翌朝、黒崎は署に出ると、交通課の女性警官が兼務している窓口で尋ねた。

「久保田、来てるかい?」

 顔なじみの間延びした声が返る。

「あ、黒崎さん、おはよーございまーす。まだ見てませけどー」

 日曜ではあるが、繁華街の外国人犯罪を主に監視する北署では休日のローテーションを厚くしている。かつては損保会社が保有していた古いビルを買い取った庁舎の1階は、平日よりもたくさんの署員が行き交っていた。庁舎は使い勝手が悪いため、近々新築しようという計画も持ち上がっている。

 黒崎は2階へ上がった。

 久保田は通常、黒崎より早く出て机で資料を下調べしているのだが、やはり見当たらない。机も整理されたままで、ちょっと席を外したという感じではない。

 昨日は2人で飲みながら状況を整理した。他人に話を聞かれないように黒崎のアパートでの〝宅飲み〟だったが、10時には帰っている。それほど深酒をしたわけでもない。

 しかも、翌朝は少し早く出て調べ物をすると言っていた。

 机を並べるような形になっている隣の班長――戸山に問う。

「久保田、見かけなかったか?」

 戸山班の刑事たちはすでに出払っている。

 小太りの戸山は調整型のリーダーで、何事も空気を読みながら穏便に済ますタイプだ。警察内部では珍しくないが、あっちこっちから持て余されたはぐれ者を集めたような北署では、希少な存在だ。黒崎は他の刑事からは白い目で見られがちなので、戸山とも無駄話をするような間柄ではない。

 今日の返事も素っ気ない。

「お前ら、非番だろう? しかも日曜だぞ」

「だが、予定がある」

「見てない。それより、署長が呼んでた。お前が来るのを知ってたみたいだな」そして、顔も上げずに付け加える。「また何かやらかす気か? 頼むから、俺たちを巻き込むなよ」

 黒崎は自分の〝悪評〟が退職までつきまとうだろうことは覚悟している。だが、4年かけても隣の班からの信頼さえ得られない現実は、いささか堪えた。

 署長の要件は分かっている。先走った捜査を叱責されるのは、当然でもある。

 だが、予想より早い。はるかに早い。

 つまり、単に不文律を破ったというだけではなく、どうやら〝組織〟にとって腹に据えかねる事態を引き起こしてしまったということらしい。

 またしても――では、ある。

「ああ。怒鳴られてくる」

 署長室に入るなり、弱り果てたような声がもれる。

 署長の武田正道は、机に突っ伏して頭を抱えていた。

「黒崎君、一体君は何をやってるんだね……?」

 目を上げようともしない。新宿北署の珍種、〝調整型リーダー〟のもう1人はこの署長だ。

「どこからの苦情ですか?」

 武田は動かないままため息をつく。

「何の苦情かは、聞かないのか?」

「明確な服務規程違反はしていません。暗黙の了解をあえて無視したことは認めます」

 武田はようやく顔を上げた。

「最初の苦情は新宿署長からだ。偽装心中事件の捜査はこっちの仕切りだから首をつっこむな、とね。次は警視副総監。黒崎をきちんと躾けておけ、と怒鳴られた。そして警察庁。公安課から、情報収集の邪魔はするなと釘を刺された。君には中華街の情報収集を命じたはずだ。もう一度聞く。何をやっているんだ?」

「偽装心中は確定したのですか?」

「男の方は毒物での殺害だと断定された」

「毒物の種類は?」

「私は知らされていない」

「捜査本部は新宿署に?」

「まだ確定していない」

 問題は、そこにあるのだ。

「なぜですか? 共通の過去を持ち、同じ活動に参加していた2人が殺されているんでしょう? 本部が立って当然じゃないですか? 殺人を前提にしない理由はなんですか?」

 署長の返事に苛立ちが混じる。

「私に分かるか、そんな事。向こうには向こうの事情があるんだろう。それより君は、何を探り出した?」

 自身の手柄のために捜査状況を隠す刑事は無数にいる。ライバルの足を引っ張るためにあえて誤った情報を流す者も少なくはない。真山早希から得た情報は、隠すに値する価値がある。

