【06】写経


 春楡はるにれの木立が、真夏のそよ風にざわめく。

 聞きなれない種類のせみの鳴き声が遠くから聞こえてくる。

 それは、二〇二〇年八月九日の事。

 九尾天全は電車やバスを乗りつぎ、都内を離れて某所の山間部にいた。

 涼やかな木陰がマーブル模様を描く坂道を登りながら、マスクをあごの下にずらして、思い切り澄んだ空気を胸に溜め込む。

「うーん。いい気持ちね……」

 いたって呑気な様子であるが、この地を訪れたのは観光目的などではない。仕事である。

 やがて、上り坂の先にログハウス風の建物が姿を現した。

 今夜、彼女が泊まる宿だった。

 小ぢんまりしているが、アットホームでお洒落な外観である。

「本当に、仕事じゃなかったら最高なんだけどなぁ……」

 と、坂の上の宿を見つめ、自嘲気味に呟いたところでルイヴィトンの旅行鞄の中に入れてあったスマホがメッセージの着信を報せる。

「ん……誰だろ?」

 九尾はスマホを取り出して画面をのぞき込んだ。

 桜井梨沙からである。

 例の如く、画像のみで本文はない。

 その写真には、桜井らと同年代くらいの男女が正面を向いて並んで写っていた。

 カップルだろうか。しかし、二人の表情は堅い。撮影場所はどちらかの私室のようだ。

「また訳の解らない画像を……」

 と、言いかけたところで九尾は固まる。

 その二人の背後に、この世の者ならざる存在の影があったからだ。

 それも、かなり強力で質の悪い……。

「本当に、あの子たちは……」

 九尾天全は立ち止まり、沿道の木陰のガードレールに腰をおろして桜井梨沙に電話をかけた。




 倒れたグラス。水浸みずびたしの座卓。

 そして、落下してきた空の菓子箱が弾んで転がり、更に床の上へと落ちた。

 橘と渋谷は身を寄せて、その光景を凝視したまま凍りついている。

「うお、いきなり来るねえ……」

 桜井がそう言って、読んでいた漫画本を閉じた。

「茅野っち……これって……」

 西木の言葉に茅野が勢いよく立ちあがる。そして、荒れ果てた座卓の上を見渡して言う。

「これは、九尾先生の判定を待つまでもなく、心霊案件よ!」

 そこで渋谷はようやく気がつく。

「あ、“シンレイ”て、そういう事……」

「え、何? 何なの、これ?」

 橘はまだ頭が混乱しているらしく目を白黒させていた。

 そこで桜井が、くんくんと鼻を鳴らす。

「この香……」

 渋谷が、はっとした表情で言う。

「そう。この香! ね?」

 と、橘の顔を見ると、彼もおびえた表情で頷いた。

「何の花だろう……?」 

 西木の嗅覚もどうやら感じ取ったらしい。そして、茅野が思案顔でうつむいた。

「確か、この香は……」

 すると、唐突に桜井のスマホが鳴った。

「お、九尾センセからだ」

「梨沙さん。ちょうど、いいわ。スピーカーにして頂戴ちょうだい

「らじゃー」

 通話をスピーカーフォンにして、掌に乗せた。

 すると、九尾の声が聞こえてくる。

『循ちゃん、梨沙ちゃん、その写真の二人、かなり危険な霊に狙われているわ』

「ええ。そうみたいね」

 あっさり返答する茅野。

 すると、橘が「“レイ”って、そういう事……?」と、ようやく事態を飲み込んだらしい。

 九尾が話を続ける。

『その霊は、写真の女の子の方に並々ならない感情を抱いているわ。それで、男の子に嫉妬している』

「そんな……」

 渋谷は、その表情を嫌悪と怖気おぞけに歪めた。

「円香……」

 橘が彼女の肩を抱き寄せる。すると、その瞬間、机にあったスピーカーの一つがふわりと浮かびあがり、橘に向けて飛んでゆく。

「むっ!」

 桜井が勢いよく立ちあがり、素早い踏み込みから右ストレートを打った。

 スピーカーは吹っ飛んで、壁にぶち当たる。そのまま床に落ちて動かなくなった。

「中々の物理干渉力ね……」

 茅野が壊れたスピーカーを眺めながら言うと、部屋のドアをノックする音が響き渡る。扉の向こうから、橘の母の不安げな声が聞こえた。

「何か騒がしいけど……」

 どうやら、物音を聞きつけて心配になったらしい。

 橘は「ちょっと、ふざけていただけ」とか何とか、適当に言い訳をして母親を扉の前から追い払う。

 そのあとで、茅野が九尾に尋ねた。

「それで、まずは先生の見解を聞かせて欲しいわ」

『その二人は、すぐに離れた方がいいわ。できれば一緒の場所にいない方がいい。それから、男の子はなるべく女の子の事を考えないで。この霊のエネルギーの源は嫉妬だから、嫉妬されるような状況を作らなければ、それで何も起こらないはず』

