【01】悪魔


 それは県庁所在地の駅前にあるファミリーレストランだった。

 アイス珈琲に三個目のガムシロップを入れてかき混ぜる茅野循の向かいに座るのは、整った顔立ちの美少年だった。

 小柄で良く日に焼けている。さらさらとした黒髪に幼さを残した面差しの彼は、茅野薫かやのかおる。茅野循の実弟である。現在は中学二年生でサッカー部のエースだった。

 本日、突然、姉に誘われてこの場にいる薫であったが、どうにも落ち着かない。

 正直に言ってしまえば、薫は姉の事が苦手だった。

 よく友だちから「あんな美人でおっぱいのデカイねーちゃんと一緒に暮らせるだなんてうらやましい」などと言われるが、薫からしてみれば、そんなやっかみは姉の事を何ひとつ理解していない者たちの戯言ざれごとに過ぎなかった。

 茅野薫から見た茅野循は、率直に言って悪魔・・

 薫は姉ほど恐ろしい人間を知らなかった。

「こうして、ふたりで出掛けるなんて、どれくらい振りかしら?」

「さあ……?」

 そのそっけない風を装った薫の返答に、姉は意地の悪い笑みを浮かべる。

「普段は私が誘っても、全然こない癖に……」

 まるでなぶるかのような口調。

「い、いいだろ。別に……」

 この日、姉にどうしても大事な話があるからつき合って欲しいなどと言われ、仕方なしについてきたは良いが、早くも後悔し始めていた。

「小さい頃は、良く一緒にお出かけしていたわよね? お風呂も一緒に入ったわ。小学何年生くらいまでだっけ?」

「それより、大事な話って何だよ?」

 やや語気を強め、姉のからかいをさえぎる。

 クスクスと笑いながら姉はストローをくわえた。そして、アイス珈琲を一口飲むと、

「このあと、もうひとりくるわ。三人そろったら、話を始めましょう」

 あとひとりは誰か、と訊きかけて薫はその言葉を飲み込んだ。

 どうせ桜井梨沙だろう。

 この悪魔のような姉には、彼女くらいしかまともな友だちはいないのだから。

 しかし……。

「梨沙さんではないわよ」

「え……?」

 薫は、どきりとした。

 すぐに考えを見透かされる。心を丸裸にさせられる。だから、この悪魔は恐ろしいのだ。

「梨沙さんは、今日はバイトよ。これないわ」

「そっか……」

 薫は何気ないつもりでそう呟き、グラスの中のオレンジジュースで喉をうるおす。

 すると、悪魔が楽しげに笑う。

残念・・だったわね」

「な……」

 その言葉の直後だった。

 テーブルの上に乗せていた姉のスマートフォンが震えた。

「どうやら、きたみたいね。迎えに行ってくる」

 そう言って、姉はスマホを握り席を立った。

 そのまま店の入り口へと向かう。




 杉本奈緒すぎもとなおは、その日、駅前のファミリーレストランでふたりの男女と向き合っていた。

 男の方は、その幼さを残す顔立ちから年下である事が推測できる。男というよりは少年というべきだろう。

 そして、彼の右側に座る女は、日本人形のような黒髪に切れ長の目をしていた。

 服装も黒ずくめで、明るい色彩でコーディネートされた少年のよそおいとは対照的だ。

 しかし、どちらも酷く整った容姿をしており、その面差しは良く似ている。

 女の方は茅野循。

 SNSのDMを使い、今日この場に杉本を呼び出した張本人だ。

 そして、少年の方は茅野薫。彼女の弟なのだという。

「弟の事は気にしないで頂戴。単なるつきいよ」

 そう言ってアイス珈琲をストローですする。

「……それで、杉本さん」

「奈緒で良いよ」

 気安く言ったつもりだった。しかし……。

「……杉本さん・・・・、何か注文は?」

 多少むっとしたが、杉本は出掛けた言葉を飲み込み、平静な振りをする。

「いや。構わない。それより、話ってなんだ?」

 DMには、桜井梨沙に関して大切な話があると書かれていた。

 杉本は茅野と面識はない。

 しかし、桜井梨沙の話と言われれば、断る事はできなかった。今の彼女がどう過ごしているのか、とても気になったからだ。

「少し、長くて複雑な話になるかもしれないわ」

「今日は構わない。時間はあるよ」

「……だから、ドリンクだけでも注文しておいた方がよいかも」

 杉本は少し迷ったあとで頷いて、インターフォンを押して店員を呼んだ。




 杉本がドリンクバーからアイスティーを持ってくると、茅野がさっそく口を開く。

「DMで伝えた通り、梨沙さんについての話なんだけど」

「ああ……」

 杉本がちらりと弟の顔を窺うと、意外そうな顔をしていた。どうやら彼も話の内容については聞かされていなかったらしい。