 だが黒崎は迷わなかった。

「都内各所で70歳前後の人物――偽装心中の被害者に繋がりがある者たちが死亡しています。その数は最低4名。全員、事故や自殺だという結論が出ていますが、極めて不自然ですので調べるつもりでいました」

 武田の目が真剣に変わる。

「久保田と2人で関連性を発見したのか? 各所ということは、別々の所轄の管轄なんだろう?」

「ある筋の情報です」

「どこの?」

「毎朝新聞、若手記者」

 武田はまた首をうなだれた。

「やはりな……公安からはそれも言われた。その記者な、社内でも持て余されている跳ね上がりらしいぞ。妄想まがいの陰謀論ばかり口にするので、無視しろということだ。過去にはデモを監視していた公安に食ってかかったこともあるという。左翼かぶれの要注意人物だ」

「だから彼女からの情報も全てデタラメだ、と?」

「私は無視しろと命じられただけだ」

「ですが、その後に数時間調べただけで、記者の話は裏付けられました」

「裏付け? 何のことだ?」

「死んだ4名、全員が偽装心中被害者と同時期に帝都大学に在籍していました。しかもゼミが同じです。その後はバラバラの人生を送っていたようですが、退職後にDTAの集会をきっかけにしてまた集まるようになっています」

「DTA?」

「デモクラシー・トゥー・アクト。リベラル系の若者の集団です」

 武田が面倒くさそうに言う。

「そうか。だが、偽装心中の被害者は何とかスクエアとかいう結婚相談所みたいなところで再会したということだ。高齢者向けの出会い系らしいから、昔なじみがそっちで出会っていても不思議はあるまい?」

「女の方はたまたま再会しただけかもしれません。しかし毒殺された長妻は不審死を迎えた4人と明らかに関連があります。心中を偽装した何者かに殺された可能性は否定できません。だとすれば、かなり危険な意図を持った連続殺人ということになります」

「そっちの捜査は公安の領域だ。しかも北署が管轄外の捜査を主導することなどできない。頼むからバカな騒ぎは起こさないでくれ。私がここの署長になれたのは、奇跡のようなものなんだ。ここでまたしくじれば、もう警察に居場所はない。あと2年で構わない、頼むから大人しくしていてくれ」

 武田はほとんど泣きそうに訴えた。

 だが、黒崎の表情は一層冷静に変わる。

「事態が警視庁の範囲に収まっているかどうかも不明です。警察庁へ広域捜査を提案することをお願いできないでしょうか」

 武田が声を荒げる。

「バカを言うな! 本当に私の首を飛ばす気か!」

「さらなる被害者が出るかもしれません」

「お前の言うことを聞いていたら、次の被害者は私だ! これは命令だ。君はこの件から手を引いて中華街のパトロールに戻れ。いいか、今後一切関わりを持つなよ。命令だからな!」

