楊貴妃の結び

kanegon

序章 京師からの蒙塵

 逃避行の最中に、護衛の兵士たちが暴動を起こした。


 反乱が起きて国が乱れて、反乱軍によって都も陥落した。都を逃げ延びた皇帝は峻険の地として知られる蜀に向かって、皇帝の一族の者たちと側近と護衛の兵士たちを連れて逃げている最中だ。


 西暦で言うところの756年、繁栄を極めた大唐帝国を斜めに傾けることとなった、世界史上に名高い安史の乱である。


 宦官の高力士が玄宗皇帝に状況を報告しているのを、楊貴妃は皇帝の隣に控えて一緒に聞いていた。


 都の長安を落ちのびてから、兵士たちは我慢の連続だった。都を占領した反乱軍に追いつかれると困るので無理をして強行軍で進んでいて体力の消耗は激しい。馬嵬の駅逓に辿り着けば少しは休憩して何か食べて腹を満たすこともできると思っていた。


 しかし、いざ馬嵬に到着してみると、そこを守っていた役人は危険を察知して逃亡しており、食べ物も多くは残っていなかった。


 そんな中、ふとしたきっかけで騒ぎが発生し、兵士たちの頭に血が昇り、溜め込んでいた怒りが噴出した。


 怒りの矛先は楊国忠に向かった。玄宗皇帝に寵愛されている楊貴妃の親戚ということで宰相の地位に就いて、専横を極めていた博徒の男だった。


「待て。話せば分かる」


 楊国忠は鷹揚な笑顔で殺気立った兵士たちを宥めようとしたが、話す前に剣で切り刻まれてしまった。兵士たちはその勢いで、つい先日まで贅沢の限りを極めていた楊貴妃の姉たちも殺害した。


「陛下。兵士たちは、楊貴妃様のお命も要求しております。無視するわけにはまいりません」


 宦官の高力士は沈痛な表情で辛い宣告をした。


 玄宗皇帝は長い治世の前半は「開元の治」と呼ばれる善政を敷いて空前絶後の栄華を実現した。だが、楊貴妃と出会ってからは政務が疎かになって、それが反乱の遠因となったことは誰もが知っている。


「愛する楊貴妃の命を奪わねばならぬのか」


 年老いた皇帝の落胆ぶりを隣で見て、かえって楊貴妃は落ち着いて晴れやかな気分になっていた。


「陛下、こういう事態になった以上、わたくしが生き残っては、兵士たちは安心して陛下にお仕えすることができません。わたくしはこの地上に別れを告げようと思います」


「楊貴妃よ、死を受け容れるというのか」


「いいえ、わたくしは死ぬのではありません。あ、この地上では死を賜るのですが、天に昇り、仙界で転生を果たします」


 楊貴妃は懐から長い絹布を取り出した。


「高力士将軍、お願いです。この絹布を使ってわたくしの首を締めてください」


 言って楊貴妃は、愛おし気に絹布を眺めた。


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