拝啓異世界、金無し暇無し

竜胆マサタカ

ある日森の中






 一寸先は闇。人間万事塞翁が馬。現実は小説よりも奇。

 つまり人生、何が起こるか分かったものではない……なんて、折に触れて聞くけれど。


「どこですよ、ここ」


 朝鳥の囀りによって揺り起こされた俺。

 目覚めてみれば、そこは見知らぬ森の中。


 と言うか。


「俺、誰だったっけ」


 まるで、頭の中に濃い霧が立ち込めたような気分の悪さ。

 自分の名前すらも全く思い出せない。なるほど、これが記憶喪失か。


「……いや、いきなり決め付けるのは早計だな」


 起き抜けで寝ぼけてるだけかも分からん。あんまり寝起きいい方じゃないし。

 首を捻ってると、ちょうど都合良く傍に小川が流れているのを見付けた。

 ひとつ顔でも洗って眠気を払うとしよう。


「うおぉ冷てぇ……あ、そうだそうだ思い出した」


 俺の名は芦澤ヨルハ。

 昨今に於けるキラキラネームの煽りをダイレクトに食らってしまった世代の一人。

 ネーミング自体もそうだが、カタカナ表記とかマジ勘弁してくれ。

 お陰で病院とか市役所は鬼門だ。寄り付きたくねぇ。


 …………。

 とまあ、冷水で頭がスッキリしたにも拘らず、思い出したのはそれだけ。

 寧ろ眠気と一緒に記憶もどっか飛んで行った気がする。


 近くに落っこちてないだろうか。

 草むらの中とか探してみよ。






 五分くらいあっちこっち回ってみたけど、俺の記憶はどこにも見当たらなかった。

 しょうがないから、ひとまず捜索は打ち切り。優先順位は大事である。


 では現状、何が最も重要か。

 やはり差し当たり、現在地の確認をすべきだろう。

 そしてそういうときに便利なのが、やっぱりスマホ様だ。

 アプリを開けば居所なんて一発。ついでに行きたい場所まで道案内までしてくれる。

 あぁ、素晴らしきかな文明の進歩。


 などと高を括っていたのだが、どうやらそいつは無理っぽい。


 何故なら今の今まで気付かなかったけども、俺ってば全裸。

 スマホどころか、パンツ一枚さえ持ってない有様。


「いい感じの気温なのがせめてもの救いか」


 麗らかな陽気が素肌に心地良い。


 しかし全裸で森林浴とか、どんだけ疲れてたんだ俺。そら記憶喪失のひとつも患うわ。

 いくらストレスフルな社会に属してる身でも、気分転換の方法はもう少し選べよ。


 なんて、アホ抜かしてる場合じゃない。

 こんな発見即通報レベルの姿を誰かに見られるより早く、服を用立てねば。


「取り敢えずどっちに行けば出られるんだ、この森」


 前を向いても見えるのは木ばかり。

 左を向いても見えるのは木ばかり。

 右を向いても見えるのは木ばかり。

 後ろを向けばでかい熊。


 畜生め、皆目見当がつかん。

 現代っ子に唐突なサバイバルを要求とか、難易度ルナティックも大概にしろよ。

 しょうがない、この棒切れが倒れた方向にでも歩くと――って。


「熊ぁ!?」


 覚えてないけど、多分今までの人生でも最高速度で、もっぺん背後を振り返る。

 居た。血で染めたかの如く赤黒い毛皮の、体長四メートルはあろう馬鹿でかい熊が。

 なんか、額にも目がある。だから環境汚染はやめろとあれほど。


「やばたにえん」


 熊は俺が上げた叫び声に興奮したのか、鼓膜を破らんばかりに吼え立てた。

 風圧すら伴う爪の一撃を避けられたのは、殆ど奇跡に近い。


「のぉぉぉぉ待て待て待て待て!! タイムタイムタイムタイム!!」


 恥も外聞も無い必死の制止も、獣相手では当然聞く耳持たず。

 再度となる咆哮と共に、三眼の赤い熊は凄まじい勢いで襲い掛かってきた。


 こうなっては、悠長な思案など投げ捨てる以外にない。

 ぐるぐると脳裏に渦巻く諸々を一旦捨て置き、力の限り、俺は森を駆け抜ける。

 助けてプリーズ。






 そして、それから数時間後。

 俺は、薄暗い牢屋の中に居た。





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