「もう一度お願いします。広域捜査を提案してください」

「黙れ! 話は終わった!」

 黒崎はかすかに肩を落とすと、振り返ってドアを開けた。そして振り返る。

「久保田が来ていないんですが、連絡はありませんでしたか?」

「いちいち知るか、そんなこと! しかも日曜だ! デートでもしてるんだろう! さっさと出て行け!」

 黒崎は廊下に出た。

 存在感の薄い武田署長の珍しい怒声に驚いたのか、通りがかった女性署員が書類を抱きしめて身を縮めていた。

 黒崎は愛想笑いを見せてから、ため息混じりにつぶやいた。

「デジャブかよ……」

 机に戻った黒崎は、戸山に告げた。

「久保田が来たら真っ先に私に電話するように伝えてくれ」

「繋がらないのか?」

「酔ったままゲームでもして、バッテリーが切れたのかもしれない」

「お前はどこに行く?」

「署長の命令通り、新大久保の情報収集だ」

「1人で大丈夫か?」

「ヤバイ場所には近づかない」

「分かった」

 しかし黒崎は、北署を出ると反対方向へ向かった。毎朝新聞の真山早希と約束した高田馬場の喫茶店に向かう。

 途中、新宿署の刑事や北署の〝監視〟に目を配りながら、裏通りに入っていく。

 喫茶店にはまだ真山早希が着いていなかった。黒崎は、人目につきづらく、しかも玄関周辺が見渡せる角のボックスに入ってスマホを取った。

 相手はすぐに出た。元嫁の天野小百合だ。

『あなたからかけてくるの、珍しいわね』

「元気にしているか?」

『わたし? 誠治?』

「どちらも、だ」

『元気よ。風邪もひいていないし。で、来週は来られるの?』

「それがどうも怪しくなってきた。まだ先の話だから決まったことではないが」

『忙しいのね。大きな事件?』

「そんな気がする」

『あなたの勘って、よく当たるものね……。父さんのこと、聞きたいんでしょう?』

「小百合の勘もバカにできないな。何か言っていないか?」

『あなたのこと? 別に何も言っていないけど。何か公安に関係する事案なの?』

「その可能性が高い」

『気になることを聞いたら、お知らせします。多分父さんも、わたしに話すのはあなたに教えたいことでしょうから。ほんと、警備局長なんて、因果な仕事よね……』

「すまない」

『でも、なるべく時間は作ってね。誠治は楽しみにしているんだから』

「分かった」と、玄関ドアをくぐってくる真山の姿が目に入る。「じゃあ、切るぞ」

『気をつけてね』

 電話を切り、手を振って真山に居場所を知らせる。

 真山は笑顔を浮かべてボックスにやってきた。昨日とは打って変わった、女子会にでも出かけるようなカジュアルな服装だ。

 向かいの席に着く。

「遅くなりました」

「大したことではない。今日は会社を休めたのか?」

「見習いだから、日曜は休みにしてくれるんです。先輩らは、厄介払いができたって顔してましたけど。久保田さんは?」

 あらかじめ、3人で情報を持ち寄る手はずだったのだ。可能なら、関連すると思われる死亡事案が起きた所轄を回って詳細を聞き出すつもりだった。

 その計画は、署長の一喝ですでに崩れている。黒崎が来たらすぐに追い返せというお達しは、とっくに近隣所轄に広まっているはずだ。

「連絡がつかない。眠りこけてるんだろう。珍しいが、初めてじゃない。特にワールドカップとかオリンピックの時はね」

 真山は気にも留めない。

 ウエイトレスが来る。コーヒーを注文し、ウエイトレスが去ってから小声で言った。

「で、あれから何か分かりましたか?」

「君が公安から睨まれていることが、ね」

 真山は恥ずかしそうに目を伏せた。

「やだ、そんなところまで話が……」

「君も有名人らしいね」

「先輩とはよくぶつかります。だって、公安と妙に仲良くして、媚を売っているようにしか見えないんですもの。公安の人ったら、デモのおばあちゃんにまで乱暴するし」

「だから食ってかかったのかね?」

「そんなことまで聞いちゃったんですか……?」

「で、言われた。君は妄想癖がある陰謀論者だから相手にするな、とね」

「信じました?」

「いや。君の話は裏付けが取れた。背後関係の推理はたとえ間違っていても、起こった事実は動かせない」

「賛成してくれますか?」

 黒崎は、迷いが生じていることを隠さなかった。

「上から、手を引けときつく命じられた」

「なぜ⁉」

「公安マターで、そもそも管轄が違うからだ。その点では反論の余地はない」

「だから従う、と?」

「今度しくじると、警官でいることも難しくなりそうなのは確かだ……」

 真山が身を乗り出す。

「黒崎さん、昔、何があったのか教えてくれませんか? どうしてキャリアが現場の刑事になったのか」

「聞いてどうする?」

「関心があるんです。とても」

 真山の真剣さはただの好奇心とも思えなかった。

 黒崎は、新宿北署の同僚にもその話をしたことはない。中には聞きたそうにしている署員もいたが、自分が犯した〝失敗〟をわざわざ語る気にはなれなかったのだ。それが署員との壁を作っている原因にもなっていることは承知している。

