は家に帰りたくなかったけれど、明日も同じ会社でインターンシップが行われるため、帰らないわけにもいかず、憂鬱な気持ちのまま家に帰った。

「おかえり、ノノ。あのさ、昨日、僕、ノノに何か酷いこと言った?ごめん、何も覚えていなくて」

「……え?」

「記憶が曖昧なんだ」

 今ならわかる。葵くんは精神科に行くべきだった。けれど当時は、心の病への認識が薄く、私はその考えに至ることができなかった。

「……ねえ、葵くん、あの、別れたい」

 この人とはこれ以上一緒にいれない。私の方から別れを切り出した。

「え?何言ってんの?」

 葵くんは目を丸くして、私の腕を握る。その力はどんどん強くなっていき、私は顔を歪めた。葵くんの目は真っ黒だった。

「い、痛い!葵くん、離して!」

「僕、別れたら、飛び降りるから。そこから」

「……何言って、」

 沈んだ顔には、うっすら笑みが浮かんでいた。本気だったらどうしよう。ここは五階だ。

「わ、わかったから。別れない。別れないから、離して。お願い」

 私は葵くんに支配されていった。

「ノノ、ごめん。僕、どうかしてた。痛い?ごめんね、本当に。強く握るつもりなんてなかったんだ。ごめん」

 葵くんは優しい声になって、私をふわりと抱きしめた。抱きしめられる瞬間、体が硬直してしまった。何か痛いことをされるかも、と体が勝手に反応してしまったのだ。

「僕、自分で自分が制御できないんだ。こんなことがしたいわけじゃないのに。本当にごめん」

 何度も何度も申し訳なさそうに謝る葵くんを見ていたら不憫に思ってしまい、私はそんな彼を何度も許し、けれど、再び罵声を浴びせる彼に何度も恐怖した。

 いつかは元の葵くんに戻ってくれる。きっと戻ってくれる。そう、信じていた。



「葵くん、私、就活で一旦実家に帰るね。だから葵くんも実家に、」

「でもこっちでバイト入ってる」

「で、でも、家主は私なんだし……。」

「仕事休めって言うの?」

 葵くんが眉間に皺を寄せるのを見て、私は慌てて首を横に振った。「じゃあ、鍵渡しておくね」としか言えなかった。私はいつの間にか、葵くんの顔色ばかりを窺って過ごすようになっていた。

 本棚の、お金の入った封筒へ目を向ける。隠しておかなきゃ、と一瞬思ったものの、それは私が葵くんを信用していないってことになるよな、と思い留まる。私は葵くんをもう一度信用したかった。

 地元のインターンシップに参加するため、私は実家に帰った。一週間あるインターンシップで心も体も疲れ果て、それは家に帰って食事と入浴を済ませるとすぐに眠りについてしまうほどだった。

『就活お疲れ様。電話は?』

『ごめん、昨日寝ちゃってた』

『疲れてるんだね。今日はできる?』

『疲れてて難しいかもしれない』

『なんで?僕だって毎日仕事してたけど、ノノに電話してたよ』

 別れたい。その思いがどんどん強くなっていく。

 葵くんのことは好きだ。でも、このままじゃ、二人とも落ちていく。

『ごめん。別れたい』

 直接言って駄目ならメッセージを送ってみよう。そういう軽い気持ちで送ってしまった。

 それがいけなかったのか。

 夜0時半頃、メッセージが一通入ってきた。

『ノノ、窓の外見て』

「え!?」

 実家の前に葵くんが立っていた。

 恐怖で、気が動転してしまう。なんでいるの?どうして?

 葵くんから電話がかかってくる。けれど、体が震えて、とても出る気にはなれなかった。

『早く電話でろよ。こっちはホテルの手配もあるのに。手短にしてくれよ』

『どうして居るの?』

『お前が別れるなんて言うから。バイトだって頭下げて途中で抜けてきて、電車乗り継いで、でも、途中で終電がなくなって高い金払ってタクシーでここまで来たんだよ。それなのになんでノノは出てこないわけ?対価に見合わない』

