【File04】発狂の家

【00】発端


 物音がした。

 引き戸が開く音だ。誰かが部屋に入ってきた。

 押し入れの中で、滝沢信二は耳を澄まし、少しだけ開いたふすまから外の様子を窺った。

 その途端、何かが焼け焦げる臭いが微かに鼻をついた。

 滝沢の脳裏に火葬場という言葉が思い浮かんだが、その不吉なイメージを即座に振り払い目を凝らした。

 誰かが畳の上を歩き回っている。

 耳の穴を綿棒でくすぐるかのような、微かな足音が聞こえる。

 不意に暗闇がぼんやりと明るくなり、ザザー……ザザー……と音がした。停電で消えていたはずのテレビのノイズだ。

 古いブラウン管タイプの物で、四年後のデジタル放送完全移行後は瓦落多がらくたと化してしまう骨董品である。

 その画面から放たれた薄ぼんやりとした明かりが、襖の隙間の向こうの室内をほんのりと照らす。

 黒い影だ。両手とこうべを垂れて、畳の上で円を描くように歩き回っている。

 この日、彼以外の家人は留守のはずだった。

 ……では、あれは誰だ、などと問うまでもない。

 そいつが右手のカッターナイフをチキチキと鳴らした。

 滝沢は、ごくりと唾を飲み込んだ。すると、喉がささくれたように渇いている事に気がつく。

 そこで、はっ、となり、持ち込んだペットボトルの存在を思い出す。

 わずかな明かりを頼りにペットボトルを握り、キャップを取った。そこでブルーライトの中に浮かびあがるデジタルの時刻表示を確認する。


 ……午前四時三十四分。


 彼がこの押し入れに身を隠したのは二時三十八分だった。

 滝沢は渇いた喉を鳴らし、ペットボトルの中身を急いで口に含む。

 その瞬間だった。

 畳の上をうろついていた黒い影が、ぴたりと足を止め、滝沢の隠れる押し入れの方を向いた。

 頬を膨らませたまま凍りつく滝沢。

 黒い影は動かない。しかし、強烈な視線を感じる。

 息苦しさを覚えて口の中に含んだ物を吐き出しそうになるも、必死に我慢し続けた。

 そのまま襖の隙間越しに滝沢は黒い影と睨み合う。

 数秒……数十秒……数分。

 次第に火葬場の臭いはどんどん強くなり、視界にもやがかかっている事に気がつく。


 ……もしかしたら、本当に火事なのかもしれない。


 そんな懸念けねんが頭を過った直後だった。

 滝沢は盛大にせ返り、口の中に含んだ物を吐き出した。




 ごおう……と入道雲の彼方から飛行機のエンジン音が降りそそぐ。

 茅野循は忸怩じくじたる思いで視線をあげた。

 そこには背の高いブロック塀に囲まれた家があった。

 庭は雑草がはちきれんばかりに伸び放題となって荒れ果てており、見える範囲の窓硝子はすべて割れていた。

 二階の窓には焼け焦げたカーテンがぶらさがっており、そよ風になびいている。

「……私は今回ほど、自分のうかつさを呪った事はないわ。もう少し、早く気がつくべきだった」

 茅野の隣で桜井梨沙が、気安い笑みを浮かべながら肩をすくめる。

「それでも、こうして謎を解いて、またここにこれたのは循のお陰だよ」

 その言葉に目を細め、茅野は真剣な顔で言葉を返す。

「貴女にそう言われると、ほんの少しだけ救われた気分になれる」

「それは、どうも」

 あくまでも気安い調子の桜井。

 そんな小さな相棒の横顔を見おろし、茅野は柔らかく微笑む。

 そして、もう一度、まるで巨竜を見据える騎士のような眼差しで、風になびく二階のカーテンを見あげた。

「……でもね、梨沙さん」

「何?」

「これは言い訳ではないし、強がりでもないのだけれど」

「うん」

「私は今とても楽しんでいる。るか殺られるかの瀬戸際だというのに……」

 桜井は茅野の端正な横顔を見あげ、呆れた様子で笑い、溜め息を吐いた。

「まったく……循は、大馬鹿野郎だよ」

「あら。それは誉め言葉かしら?」

「当然」

 二人は目を合わせ無邪気に微笑み合う。

 少し離れた場所の海沿いの国道からだろうか。大型トラックの走行音が鳴り響き、遠ざかって、かき消えた瞬間――


「行くわよ、梨沙さん」

「うん」

 まるで、それがゲーム開始の合図だとでも言うように二人は動き始める。

「今日で全部、終わらせる」

「あたし、これが終わったら、循と夏祭りで一緒に花火を見るんだ……」

「やめなさい。縁起でもない」

 茅野と桜井は、門を潜り抜けて玄関へと向かう。

 戸が外れて開け放たれたままの入り口の上部には『滝沢』と記された立派な表札が掲げられていた。


 “滝沢家”または“発狂の家”


 足を踏み入れた者はことごとく気を病んでしまうのだという。

 二人がなぜ、この危険極まりない場所へと足を運ぶ事となったのか。

 その発端は数日前にさかのぼる――

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