 だが、相手が職務と無関係な新聞記者なら、話すことに抵抗はない。根本的な非が自分にあるとは今でも思っていないからだ。

 しかも真山は、重大な視点をもたらしてくれた情報源でもあった。何より、誰かに知ってもらいたいという欲求は、常に抱えていたのだ。

「どんな種類の関心だ?」

「ただの個人的興味ですよ」

「記事にはしないように。無論、他言もダメだ。たとえしても、私は完全に否定する。おそらく、君の記者としての経歴に傷がつくだけだ」

「それでも聞きたいんです」

 黒崎はしばらく考え込むと、順を追って話し始めた。

「私の父親は警官だった。所轄の刑事だったがね。親父は言ったよ。警官になる気ならキャリアを目指せってな。ノンキャリの限界がよく分かっていたんだ。幸い、学校の成績は悪くなかった。公務員試験も問題なく通過できたし、警察の家系だから歓迎された。警察庁に入ってからも、同期の中では何かと目をかけてもらった方だ。警部補の研修時代の成果が気に入ってもらえたんだろう。上司の娘と結婚して息子もできた……」

 黒崎はわずかに次の言葉をためらった。〝あの時〟の選択が正解だったのか、今だに結論が出せずにいたのだ。

 真山が言った。

「そんなに順調だったなら、どうして? 上司って、今の警備局長だって噂を聞いたんですけど……」

「それは本当だ。妻とは別れたがね」

 真山が困ったように目を伏せる。

「あ、ごめんなさい……」

 黒崎の表情は動揺は見せていない。

「構わない。自分の判断が招いた結果だからね。息子とは、月に一度は会わせてもらえるしな。局長の立場を台無しにしたんだから、その程度の制裁は当然だ」

「でも、奥さんの気持ちは……?」

 だが、家庭の話には深入りしたくなさそうなことが、黒崎の目に滲む。

「そんなことより、所轄に来た経緯だ。快楽殺人の疑いが濃い事件で管理官の補佐を受け持つことになった。連続性が疑われ、しかも関東全域にまたがる案件だったのでね。現場との連絡役をしていたとき、所轄が文字通り這いずり回って犯人を特定した。だが、犯人グループの中に大物政治家の息子がいると分かった。途端に捜査が打ち切りになって、どれも自殺という結論が出た。現場は当然憤った。上からは現場を抑えろと命じられた。板挟みだよ。私は納得できずに、知り合いの記者にリークした。で、所轄の下っ端刑事に降格だ。何人かの所轄刑事が責任を取らされたことの方が辛かったがね」

 真山が不思議そうな顔をする。

「黒崎さんのこと、ちょっと調べましたけど、そんな記事は見つかりませんでしたよ」

「その記者がご注進に走って事件がうやむやにされたんだ。警察幹部に通じていたんだな。記事にするより、政治家を守りたかったんだろう。野党の大物議員だったしね。あれが与党議員だったら、1年間は政権批判の材料にされていただろう」

 真山がかすかに息を呑む。

「信じられない……」

「何が?」

「記事にするより政治家を守るだなんて……」

「今だって変わってないだろう? 与党議員なら私的な会合で口が滑っても厳しく咎められる。野党議員は収賄まがいの献金を受けても無視される。献金元の労働組合幹部が脅迫行為で組対に逮捕されても、ろくに報道されない。それがマスコミだ――あ、君も記者だったね。気を悪くしたら謝る」

「あの……〝そたい〟って何ですか?」

「記者なのに知らないのか?」

「ごめんなさい、聞いたことがなくて……」

「組織犯罪対策課だ。暴力団対策の部署だよ。四課とかマル暴とか言われることもある」

「ああ、それ、先輩たちはみんなマル暴って呼んでましたから……」

 黒崎は言いづらそうに付け加える。

「つまり、労働組合の皮を被っていれば暴力団同然のアコギな真似をしていても、マスコミの〝報道しない自由〟に守られるってことだ」

「お気遣いなく。わたしだって新聞が神様だなんて思っていませんから。特にウチは風当たりが強くて、ネットじゃタコ殴りです。部数も急激に減ってますし。仕方ないですよね、現場が上げた記事だって握り潰されることがしょっちゅうですから。でも、野党議員を警察が守ったって、ちょっと意外……警察が守るのって、普通は政府とか与党でしょう?」