「何言ってるの、この人……。」

 全て自分が勝手にやっていることなのに、私の所為にされている。

『お願いだから帰って』

 もう愛じゃない。これは依存だ。

『両親呼んでくる。話し合いしよう』

『は?親出してくんのかよ。卑怯だな』

 深夜、私はどうしようもなくなって両親を起こした。私だけではもう別れられないと思い、助けを求めた。

 父は私の話を聞くと「中に入れて、話そう」と頷いてくれた。母は心配そうに私の背中をさすってくれた。外に出て葵くんを中に入れようとすると、彼の姿はなかった。

「今も家にいるのなら、菜乃花があっちに帰る日までに出て行ってもらおう。出て行かなければ法的措置を取ればいいだけのことだからね」

「そうね。母さんも戻る時は付き添うね」

 私は葵くんに、両親に話したこと、出て行ってほしいこと、応じてくれなければ法的措置を取ることをメッセージで伝えた。

『そういう卑怯なことをするんだな。失望した。別れよう』

 こうして両親の力も借りて、葵くんとはお別れをした。

 彼氏との話し合いで別れられず、両親に頼ってしまうなんて情けなかった。

 母も付き添ってくれてアパートに戻ると、葵くんはいなくなっていた。

 ——封筒の現金は空になっていた。

 それから私は暫く恋愛ができなくなり、秋と次の恋をするまでに三年もかかってしまった。

 私は好きな人と、うまくいかない。



だんだんと外が明るくなってきて、秋の寝顔がよく見えた。スマホを見ると、まだ4時だった。

綺麗な寝顔だな、と頬に触れると、秋が私の手を取った。

「起きてたの?」

「少し前に」

 ゆっくりと瞼が開かれ、寝起きの掠れた小さな声が聞こえてくる。布団の動く音。秋は私をこうやってよく抱きしめる。

「……秋、私と別れたら他の子と付き合う?」

 考えもなしに聞いてしまったことにひどく後悔して口を押さえるが、時すでに遅し。

 そんなの、付き合うに決まっているのに。

「ごめん、秋、なんでもない」

「誰とも付き合わないよ」

 ちゅ、と髪にキスを落として、秋は緩やかな表情で言った。私の言葉のすぐ後に、何の迷いもなく。

 この人は本当に、優しい人だ。その言葉は嘘だとわかっていたけれど、今の私にとってはすごく有り難かった。

「私ね、夜、秋がちゃんと眠ってくれることに安心したの」

「ん?夜は眠るよ?」

「元彼の精神状態がおかしかった時はずっと怒られていて、寝させてもらえなかったから」

 秋は額に手の甲を当てて深く溜め息を吐き出している。

「本当に酷いな……でも、俺も似たようなもんか」

「え?全然似てないよ。……秋?」

 溜め息まじりの秋の声にきょとんとしていると。

「結局、菜乃花を大切にできなかった。会うのはいつも夜だし、デートだって行けてない」

「もう別れるんだからいいよ、気にしないで」

「そうだね……ごめん」

「秋、私と出会ってからずっと謝ってばかりだよ」

 そう言って笑うと、秋は「本当だよ、不甲斐ないばかりに」と暗い声でやっぱり私に謝った。

 上半身を起こして、秋は何かを考えているようだった。私も同じように秋の隣に並んで秋の肩に寄りかかると、秋は私の髪を撫でた。「頭を撫でられるの、好きなの」と前に伝えたことがある。そうしたら、秋は前よりも頻繁に私の頭を撫でてくれるようになった。

「……。」

「……——。」

 最後。伝えなきゃいけないことはきっと山ほどあるはずなのに、沈黙が流れる。私も秋も、もう言葉を発しなかった。

 暫く経ったあと、秋が「寝なきゃだよ、菜乃花」と口を開いて、私と秋は眠りについた。浅い、浅い、眠りだった。

「ん、」

 私はアラームが鳴る前に起きた。秋を起こさないようにベッドから出る。

洗面所、棚。自分の物を紙袋へ入れていく。

 ——私は今日、秋の彼女じゃなくなる。

「化粧水、乳液、くし、それから、クレンジング……。」

——それ何に使うの?

化粧落としだよ。え?知らない?

へぇ。そんなのあるんだ。知らなかった。

前の彼女さんのとか、なかったの?

見たことなかったな。菜乃花に教わった。クレンジングね。

「私の、コップ」

——秋、コップをね、家から持ってきたの!

