15.絶望を引き連れた希望

 本当は休みたかった。だけど一度休むと心が折れてしまいそうだった。それにヨッシーの話ぶりではまだ誰も信じていなさそうだったので、私は堂々としているべきだと思った。


 しかしジリジリと燻っていた私への不満ーーお門違いだがーーへの燃料として、"白兎みちるはうさぎ病らしい"という噂は優秀であったようだ。どこに誰から落とされたか分からない火種を起因として、その噂は"白兎みちるはうさぎ病"だと断定系に姿を変えて瞬く間に広がった。

 好奇の視線が私に降り注ぎ、謂れのない言葉が心を削り取ってゆく。


「やっぱ身体使って弓弦くんと付き合ったんだよ」

「ってことは私も胸押し付けて迫ったら、弓弦くんしてくれるかな?」

「してくれるかもよー?やってみたら?」


 聞くに堪えない。私のことだけじゃなく、弓弦くんまでを馬鹿にしている。私たちはそんなんじゃない、弓弦くんはそんな人じゃない。それを言いたいけれど、反論すれば間接的にうさぎ病であることを認めてしまいそうで、私はただ耐えるしかなかった。そしてさらに最悪なことに男子たちもその噂話に加わっていた。


「近づいたら発情するんだろ?」

「もしかして今までも発情してたんじゃね?」

「なら学校でやりまくってるってことじゃん」

「俺もお願いしたらやらせてくれるかな?」

「それどころかあっちから『挿れて』って言ってくるだろ」

「あのでっかい胸揉みたいよなー」


 直接的に性対象として認識され、普通なら口にすることを憚るような言葉を投げつけられる。舐め回すような視線で身体を値踏みされ、まるで裸に剥かれたような心地に吐き気を催す。

 廊下でも運動場でも、学食でも教室でも。この校舎にその視線と暴言から逃げられる場所は存在しなかった。




「白兎、ちょっと来てくれないか」


 と、担任が私を手招きしたその瞬間、教室がざわめいた。このタイミングでこんな急な呼び出し、誰にだって分かる。きっと先生たちの耳にも噂が届いたのだろう。そして内容が内容なだけに、念の為確認しておこう、ということなのだろう。

 「はい」と一言返事をした私に、綾ちゃんの不安そうな視線が突き刺さった。明里ちゃんが何か言いたげに口を薄く開いたけれど、それは言葉になることはなかった。




 先生は生物室に私を通すと人払いするように鍵をかけた。「まぁ、座れ」と、先生が腰掛けた背もたれのない椅子の前を指差す。スカートが皺にならないよう丁寧に撫でつけゆっくりと座れば、先生は咳払いを一つしてみせた。


「念の為に聞くんだけど、白兎はうさぎ病なのか?」

「……違います」

「あぁ、言いたくなければ言わなくていいんだ。だけど知ってるとこちらも相応に対処ができるし、な?」

「先生、私うさぎ病なんかじゃないです」


 先生は本心から私を心配している。それに先生の言うことは尤もだ。学校側が私の病気を把握することでメリットもあるだろう。しかし知られたくない。それは揺るがない私の意思だ。

 性的な目で見られる嫌悪感はもちろんのこと、例え男性側にそんな気持ちがさらさらない場合でも私が勘繰ってしまう。この人ももしかしたら私のことセックス好きな女だと思ってるかも、と被害妄想にかられるのだ。事実、私の身体を案じてくれている先生の純粋な眼差しさえも"もしかしたら先生も私のこと、セックス好きのどうしようもない女だって思ってるかも"と考えているのだから。


「そうか、分かった!まぁ、困ったことがあったらなんでも言ってこいな!いつでも聞くから」


 励ましの意味を込めて、先生が私の肩に手を乗せた。「ありがとうございます」と頷き顔を上げれば先生と目が合って、そして先生は咄嗟に視線を逸らした。

 やっぱり耐えられない。こんな風に腫れ物に触るように扱ってほしいのではない。


「しらと、」

「あ、私、その、失礼します」

「白兎!」


 先生が制止の意味を込めて名前を呼んだけれど、私はそれを振り払って生物室の扉へ向かう。いつもは簡単に開けられる内鍵も、震える手のせいで上手く開けられない。考えたくないのだ。ごくり、と上下に大きく動いた先生の喉仏の意味を。「白兎、待ちなさい」と明確な制止の声に気付かぬふりをして、私は生物室から逃げ出した。


 たった1日でガラリと姿を変えた私の学校生活。しかし後々気づくのだ。遠巻きに「あいつはうさぎ病だ」と噂されていたこの日はまだ随分とマシだったと。




 その日の放課後、ロングホームルームが終わるなり弓弦くんは6組に姿を現した。「白兎、帰るぞ」と扉の前で私を呼ぶその姿に、一部の女子たちがざわつく。「行って来なよ」「えー、でもー」と隠す気がないのか、それとも隠れてると思っているのか、判断のつかない程度の声量を拾い上げた男子生徒がニヤニヤと弓弦くんへ近づいた。その姿を認めた瞬間、弓弦くんは盛大に顔を歪め「なに?」と声を低くする。整った顔が凄むとこうも迫力があるのか。教室中が不自然な沈黙に包まれ、男子生徒は「いや、なにも、あはは」と乾いた笑みで誤魔化した。