「与党側からの圧力も大きかったようだ。双方とも、波乱を避けて現状を維持したかったんだろう。裏での取引もあったのかもしれない。議員といっても、一皮むけば同じ穴の狢ってやつも多いしね。例えばパチンコマネーは与野党見境なしに配られているらしい。海外援助のペイバックやら、他国の工作が疑われる資金に群がることもあるようだ。ネットに流れてる怪しげな情報が意外に本当だったりもする。野党といえども大物が槍玉にあげられると、与党もやぶ蛇になりかねないってことだったんだろう」

 真山の目が輝く。

「別の件で、何か確かな情報を握っているんですか⁉」

「あくまでも私見だよ。それに、警官には守秘義務がある。次に制裁を食らったらもう飛ばされる場所もないしな」

「まあ、そうか……でも、キャリアさんって、そんな軋轢にも巻き込まれちゃうんですね……」

「官僚、だからね。役人は、正義の味方にはなれないさ。あの決断が、私の最も大きな岐路だったと思う。当時はそんなことまで考えず、ほどんど反射的な行動だったがね。青かったんだよ。笑ってくれたのは親父だけだ。妻はあっちの父親に命じられて離婚届を書かされた。小学生の息子も今は妻の実家で暮らしている……」

「後悔しているんですか?」

「北署に飛ばされた当時はきつかったからね。ノンキャリの間では、私が警察に残れたのは現場の刑事を切り捨てたからだと噂された。事件に関しては話すことを禁じられていたから、弁明もできない。まあ、する気もなかったがね。で、ただただ地道な現場仕事に没頭したわけだ。おかげで今ではあの頃のことを思い出すことも少ない」

 ウエイトレスがコーヒーを運んでくる。

 真山はあえて話題を変えるかのように言った。

「久保田さん、やっぱり連絡つかないんでしょうか?」

 署からの連絡もない。黒崎も不思議に思っていた。これまでの久保田の行動とは明らかに違う。

 黒崎はスマホを取った。久保田に連絡する。やはり、電源が切られているようだ。

 理由は一つしか思い当たらない。

「ダメだね。署長から私とは行動を共にするなと命じられたんだろう。まあ、あいつの将来にとってもその方がいい」

「諦めが早いんですね」

「私と付き合っていると、ろくなことはないからな」

「わたしも、かな?」

「君は警官じゃないが、厄介ごとに巻き込まれそうだと感じたら、すぐ逃げて知らんぷりしていなさい」

「でも、私も結構な疫病神らしいですよ」

「それは署長から聞かされた」

 真山は小さく肩をすくめた。

「で、これからどうします?」

「君はどうしたいんだ?」

「あなたの行動を追いたいですね。記者として」そして真山は意味ありげに微笑んだ。「どうせ、手を引くつもりはないんでしょう?」

 黒崎も苦笑いを浮かべる。

「まあ、考えようによっては単独行動を許可されたようなものだ。久保田を巻き添えにする心配がないなら、なおさらだ」

「でも、もう命令違反は許されないんでしょう?」

「署長直々に明らかな指示を受けているから、今度違反すれば最低でも停職だな。厄介払いの口実を与えることにもなるから、免職かもしれない」

「いいんですか⁉」

「誰かが殺されるのを防げるなら、それでもいいかもしれない」

「でも――」

 黒崎がニヤリと笑う。

「真正面から突っ込むような失敗は繰り返さないよ。考えたんだが、君の手帳を貸してくれないか?」

「はい? なぜです?」

「私が拾ったことにする」

 真山は黒崎を見つめてから、本当に小さく吹き出した。

「なるほど、手帳を返すために私を追ってくる、っていう設定ですか? だったら、私が先にデモを取材してればいいんだ」

「刑事だっておまわりさん、だからね。拾得物は落とし主に返さなくちゃいけないだろう?」

「話は決まりですね」

 真山は次に話を聞く人物に当りをつけていた。往年の〝女性闘士〟だ。死亡した全員と知り合いだったことも確認している。

「今日も国会前だね?」

「押しかけ出勤、してきます。1時間後に探しに来てください」

 そして真山はコーヒーを飲むと、テーブルに手帳を置いて先に喫茶店を出た。

 黒崎は約束の時間になると、中華街のパトロールのための服装のままでデモ隊に近づいた。署に戻って着替えるわけにもいかなかったのだ。いったん署員の目に付けば、おそらく署長に知らせが行く。足止めを食らう恐れも高かった。

