第96話 わたくしの手駒【side:ブリジット】
ブリジットが向かった先は、とある貴族の執務室。
扉の隙間から明かりが漏れているのを確認して、思わずほくそ笑む。
――良かった、まだ居たのね。さぁ、わたくしのために、存分に働いて下さいな。
部屋のに立つと手鏡で身なりを確認して、笑みを顔に貼り付けドアをノックした。
名を告げると、すぐに中から「ブ、ブリジット!?ま、待って!すぐ開けるよ」という慌ただしい声が返ってくる。
扉が開き姿を現したのは、若白髪まじりの痩せこけた男――ジル・ネイドだった。
本来なら視界に入れたくもない気持ち悪い顔なのだが、ブリジットは自らの正義を実行するため、一層美しい微笑みを向けた。
「ジル様。お久しぶりです。昨年の夜会以来かしら」
「や、やぁ。ひ、ひさしぶり……。き、君から、会いに来てくれるなんて……ゆ、夢みたいだ。こんな夜に……きゅ、急に、どうしたんだい?」
「実は、ジル様に助けて頂きたいことがあって……ここでは話しにくいので、中に入ってもよろしいかしら?」
「ええっ!へ、部屋の中に二人きり……。あっ、えっと、ぼ、ぼくは構わないよ」
ジルはぎょろりとした目を忙しなく動かし、血色の悪い頬を赤らめてブリジットを中に案内した。
この男は、数年前夜会で出会ってからずっと自分に恋をしている。
――はぁ、相変わらず動きも喋り方も気持ち悪い男。正直、同じ空気も吸いたくないのだけれど、ここは我慢するのよ、わたくし。
心の中で悪態を吐くが顔には一切出さず、ブリジットは表情を曇らせるとうつむいて話を切り出した。
「わたくし、お父様の忘れ物を取りに来たんですが、今しがた見てはいけないものを見てしまって……。実は、以前からアーサー・オルランド様の良くない噂を聞いていましたが、やっぱり本当だったんですわ」
「良くない噂?」
「ええ。ソフィア・クレーベルって女性をご存じ? セヴィル帝国から来た女性で、今はこの迎賓館に勤めている方なんですが……。桜色の髪に緑の目の女性ですわ。最近はアーサー様と一緒にいることが多いかしら」
「あぁ、彼女か。何度か執務室棟ですれ違ったことがあるよ。彼女がどうかした?」
「実は彼女……、迎賓館長に……その……いけないことをして、採用試験に受かったそうなんです」
『いけないこと』の意味を察したのか、ジルは顔を赤らめ口元を大きな手で覆って「な、何てことだ」と呟いた。
「実はそれだけじゃなくて、彼女はアーサー様にも同じ手を使っているらしいの。彼が和平路線を進めているのもソフィアのせいなんです。彼女はアーサー様を懐柔して、帝国にとって利益のある方向で交渉を進めさせようとしているの。このままでは、ソフィアの思惑通りにリベルタ王国は帝国に飲み込まれてしまうわ」
「くそ、アーサー・オルランドめ。そうだったのか。和平が女の為だったとは、弱腰な男だと思っていたが、まさかそこまで愚かだったとは!」
「それに、ソフィアはわたくしに嫉妬しているのか、アーサー様を使ってわたくしに嫌がらせをしてくるの。自分は一切手を下さず、アーサー様の口からわたくしへの酷い言葉を投げかけてくるのよ……。わたくし、どうして良いのか分からなくて……すごく辛くて辛くて、もう……」
ブリジットは両手を覆って震える声で言葉をつむぎ、泣き真似をした。
涙なんて一滴も浮かばないが、目の前の男はまんまと
「ブリジット、泣かないでくれ。この前、悲しそうな顔をしていたのは、やっぱりアーサーに侮辱されていたんだな! 可哀想に……」
正面に座っていたジルが立ち上がり、そっと自分の背中に振れ、撫でる。
鳥肌がたった。おぞましさに吐き気がする。
――汚い手で触んないでよ、不気味男。あぁ、気色悪い。早く離れなさいよ。
「ふふ、ジル様は優しいわね。やはり、あなたに相談して良かったわ」
「いや、ぼ、ぼくは、そんな大したことはしてないよ。……出来ることがあれば、何でも協力するよ」
ブリジットは心の中でニヤリと笑うと『はい、釣れた。男なんてほんと単純』と思った。
「わたくし、この国とリベルタの人々を、ソフィアという異国の魔女の陰謀から救いたい。そのために、お力を貸して欲しいのです。具体的には――――」
頭の中で組み立てた計画を口にする。
最後まで話を聞いたジルは戸惑ったような顔をした。
「それは……ソフィア・クレーベルがいくら悪女だとしても、あまりに可哀想じゃないか……。そもそも、その内容は本当なのかな……」
「わたくしの話を疑うの?」
「い、いやっ。ブリジットを疑っている訳じゃないんだけど……そんな方法はあまりにも卑怯じゃないかと……」
難色を示す彼の様子に、ブリジットは内心舌打ちをする。
このジル・ネイドという男は、残忍で気色悪い見た目をしているくせに女子供には異常に甘い。
男爵家という下級貴族のくせに、『弱い者は守らなきゃ』などと高潔な貴族ぶっているのだろうか。
あぁ、
――役立たずには用はないわ。相手にするだけ時間の無駄。
ブリジットは残念そうな顔をして目を伏せると、「そう。手伝って下さらないのね。わたくしは、あなただからこそ相談したのに。残念だわ」と告げ、さっさと椅子から立ち上がった。
ジルが必死な声で「ま、待って!」と呼び止める。
そして決意した様子で頷くと、『任せてくれ』と言わんばかりに自分の胸を片手で叩いた。
「分かった。君の計画通り、さっそく明日、新聞社に情報を流すように手を回すよ。メディアへのコネクションならあるんだ。明後日の朝刊の一面を飾るようにするさ、任せてくれ」
「あぁ、ジル様! ありがとう!!」
ブリジットが両手を握ると、彼は頬を真っ赤に染めて嬉しそうに破顔した。
――笑うな不細工男。私の目が汚れる。
「これはわたくしとジル様、二人だけの、ひ・み・つ。だから、誰にも教えないでくださいませ。ね?」
「ふ、ふたりだけの、秘密……。分かった! 誰にも話さない。もし何かあっても僕が守るよ。絶対に、君を誰にも傷つけさせたりしない」
「ありがとう。わたくしの勇敢な騎士さま。頼りにしていますわ」
――ありがとう。わたくしの馬鹿で愚かな
要件を済ませると、ブリジットは彼からさっさと手を離した。
「ぁ……もう言ってしまうのかい?」と名残惜しそうな顔をするジルに「あなたの仕事のお邪魔をしたくありませんもの。また来ますわね」と愛想笑いを浮かべて別れを告げ、早足に執務室を後にする。
いくつか廊下を曲がった先で、ブリジットはハンカチを取り出すと両手をごしごしと拭った。
「あぁ、汚い汚い汚い!! 少し甘い言葉を囁いてあげたら、つけあがってベタベタ触ってくるなんて、ほんと最低最悪な不気味男だわ。でもまぁ、これで明後日にはソフィア・クレーベルは火あぶり決定ね。ふふっ」
ブリジットは口元を手で隠して、ニヤリと笑う。
「本物の炎より怖くて苦しくて恐ろしい――大衆の憎悪に焼かれなさい。そして絶望の果てに処刑されてしまえばいいのよ。正しいのはいつだって、わたくし。正義の名の下に、消えなさい。帝国の汚らしい魔女め」
see you tomorrow
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