「白兎」

「うん、お待たせ。じゃあ、また明日」


 私の挨拶に綾ちゃんたちが明るく「明日ね」と返してくれる。それだけで明日も頑張れそうな気になった。




 帰り道の弓弦くんは「俺の体操服盗まれたっぽい」と物騒なことを口にしたが、それ以外はいつもと全然変わらない。あまりにも変わらなすぎて、もしかして弓弦くんにだけ噂が回ってないのかな?と思ったけれど、昨日ヨッシーからの電話を切った直後に私が伝えたのだからそんなことあるわけないのだ。過剰な気遣いをされないことがこんなに心地良いなんて、と改めて弓弦くんと一緒にいられることに感謝をした。


「送ってくれてありがとう」

「おー。……なぁ、家上がっていー?」

「えっ……!いいけど、」

「けど?」

「いいの?」

「いいんだよ」


 主語がないまま進んでゆく会話。他の人が聞けば理解できないだろうけれど、私たちはその意味を充分に理解していた。


「お邪魔します」


 だなんて、弓弦くんの言葉から緊張が滲んでいる気がするのは私の思い過ごしだろうか。しかし私の頬に触れる弓弦くんの指先の震えを感じれば、あながちそれも間違いではない気がした。


「キスするぞ」

「?」

「するからな!」


 ムードもへったくれもない宣言。それは私の意思を確認する他に、自分自身を奮い立たせているようでもあった。

 弓弦くんの緊張が私にも伝染してゆく。「ドキドキしてきた」と素直に告げた私に、「俺も」と弓弦くんらしくない素直な言葉が返された。

 

 ゆっくりと落とされた口づけ。言い表し難いずくずくとした刺激が腰辺りを包んで、それが気持ち良くって、でも怖くって思わず弓弦くんの制服の裾を掴む。その手に弓弦くんが自分の手を重ね、「大丈夫。なにも怖くねーよ」と甘く切なく囁いた。

 私を囲うように甘い匂いが充満する。それに触発されて発情した私は、弓弦くんに縋る意識の向こうで"これが終われば病気も治っている"と、初体験にそぐわない現実的なことを考えていた。




 吐精した弓弦くんと完全に発情が収まった私。うさぎ病の本来の性衝動は性行為では収まらないことが定説であった。それが綺麗さっぱり収まっているのだ。

 それを確認した弓弦くんと私は、2人の初体験の喜びや恥じらいも忘れて顔を見合わせた。


「おさまった……!おさまってる!」

「ってことは?」

「治った!絶対治ったんだよ!」

「……良かったな、ほんと、まじで良かった」


 2人で無邪気に抱き合って子供の遊びみたいなキスを何度も交わした。


「弓弦くん、ありがと、ほんとに」

「俺はなんもしてねーけどな。あ、ちんぽ挿れたか」

「…………」

「んだよ」


 軽蔑の視線に弓弦くんは気まずそうに頬を指先で掻いた。ま、いっか。今は全てに感謝したい心地なのだ。


「ねぇ、佑ちゃんに言ってもいい?」

「ん?それ俺が許可出すことじゃねーし。まぁ、喜ぶんじゃね?」

「うん、そうだよね」


 「良かったじゃないか!」と喜ぶ佑ちゃんを思い浮かべて、ふふふ、と笑みをこぼした私の緩んだ頬に、弓弦くんが指先を滑らせた。愛おしげに細められた瞳がキラキラときらめいていた。




 そんなはずはないですよね、と聞き返した私の声が震える。信じたくなくて耳を塞ぎそうになる私に、主治医の先生が「うーん、残念だけど数値をみると白兎さんはまだ、"うさぎ病"だね」と再び同じ言葉を紡いだ。




 治ったのならもう通院する必要がなくなる。弓弦くんと致した翌日の午後は、都合良く薬の処方と定期検査ための通院の日であった。だから嬉々として告げたのだ。遺伝子相性が良い人と出会えたこと、そしてその人と結ばれて発情が収まったこと。

 それを聞いた先生は「じゃあ、検査してみようか」と冷静に微笑んだ。なんだか一人先走ってはしゃいで、エッチしたことまで言った私が恥ずかしい。


 


 そしてその検査結果が示したものは前述した通り、私の寛解を表すものではなかった。先生は指先で顎を擦り「うーん」と唸った。


「この病気は全て解明されているわけじゃないからねぇ。まだ不可解なことの方が多いんだ。彼を前にした白兎さんの反応は正しく遺伝子相性が良い人へのそれだけど……」

「じゃ、じゃあ、私はどうしたら……」

「……今まで通り抑制剤の服用、かな。でもほら、今は表れていないだけで、何かしらの変化が体内で起こっている可能性もあるから」


 だから希望を捨てずに、今はできることを、と先生は言いたかったのだろう。しかし希望は打ち砕かれたのだ。

 それから私は絶望を抱えたまま帰路に着いた。しかし家に帰りたくなくて無意識に立ち寄ったのは、子供の頃佑ちゃんとよく遊んだ地元の小さな神社であった。年に数回程度しか掃除をしていないだろうそこは、参拝している人を今の今まで一度として見たことがないほど寂れている。しかし鬱蒼と茂る雑草と薄暗い社が今の私には心地が良かった。

 罰当たりだとは理解しつつも賽銭箱の後ろに設けられたスペースに横になった。掃除用具が端に置かれ、少しばかりの高さがある木の塀で囲まれたそこは、寝転んでしまえば誰からも見えない。

 弓弦くんになんて言えばいいんだろう。佑ちゃんに言う前で良かった。なんて、この絶望の中で一つでも良いことを見つけた時であった。


「しーらとさん」


 と粘ついた声が私を呼んだ。反射的に起き上がり、スペースに続く2段の石階段の方を見た。

 この人たち……私のこと目の敵にしてたグループの人だ。そこには同じ高校の2年生の男子生徒3人が立っていたのだ。

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