 デモ隊を遠巻きに囲む群衆の中に真山がいた。

 黒崎は真山に近づいた。それに気づいた真山が、顎でデモ隊を示す。今回の監視対象の初老の女がいた。

 肩まである白髪混じりの髪をボサボサにしたままの姿が、目立つ。服装も一昔前のナチュラリストといった風情だ。身なりに構構わず世間体も気にしないという姿が、一種のステイタスだと信じているらしい。

 黒崎にこれといった計画はなかったが、女も知り合いの不審な死が続いていることは知っているはずだ。素性を偽らずに事件を扱った刑事として話を聞ければ構わないと思っていた。それでも、身辺に注意を払うように警告することはできる。

 だが、黒崎は女に近づくことすらできなかった。

 女は不意に誰かに気づいたかのように、デモの群衆を掻き分けて走り出したのだ。黒崎や真山を警戒したのではない。他の誰かから逃げようとしている。

 そして、明らかに怯えている。

 黒崎の頭の中で、警報が鳴った。

 女を早足で追う。彼女を追う真山の姿も視界に入る。

 警戒させるのはまずい。だからといって昨日同様、このまま逃しては捜査が続けられない。黒崎が追いかけているのは形の上では真山なのだから、彼女を追い越すわけにもいかない。公安は必ずどこかで監視しているはずだから、わざわざ用意した言い訳を無駄にするような強引な追跡もできない。

 黒崎は焦りを感じながらも、わずかに足を早めた。

 女は、霞ヶ関コモンゲート方向に向かっていく。昨日男が消えた小路が、デモ隊から緊急避難する際の〝ピックアップ・ポイント〟として定着しているようだ。やはり女は、尚友会館横の小路に入った。

 昨日の繰り返しだ。また車で逃走されてしまう。

 黒崎がそう確信すると同時に、真山が足を早める。

 黒崎も走り出した。

 角を曲がった途端に、駐車中の車列の陰から黒塗りのバンが飛び出し、急速にスピードを上げた。昨日の車とは車種が違う。ナンバープレートは薄く泥をかぶって読めない。

 女が車に向かうような形で車道に飛び出す。しかし車は、スピードを落とさなかった。それどころか緩い坂の下り傾斜を利用するようにさらに加速し、女に向かっていく。そして、意外そうに身を固くした女を、鈍い音とともに跳ね飛ばす。

 女は声も出せずに路肩に駐車していた車に叩きつけられ、バウンドして車道に転がる。黒塗りのバンは女の足を轢いてそのままスピードを上げ、タイヤを鳴らして六本木通りを左折した。

 全て一瞬の出来事だった。

 明らかに意図的なひき逃げだ。しかも日曜とはいえ、真昼の官庁街でのあまりに大胆な犯行だ。

 黒崎が思わず叫ぶ。

「クソ!」

 だが、その黒崎の目の前に2人組みの男が飛び出していた。公安だ。デモの監視班と連携してこの周辺の見張りを強化していたようだ。

 1人が一瞬黒崎を睨むと、振り返って部下に命じる。

「逃走車両確保の手配! それから救急車を!」

 もう1人がすぐにスマホを取る。

 命じた男は女を救助に向かう。轢かれた女から何かを聞き出そうというのだろう。救急車の手配よりも、聴取が優先されている。口から血をにじませていた女の息は、いつまで保つかも分からないからだ。

 人命救助よりも情報収集――それが公安の考え方らしい。

 スマホを握りしめた部下は、車の特徴と逃走方向を早口で告げている。逃走車両のタイヤの音で事態に気付いた野次馬たちが集まり始める。

 足を止めていた黒崎に、踵を返した真山が追いつく。小声で言った。

「あれって……」

「公安だ」

「彼女、公安に追われてこんなことに⁉」

「女は公安に気づいていなかったような気がする。だが、誰かから逃げ出したのは確かだ。殺されると恐れていたのかもしれない。ここから逃げるぞ」

 黒崎は、公安に囲まれて動きが取れなくなることを警戒していた。

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