 水玉だね。可愛い。一緒に菜乃花の好きな紅茶飲もっか。

「一緒に買った食器は……このままでいっか」

 秋と付き合い始めた頃、彼の家には紙コップやら紙皿やら使い捨てのものしかなく、お皿から包丁、調理器具を一式揃えたのだ。私が秋の家で料理をしたのは数回だけだったけれど。

 秋の次の彼女さんは嫌だろうな。元カノと揃えたお皿を使うのだから。いや、もし気づいたら捨てるか。

「あ……。」

 最後くらい綺麗な私で別れたくて、ちゃんと化粧をしようと思ったが、化粧品は全て実家だった。秋の家に泊まる時はいつも家から持ってきていたが、昨日は元々泊まるつもりがなかったから用意がない。勿論、洋服も。パジャマと下着だけは秋の家に置かせてもらっていたから助かった。

「あーあ。すっぴんで別れるのか」

 顔色の悪い鏡の中の私。こんなんじゃ到底、秋を引き止めるなんて無理だよね、なんて心は弱いまま。

 外からは車の走る音や小鳥の囀りが聞こえてくる。部屋はすっかり明るく、いつもの朝と何も変わらなかった。

「ほら、秋、時間だよ。お仕事行かなきゃ」

「ん……もうそんな時間か」

 私は今日お休みだけれど、秋はいつも通り仕事だ。秋を起こすと、眠たそうな声を出して、私を緩く引っ張り抱きしめるものだから「だめだよ、遅刻しちゃうよ」と目を開けさせる。

 本当にいつも通りだな、と笑ってしまった。

「……起きる」

 秋は掠れた声を出しながらゆっくり起き上がると、用意をしに洗面所へ歩いて行った。寝癖がひどいのも、眠たそうな目も、全部いつも通りなのにな。

 ソファーに座ってスマホをいじっていると、秋が戻ってきた。

秋を見上げて。胸の奥が苦しくなる。

「……秋、狡い」

「え?何が?」

「いつもはスーツなんて私の前で着ないくせに」

「今日はたまたま、この後すぐに商談で……って、菜乃花?」

 ワックスで髪をきっちりセットして、仕立ての良いスーツを着こなし、腕時計をつけようとしている。

 私はすっぴんなのに、こんなの狡い。かっこいい。狡い。

 私は今日、この人と別れるんだ。秋は私と別れて仕事に行く。

「秋、」

「ん?」

 私はソファーから立ち上がり、秋を大きな声で呼んだ。

「私の物は全部回収したから、もし何か残ってたりしたら捨ててね。あと、一緒に揃えたお皿とかは置いていくから、残すも捨てるもお任せするね」

「うん、わかった。ありがとう」

 秋が寂しそうに笑ったのを見て、ああ、この人の恋人になれてよかったと思った。

「じゃあ、私、行くね」

「菜乃花、気をつけて帰ってね」

 うん、ありがとう。と言おうとして玄関で顔を上げようとすると、秋の大きな手が私の頭を撫で、視界を遮られた。秋の手を掴んで「秋、」と名前を呼んだけれど、秋は顔を見せてはくれなかった。

 最後のキスをねだろうと思って、やめた。

「体にだけは気をつけて」

 秋は最後に私を抱きしめた。玄関で、私は段差分、小さいまま。「高いよ」と言うと「高いね」と言って秋は少し屈んでくれた。

 体を離そうとしたが、秋がなかなか離してくれなかった。でも、最後には私をちゃんと離して扉を開けてくれた。

 外に出ると晴天で、気持ちの良い朝だった。秋の顔は辛そうで、私のことが大好きだという顔をしていた。

「秋、気をつけてお仕事行ってきてね」

「うん、ありがとう」

 パタリ、と後ろで扉が閉じた音が聞こえた。



 自分の家に帰ろうと車を走らせる。信号で止まり、「別れたんだな」とぼんやり思う。

 出会ったあの日を思い出しそうになって、私は歩道を歩く人々へ目をやって意識を逸らそうと必死だった。

 目が熱くなって、危うく泣いてしまいそうになる。

 信号が青になり、アクセルを踏む。家に帰ったらもう一度眠ろう。

 あの時は言葉が見つからなくて何を言えばいいのかわからなかったのに、一人きりになった途端、言葉が溢れてくる。

 秋とはデートの回数だって少ないし、それどころか会える時間さえ少なかった。それなのに、溢れてくる。思い出は少ないはずなのに私は秋との思い出に溺れている。

——最後に秋を見た時、彼の目が少しだけ赤かったのを、私は今でも鮮明に覚えている。

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