【13】狂愛


 ソレイユ黒狛四〇四号室の和室にて。

 は押し入れの中でガタガタ震える水城真澄の拘束された両腕を取り、その右手の人差し指の爪にマニキュアを塗っていた。

「真澄……言ってたよね? 爪が割れやすいって。ギター弾くとすぐに爪が傷んじゃうって。私ちゃんと覚えていたよ……? ひひひひ……」

 女はまるで我が子を見るようないとおしげな目つきで、人差し指のマニキュアを塗り終わる。

 そして中指の先にマニキュアの刷毛はけが当たった瞬間だった。

 水城は苦痛に表情を歪ませた。

 女がニタリと笑う。

「ああ……真澄、ごめん。もう右手の・・・・・人差し指以外・・・・・・に爪は残って・・・・・・いなかったね・・・・・・……ひひひひひぃ……」

 そこで突然、女は真顔になり、キョロキョロと虚空に視線をさ迷わせ始めた。

 まるで何かの音が聞こえているような仕草だが、辺りは静かである。

 そして、ぼんやりとした表情で「今いくから……」と呟き、すう……と、立ちあがると、和室を後にした。

 すぐに三十センチ程の硝子瓶を抱えて戻ってくる。

 中には透明な液体が張っており、ふやけた白い肉塊が入っていた。

 その瓶を、女は小刻みに優しく揺すっている。

「よーし、よしよし……泣かないで……泣かないで……」

 そして、押し入れの中でガチガチと歯を震わせる水城の元までくると、屈んでその瓶を彼に押しつけた。

「ほーら、パパだよー。パパでちゅよー? 泣かないで……泣かないで……」

「ああああ……ああ」

 瓶の硝子の向こう側から、白い膜に覆われた未成熟な眼球が、水城に虚ろな視線を向けていた。

「ほーら、真澄も抱いてあげて? 真澄が抱っこすると、すぐにこの子も泣き止むから」

「いや……やめ……」

「ほーら、お願い。この子、ママよりパパの方が好きみたいなの……」

 女は硝子瓶をグリグリと押しつける。

「やめて……」

 水城が涙と鼻水を垂れ流し始める。

 その胎児・・の眼と水城の涙に濡れた瞳が視線を合わせる。

 水城はその瞬間、恐怖にかられて拘束された両手を大きく振り乱して身を捩った。

 硝子瓶がふっ飛んで和室の畳の上に転がる。

 女が水城の事を、きっ、と睨みつけた。

 次の瞬間、女は口角を釣りあげて笑う。

「……お仕置きだねえ、これは……」

「ひっ、ひっ、ひぃ……やめて……やめろッ!」

 女はゆっくりと立ちあがり、和室の箪笥の中から大振りのニッパーを取り出した。

 その瞬間、インターフォンが鳴り響く。

 水城が堪らず絶叫する。

「だずげでぇええええっ!」

「大声出すなっつったよなッ!」

 女は水城の右耳をニッパーで挟んだ。

「やめでぐでぇええええっ!!」

 じょぎり……じょぎり……と、音がして、再び水城の悲鳴が轟く。

 女は笑う。心の底から楽しそうに笑い続けた。腹を抱え、畳をのたうち回る。

 水城は青い顔で右耳のあった場所を押さえながら、歯をガチガチと鳴らし続けた。

 その状況が数分続き、玄関の方から扉の開く音が聞こえてきた。




 茅野と桜井、そして探偵の江島は、ソレイユ黒狛の玄関を潜り抜けると、ロビーを横切りエレベーターに乗り込んだ。

「もしかして……」

 江島がポツリと漏らす。

 茅野と桜井は彼の方に視線を向けて、無言で言葉を促す。

「いや、水城がこの県にいるって、教えてくれた男が、こんな事を言っていたんだ。『水城がヤバイ女につきまとわれている』って……まあ方々で怨みを買ってるような奴だから、さもありなんとは思ったが」

「ヤバイ女ねえ……」

 桜井が茅野と顔を見合わせる。

「そのヤバイ女って、お前らの事なのか? ひょっとして……」

 きょとんとした表情で再び顔を見合わせる桜井と茅野。

「なに言ってるのおじさん」

 桜井は、やれやれと肩をすくめる。

「私たちのような一般的な普通の女子高生をつかまえてヤバイだなんて……」

 江島は、桜井が何を言っているのか解らないといった様子で半笑いになる。

「いやいや、普通ではないだろ……普通の女子高生は不動産登記なんか見ねえよ……握力もおかしいし……」

「今時の女子高生なら、気になる男子の自宅の不動産登記ぐらいチェックするのは当たり前よ。ねえ、梨沙さん」

「うん。あたしもよくやるね。それ。あと、握力トレーニングも大人気だから。SNSで流行ってるから」

「本当なのか、それ……」

「うん。フツー、フツー」

 もちろん、嘘である。

 エレベーターが四階に着いた。扉が開く。

「行こ、循」

「そうね」

 桜井がエレベーターから外に出る。茅野がそれに続く。江島は頭を抱えて「普通……って、何だよ」と、泣きそうな顔で笑った。

「どうしたの? 置いてくよ?」

 桜井にそう言われ、江島はそそくさとエレベーターを後にした。




 三人は四〇四号室の前に辿り着く。

 江島がインターフォンを押した。

 反応はない。

 茅野と桜井が扉板に耳をつける。すると、その二人の鼓膜に、微かな悲鳴のような声が聞こえてきた。

「循、今の……」

 茅野は無言で頷く。

 二人は扉板から耳を離した。

 江島が問う。

「どうした!?」

「今、悲鳴のような音が聞こえてきたわ」

 茅野はそう言いながら鞄の中からピッキングツールを取り出して鍵穴の前で屈む。

「最初期の鍵穴が“くの字”に曲がったディスクシリンダーね。今どきこんな鍵を使っているなんて……流石、築年数三十八年は伊達じゃないわ。オートロックを後から取りつけて、それで安心したのか、単に手が回っていないか……」

「防御力は?」と桜井。

「ゼロよ」

 茅野がピッキングツールを鍵穴に差し込んでガチャガチャやり始める。それを見た江島が突っ込む。

「おいおいおい……何で平然とピッキングしようとしてんだよッ!」

「だって、それしかないじゃない」

 茅野が上目使いで江島を見あげる。

「普通の女子高生はピッキングなんかしねーからっ!」

「あ……開いた」

 茅野は平然と立ちあがり、ピッキングツールを鞄にしまい直す。

「お前ら、やっぱり、普通じゃねーよ! 何者なんだよッ!」

 江島を無視して茅野は桜井に向かって言う。

「梨沙さん、先陣は任せたわよ。気をつけてね?」

「らじゃー」

 と、嫌がる素振りもなくドアノブを握る桜井の手首を江島が掴む。

「いやいやいやいや……待て待て。お前も頭おかしいぞ? 何でそう平然と危険に飛び込もうとしてんだ!」

「いやだって、悲鳴が聞こえたんだよ? 早く助けなきゃ」

 さも、それが当然であるというように、桜井は言ってのける。

 江島は苦虫を噛み潰したような顔をして、大きく溜め息を吐き……。

「俺が先頭に立つ。……小娘に危ない真似、これ以上させられるか、くそったれが」

「ひゅう、男前!」

 桜井はそう言って、ドアノブから手を離した。代わりに江島がドアノブを握る。

「本当に悲鳴が聞こえたんだな?」

「間違いないわ」と茅野。

「じゃあ、行くぞ……?」

 江島は四〇四号室の扉を開けた。

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