【02】ありきたりの殺人


 ハイビームが闇を切り裂く。

 蛇行する山道を行くのは、一台の赤いリーフだった。

 そのハンドルを握るのは豊治英一とよはるえいいちである。

 彼は水野舞夏みずのまいかの事を思い出し、憤慨ふんがいしていた。

「クソっ!」と無精髭ぶしょうひげに囲まれた口から悪態を漏らす。

 その水野は今、彼の背後……トランクの中にいる。

 そう。

 彼はこれから水野の死体を埋めに行くところだった。

「何で、こんな事に……」 

 豊治と水野は県内の企業に勤める上司と部下の間柄だった。

 そんな二人が結ばれたのは、四年前の春先である。

 豊治は結婚十五年目になる妻と、小学六年生の娘を持つ身で、水野とは不倫関係にあった。

 妻との仲は良好だったが、若くスタイルのいい水野に誘惑され、彼は断る事ができなかった。

 それはどこにでもあるような、ありきたりな話であり、特筆すべき事はまったくない。

 そんな水野との関係を清算しようと、豊治は昨年のクリスマスに別れ話を切り出した。

 その理由も単純で、飽きて面倒臭くなってきたからだ。

 すると激昂げきこうした水野から『奥さんに洗いざらいをぶちまける』と脅迫される。

 その場は、別れ話を撤回して何とか丸く収めたものの、そこから水野のアピールがきつくなっていった。

 電話を何回もかけてくる。メールも異常な量を送ってくる。

 それも、わざと豊治が家族と一緒にいるような時間を狙ってだ。

 大晦日の晩に、家族と近所の神社へと初詣にいったとき、境内でばったり彼女と出くわした時には寒気がした。

 仕方がないので豊治は、取り合えず水野の機嫌を取る事にした。

 家族には出張と偽り一月十一日の夜から、水野と一緒に長野との県境の山中に横たわる国道沿いのラブホテル『ブルーエンジェル』へと向かった。

 そのホテルはいつも二人が逢瀬おうせに使っている場所で、ここで一晩過ごした後に、翌日は長野の善光寺などを観光する予定だったのだが――




 豊治は水野はシャワーを浴び、そのあとでソファーに並んで腰を落ち着けた。  

 ビールで乾杯し、有線のBGMに耳を傾けながら愛を語らっていると、水野がおもむろにくすりと笑った。

「どうしたんだ……?」

「あのね……」

 水野は左側から豊治にしなだれかかり、上目使いで微笑む。肩にバスローブ越しの彼女の豊満な胸部が押しつけられる。

「別に、奥さんと別れてくれだなんて、言わないわ」

「あ、ああ……」

 蠱惑的こわくてきな微笑み。

 男ならば誰もがのどを鳴らす事だろう。しかし、なぜか豊治の心は一気にささくれ立った。

「私には貴方の家庭を壊そうだなんて気はないの」 

 その水野の微笑みは勝者が敗者を見下す時に見せる、嘲笑ちょうしょうのように思えた。少なくとも豊治には、そう感じられた。

 水野に対して、唐突に堪えがたい激しい怒りが込みあげてくる。

「私を一緒に、どこまでも連れていってくれるのなら……」

 なぜ、お前は、そんなに勝ち誇った顔ができるのだ。

 そう怒鳴りつけたくなるのをぐっと我慢し、豊治は缶に残っていたビールを一気に飲み干した。

 ローテーブルの上に置いたセブンスターの箱と百円ライターを手に取る。

 硝子の灰皿を手繰り寄せ、火をつけようとした。

 しかし、カチカチと音が鳴るだけで火がつかない。そこで豊治は自らの指先が小刻みに震えている事に気がついた。

 水野は豊治の右手から、そっとライターを奪い取り、あっさりと火を灯す。

 その仕草がまた彼を苛立たせる。

「はい。どうぞ」

 何もかもを見透かしたような双眸そうぼうで、じっと見つめられる。

「あっ、ああ……」

 豊治はライターの炎にくわえた煙草の先端を近づけた。

 すると、その瞬間、有線の曲が変わる。 

「あれ……この曲って、何ていう曲だっけ?」 

 チリチリと煙草の葉が焼け焦げ、香ばしい紫煙が立ちのぼる。

 豊治は天井に向けて白煙を吐き出した。

 水野が年齢に似つかわしくない調子ではしゃいだ。まるで十代の少女のような顔で言う。

「これ、アニメの歌にもなった……確か……」

 そのとき、豊治は堪えきれなくなり、硝子の灰皿を掴んで、勢いよく水野の顔を殴った。

「きゃっ」と短い悲鳴をあげて、水野がソファーから転がり落ちる。 

 豊治が覚えているのは、そこまでだった――




「クソッタレ……」

 豊治は己の迂闊うかつさを呪う。

 つい、かっとなってしまった。

 ずっとクリスマスから水野にプレッシャーをかけられ続け、それが爆発してしまったのだろう。

 気がついたら床で仰向けに横たわる水野へと馬乗りになって、その顔を硝子の灰皿でしこたま殴りつけていた。

 ぐしゃくしゃに潰れた水野の顔を見おろし、豊治は最後に一回だけ大きく灰皿を叩きつけた。

 それから、再びシャワーを浴びて後片付けを始める。

 当然ながら死体をそのままにして帰る訳にはいかない。

 ホテルは各部屋とガレージが独立したコテージタイプで、水野の死体を車に運ぶのは容易かった。

 問題は敷地の入り口の門に設置された監視カメラだ。そこで出入りする車はナンバーごと映像で記録される。

 しかし、恐らくは大丈夫だろうと豊治は考えた。

 なぜなら水野と浮気するようになってから、車の窓硝子を濃い色合いのスモークフィルムで覆っていた。

 万が一、知り合いに目撃されるのを防ぐ為だ。

 ゆえにホテルに入店するとき、助手席にいたはずの女の姿がない事を、不審に思われる事はないだろう。

 そもそも、この手のカメラは従業員がずっと監視している訳ではない。問題が起こってから過去の映像をチェックするのが常である。

 ようは“何かがあった”と気づかせなければよいのだ。

 灰皿は綺麗に洗ったし、床の血も水野の着衣を雑巾がわりにして綺麗にふいた。

 殺人があった事などルミノール反応でも見ない限り、解りはしないだろうと、彼は考えていた。


 そんな訳で豊治は、死体を埋める場所を探す為に木立に挟まれた山道を進んでいた。

 穴を掘る道具は冬になってから雪かき用にと、トランクに積んでいたアルミのスコップがそのままになっていたので問題はない。

 そこは長くうねった坂道で、左側の木立のすぐ向こう側は切り立った崖になっているようだった。その真下では、流れの速い渓流が飛沫しぶきをあげていた。

 EV車であるリーフのエンジン音は恐ろしく静かだ。

 それゆえに運転席の豊治にも、渓流の水音はよく聞こえた。

「クソっ!」

 どん、とハンドルを叩いた。

 もうあと数分で日付が変わろうとしていた。

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