 さっ、と渋谷から身を離す橘。

「満也くん……」

 飼い主に捨てられた仔犬のような眼差しの渋谷。

 橘がスマホに向かって叫ぶ。

「円香の事を考えないなんて、無理だ!」

 すると、とつぜん座卓の上に転がっていたグラスの一つにひびが入る。

 渋谷が短い悲鳴をあげた。

 次の瞬間、本棚から分厚い参考書が抜き出て、橘の方へ飛んでゆく。

「じゃあさ、逆に渋谷さんの悪口を言いまくるとか」

 桜井が参考書を裏拳で叩き落としながら言った。

「“あんな女、大嫌いだー!”みたいな……」

『口だけの嘘は通じないでしょうね。本心から彼女の事を嫌ったりでもしない限り逆に危険よ。彼女の事を考えているのには変わりないから』

「……難しいねえ」

 と、桜井は肩をすくめた。

 すると、茅野が橘に向かって問うた。

「橘くん」

「何?」

「タッチペンはあるかしら?」

「あ……ああ。あるけど、それが何か……」

「おすすめの般若心経写経アプリがあるわ。それをダウンロードして今から無心で写経をして頂戴」

「ええ……写経って……」

「頭の中を空にするには、これがいちばんよ。さあ、早く!」

「ああ……うん」

 と、どこか納得のいかない様子ではあったが、アプリをスマホにダウンロードして机に向かって写経を始める橘。

 彼の丸まった背中を一瞥いちべつすると、茅野はスマホ越しに九尾へと語りかけた。

「これで、どうかしら?」

『あ、ああ、うん、いや……取りあえずは大丈夫だと思うけど……』

 呆れた様子の九尾。

 その答えを聞いて、茅野は満足げに頷くと橘の背中に声をかける。

「ご飯を食べてるときや、お風呂やトイレ、寝る前……写経をしていないときも、常に頭の中で般若心経を唱え続けるのよ!」

「えええ……いや、まあ、やるけどさ」

 猛烈な勢いで写経をしながら返事をする橘。

 すると、西木が声をあげる。

「取りあえずは、一段落?」

「橘くんが写経に精を出している間に、渋谷さんに取り憑いた霊を何とかしないとね」

 桜井がそう言うと、九尾の声がスマホから響き渡る。

『でも、なるべく急いだ方がいいかも……。その霊は、女の子に憑いた当初は、そこまで強い存在ではなかった。だけど、時間と共に、どんどん力を増しているみたい』

「厄介な相手だね……」

 桜井が両腕を組み合わせてうなる。

『……わたしが動ければいいんだけど』

 その九尾の申し訳なさそうな言葉をさえぎるように、茅野が言った。

「忙しいみたいだし、先生の力は借りずに自分たちで、やれるだけやってみるわ」

『あ、あんまり、無茶はしちゃ駄目よ? いや、どうせ、わたしが何を言っても無駄だろうけどさ……』

 当然、釘を刺す九尾。

 そして、桜井が「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」と、まったく大丈夫そうじゃない声をあげた。

『兎も角、これから宿にチェックインするところだから、落ち着いたら、もう一度、梨沙ちゃんが送ってくれた写真を視て見るわ』

「了解よ。何か解ったら連絡を頂戴」

『ええ。そっちも気をつけて』

 九尾は茅野の言葉に答えると通話を終えた。

「エキサイティングな展開だね」

「そうね。中々、楽しめそうだわ……」

 と、案の定な反応を見せる桜井と茅野。

 すると、そこで西木が疑問の声をあげる。

「……でもさ、そもそも、まどっちは、そのストーカーの霊に、どこで取り憑かれたの?」

 桜井が首を捻り、渋谷に問う。

「渋谷さんは、最近、どこかのスポットに行ったりした?」

 もちろん、首を振る。

「スポットって、心霊スポット? いや、そんなの行った事はないけど……」

「俺もない!」と写経中の橘が返事をした。

 すると、茅野が右手の人差し指を立てて言う。

「たぶん、渋谷さんが霊に取り憑かれたのは、学校じゃないかしら? 例の手紙が最初に送られてきたのは、緊急事態宣言明け……つまり、三年になって初めての登校だった」

「ああ。うん」と相づちを打つ桜井。

「学年が変わったときは、学校で利用している物や場所が色々と変わるわ。教室、机、ロッカーに下駄箱……」

「つまり、茅野っち。その中に霊と関わりのあるものがあったって事……?」

 西木の言葉に頷く茅野。

「じゃあ、今から学校へ行ってみよう」

 桜井がそう言って、部屋の扉口に向かう。

 渋谷は戸惑いの色を浮かべて言った。

「今から!?」

「橘くんをずっと、写経漬けにしておく訳にはいかないわ」

 茅野がぴしゃりと言った。桜井と共に部屋を後にする。

 渋谷は困惑しながら西木の顔を見た。

 すると、西木はいたわるような微笑みを浮かべて言う。

「私たちも行きましょう」

 二人も桜井と茅野の後を追う。

 こうして、女子四人は写経に勤しむ橘を放置して、銀のミラジーノに乗り込み、来津高校を目指したのだった。

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