第94話 私の愛した綺麗な月

「ソフィア、愛している」 


 アーサーがもう一度、確かな声で告げた。


 彼のたった一言の囁きが心を揺らし、ひたむきな熱い視線にい止められる。全力疾走した後みたいに心臓が高鳴って、壊れてしまいそう。


「最初は、君が妹の大切な友人だから守ってあげよう、優しくしようと思っていたんだ。……でも気付けば、守られて癒やされていたのは、僕の方だった」



『私は、アーサー様を癒やせるような特別な事をしたかしら』――そう不思議に思っていると、こちらの表情で察したのだろう、彼が微笑を浮かべながら言った。


「ソフィアの言葉は、自然と心にすっと入ってくるんだ。君と一緒にいると心から笑えて、他愛ない話をしているだけで幸せ。思惑と陰謀だらけの僕の世界で、君の隣だけが心地良い。真面目で頑張り屋で相手を思いやれる優しい――ソフィアは僕にとって、かけがえのない特別な存在だ」


「特別な……存在」


 嬉しい。


 想いを寄せる相手に特別だと言われて、嬉しくないはずがない。


――だけど私には……アーサー様の想いに応える資格は、ない。私はもう二度と、大切な人を傷つけたくない。


 自分のせいで彼も傷ついたり、命を落とすような事があったら……今度こそ、立ち直れない。前を向けない。


 

 

 ソフィアは掠れる声で「ありがとうございます」と告げた。


「すごく……嬉しいです。……ですが、私は貴方に相応しい人間ではありません。私は、地位も名誉も、財産もありません。それどころか、リベルタ王国と緊張状態にある帝国の生まれです」


 愛しているから簡単に手を伸ばせない。

 

 不都合な現実から逃げて、目を背けて頷くことが出来たら、それほど楽だろう。

 

 でも、大人になった今だからこそ分かってしまう。

 生まれた国は、環境は、置かれた状況は変えられない。

 

 ちっぽけな自分の努力じゃ、乗り越えられない壁がある。


――私は、王子様の隣で微笑む、物語の中のお姫様にはなれない。


「帝国との状況が悪化すればするほど、セヴィル出身である私はきっと貴方の欠点となり、かせになるでしょう。……私は、アーサー様に幸せになってほしい。足を引っ張りたくないんです。貴方が大切だから……だから、わたしは……あなたの想いを受け取ることは――」


 言葉の先を紡ごうとしたソフィアの唇に、冷たい指先が優しく押し当てられた。

 

 アーサーは軽く目を閉じて静かに首を左右に振った。

 ――「いまは言わないで」と。


「気持ちを押しつけて縛り付けるつもりはないんだ。僕も君と同じだ――大切な人には、愛する人には、誰よりも幸せになって欲しい。だから僕は、何があっても君を守る。どんな時も一番の味方でいるよ。だから、一人で声を殺して泣かないで。辛さも悲しみも、何もかも抱え込もうとしないでくれ」


 彼はソフィアの手を恭しく取り、自分の額に押し当てた。


「僕は何も望まない。君の笑顔と幸せを守りたい。ただ、それだけなんだ」


 それは、リベルタ王国の騎士や貴族が最も大切な相手に贈る、永遠の誓いの儀式。

 自らの名誉と誇りと、命をかけて交される、違えることは許されない神聖かつ最高の愛の証。



「お願いだ。僕を君の世界から、閉め出さないで」


 

 ソフィアの頬に一筋、涙が伝った。

 

 将来のことなんて何も考えず、彼の愛を受け取れたら……どれほど幸せだろう。

 

 今日明日が楽しければそれで良い。身分も地位も出身も関係ないと――幼い子供のように思えたら、どれほど楽か。


 でも、自分もアーサーも現実の厳しさを知っている立派な大人で、互いに相手の幸せを願い、抱えている悩みや葛藤が分かるからこそ。


 触れあえるほど近くにいるのに、想いが通じ合っていると分かっているのに、あと一歩が踏み出せない。


 言葉が思い浮かばずうつむくソフィアに、アーサーは穏やかに笑って静かに告げた。


「さぁ、もう夜も遅い。寮まで送って行こう。ほら、月があんなところにいるよ。明日は休みだよね? 僕もさすがに疲れたから、久々に一日ゆっくり休暇を取るとするさ。お互い休息を取って、また明後日から頑張ろうか」


「……はい」


 自分に寄り添い、優しい微笑みを浮かべてそっと背を押してくれる彼は、まるで夜空に浮かぶ綺麗な月のようだ。


 太陽みたいに目がくらむ光で自己主張するわけでも、圧倒的な熱量を押しつけてくるわけでもない。


 いつの間にか近くにいて、『そばにいるよ』と言うように静かに見守り、真っ暗な世界で進むべき道を照らしてくれる。


 でも、平凡な人間は月に触れることは叶わない。

 近くにあると錯覚しているだけで、現実には両者の間には途方もない距離がある。


 まさに、今の自分達と同じだ。


 

――アーサー様。……心から、お慕いしています。



 ソフィアは伝えられない想いを、心の中で告げた。

 



 

 執務室に鍵をかけ、並んで廊下を歩く二人の背中を、物陰から一人の女が睨んでいた――。


 

 see you tomorrow

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