「先日、ある場所で、こんなものを見つけたわ」

 そう言って、茅野はポーチからジップロックの中に入った布きれを取り出した。テーブルの中央に置く。

 杉本と薫がその布切れを覗き込んだ。そこにはマジックで“桜井梨沙”と書かれている。

「姉さん。これ何? 桜井さんの名前が書いてあるけど……」

 杉本は何も言わず、ただひたすら、その“桜井梨沙”という文字を見つめ続けた。

「……これはね。大津神社という場所で見つけたのよ」

「大津神社? どこだよ?」

「大津神社は、うし刻参こくまいりのメッカよ。丑の刻参りっていうのは、白装束をまとい、頭に蝋燭を差した鉄輪かなわを被り、木槌と五寸釘で憎き相手に見立てた藁人形を木に打ちつける呪術の事よ」

「ああ……八つ墓村みたいなやつ?」

「全然違うわ……八つ墓村は戦中に岡山県の貝尾という場所で起こった事件を横溝正史がモデルにした……」

 茅野姉弟の会話が上滑りして聞こえた。

 ふたりの声が次第に遠ざかる。

 杉本は目を見開いたまま、唇を戦慄わななかせていた。その文字に見覚えがあったからだ。

 なぜなら、それを書いたのは彼女自身……杉本奈緒であったからだ。

 あの大津神社で桜井梨沙の藁人形を打ちつけたのは、他ならぬ彼女であった。




 杉本奈緒が初めて桜井梨沙と出会ったのは、小学四年生の時だ。

 それは、柔道の地区大会の学年別決勝だった。

 杉本は、試合が始まり彼女と組み合った瞬間に理解した。


 ……ああ、こいつには絶対に勝てない。


 噂には聞いていた。天才的な女子柔道の選手が同じ地区にいる事を。

 幼い頃から頭角を表し、同年代との対戦においては無敗。

 それが当時の桜井梨沙だった。

 どんなに揺さぶろうとも、まるで地蔵にでも柔道着をまとわせたかのような手応えは、天才少女の評判が事実である事を物語っていた。

 どうやっても、彼女からポイントを取れる気がしない。

 その焦りは絶望となり、更に裏返る。

 杉本は思った。

 自分は厳しい練習に耐えて地道な努力をしてきたのだ。

 ……にも、関わらず、この桜井梨沙という女は何なのだろうか。

 組んだだけで、それと解る凄まじい才能。

 そして、まったく何も考えていないような、うすらぼんやりとした眼差し。

 まるで目の前にいる自分の姿が見えていないかのような……。

 この時、杉本は己が取るに足らない存在であると馬鹿にされたような気がした。

 これまでの努力を、才能などという正体不明の物に虚仮コケにされたような気がした。

 腹の底から怒りが湧く。

 その瞬間だった。今までまったく隙を見せていなかった桜井の重心が、後ろへ流れた。


 ……行ける!


 杉本は電光石火の居合い抜きのごとく、出足払であしばらいを放つ。

 タイミングは完璧だった。

 しかし、彼女は自分が見え見えの擬似餌ぎじえに食らいつく、間抜けな魚である事にまったく気がついていなかった。

 杉本の右足が空を切る。

「なっ……」

 勝利を確信していた彼女は、一気に敗北という奈落へと叩き落とされた。


 “燕返つばめがえし


 相手の出足払をすかし、反対に出足払で返す技。

 その技名が脳裏を過った直後、杉本は畳にその身を横たえ、桜井梨沙を見あげていた。

 何事もなかったような呑気な表情で、胴着の襟元を正す桜井。

 言い訳の余地なしの一本負け。

 そのとき、杉本は思った。


 こいつは、悪魔・・だ……と。




 以降も杉本と桜井は何度か対戦する事となった。

 しかし、彼女はどんなに練習をしようが、どんなに力を振り絞ろうが、桜井に勝つ事ができなかった。

 杉本にもそれなりの地力はあった。普通の同年代たちと比べれば頭ひとつは抜けていた。

 しかし、桜井という強固な壁が、いつも彼女の前に立ちはだかる。

 更に気にくわないのは、桜井梨沙の能天気な態度だった。

 試合前も、試合中もまるで緊張していない。

 試合の合間に見かける彼女の表情は、常に無邪気な笑顔だった。まるで太陽のような……。

 厳しい練習に耐えて、吐き気をもよおすほどに緊張している自分とは大違いだ。

 桜井の顔を見るだけで、彼女は自分がいったい何のために柔道をやってきたのか解らなくなった。

 そんな相手に、ずっと負け続ける杉本……。


 こうして、彼女はその胸の内に桜井梨沙への憎悪をゆっくりとつのらせていった。

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