夜影のマレビト
不稔
口裂け女
第1話 通り魔
夜を影が一つ、駆ける。
ひそひそ────
闇に紛れて何かが囁く。
くすくす────
夜に
ひたひた────
影に隠れて“それ”は
-1-
デスクの書類をまとめ、帰り支度をしながら
「ねぇ聞いた?この間また通り魔が起きたって…」
「知ってる知ってる!昼のニュースでもやってた! ×××市でしょー?県内だからめっちゃ怖いじゃん!」
「これで3件目だよ。ウチの旦那も帰るのが遅いから心配なのよねぇ」
部署の隅では既に私服に着替えた同僚たちがペラペラと喋っている。
早く帰ればいいのに と思いながら美菜子はまた溜息を吐く。
(駄目だな…最近癖になっちゃってる)
「あ、もうこんな時間!夕飯の支度間に合わなくなっちゃう!」
「あれ、そういえば冴木さん、部長から頼まれてたやつ終わった? 明日の会議に使うって書類の…」
「あー!!やっば忘れてた…!……でもどうしよう………早く帰らないとだしなぁ…。そうだ、山岸さん!」
ロッカールームに向かおうとしていた美菜子に声が掛かる。
それだけで大体察せられた。いつもの事だ。
(早く帰ればよかったのは私の方か…)
後悔と共にまた溜息を吐き出した。
オフィスに時計の秒針音が虚しく響く。
「またこんな時間か」美菜子は先程よりも増えた書類を纏めつつぼんやりと時計を見て呟いた。
そしてはっと何か気付いたように自らのバッグを漁る。
(どうせご飯遅くなるから今のうちに食前の漢方薬飲んどこ……)
美奈子は小袋の中の顆粒を給湯室の水道水で流し込んだ。そしてそそくさと階段を駆け降りて守衛室にオフィスが空いた事を告げてから靴を履き替える。
(今日は久しぶりに寄り道して帰ろうかな)
そんなことを考えながら足早に会社を出た。
事が起こったのはそのすぐ後だった─────。
-2-
(誰かが、私の後を付いてきてる⁉︎)
美菜子がそれを確信したのは、月明かりが煌々と照らす夜の家路を辿る最中であった。
いつもと代わり映えのしない職場で、いつもと同じように無難にデスクワークをこなし、いつもの駅で降りて、たまのストレス発散をして、徒歩で帰路につく──そんな特に変哲もない日常に降りかかった歪な足音。
それは彼女と全く同じ間隔で靴音を鳴らし、彼女が立ち止まればそれもまた何の余韻もなく止まる。
美菜子のヒールとはまた別の厚みのある靴音。
振り返る
何もいない
何かいる
何も見えない
彼女は恐怖に駆られ、足早に路地を進んだ。足音もそれに合わせて早くなる。
しばらく進むとぽつんと佇む街灯が遠目に映った。
ほんの少し安堵の溜息。
その時
「こんばんは」
耳元で囁く女の声。
全身が総毛立つ。
とっさに振り返るが、その景色に変化はない、誰もいない。
でもそんなはずはない彼女には確かに聞こえたのだ。
粘着質な暗い声が、気の所為ではないはっきりとした声が。
美菜子は咄嗟に周りを見渡した。
(どこか…隠れられるとこ…!)
しかし隠れられるような物陰はない。
パニックになりながらも考える。
このまま気付かないフリをする?それで?家に帰れば安全か?違う。家の場所がバレる!あまつさえそのまま家に押しかけられるかも知れない!それはダメだ。
なら警察に?交番までここからかなり遠い!通報は?警察に電話してるのがバレたらいきなり何をされるか判らない!じゃあとにかく誰かに電話を、けど誰に?なんて?ストーカーに追われてるって?それで助けに来てくれる人なんてあああああああわからないわからないわからない───────
怖い!
街灯までは遠い。走り出せば───いや、背後の足音が遂に自分に何かをする決断をしてしまうかも知れない。
幸い、月明かりのおかげで辺りの光景はある程度見える。美菜子は咄嗟に歩道沿いのブロック塀に背中を付けた。
視界を広く保つ──パニック状態の頭でそれが先決だと思ったからだ。
このまま逃げ出したいがどうすればいいのか考えがまとまらない。
「そんなとこにいたら背中が見えないじゃん」
また声がする。今度は────
「なん…で……うしろ…から…?」
そんな筈はない。そんな筈はないのだ、絶対に。
何故なら自分の
つい先程まで自分の真後ろにいた筈の足音がブロック塀を飛び越えたとでも?
いや違う。
「むぐっ⁈⁉︎」
急に口を抑えられる。何に?
腕。自分自身の背後────影から伸びた腕に。
「つぅかまぁえたぁぁぁ」
愉悦の声が耳元で囁いた。
「!!!!!!!???!!?」
美菜子は狂乱の極みに達し、その手を両手で思い切り掴む。
瞬間、美菜子の手から漆黒の刃が飛び出し、口を塞ぐその手を貫き、引き裂いた。
ズタズタになった腕は力を無くしその場に落ちる。美菜子は口元の拘束が解かれたその隙を見逃さず、脱兎の如く走り出した。
脇目も振らず、指や手の腹から伸びるその黒い刃を隠しもせず────。
山岸美菜子が走り去ったその場で、落ちた腕が蠢く。
裂かれた腕は黒く歪み、再び元の形を形成した。
そしてその影からドロリと、何かが
人。
人の形をしたモノ。一見して女と見えるようなモノ。
2メートルはあろう長身に、足元まで伸びる厚手の黒いコート。乱れた長い黒髪が枝垂れるその顔は口元を鮮血のように赤いマフラーが覆っていた。
「通り魔風情が…」
女は黒髪から覗く切れ長の眼を忌々しげに細め舌打ちをする。
「まァ………そろそろ飽きたなァ」
その声と同時に女の姿は消えた。
-3-
走る。ただひたすらに走る。風に髪が乱れるのも気にせず、美菜子は走った。
(なんでこんな事に……!)
何を間違ったか。今日が偶々ストレス発散の日だったから?その為に人通りのない道を選んで来たから?
走る間、誰ともすれ違わない。助けてくれる人は誰もいない。
どれだけ走ったか、彼女は小さな公園まで来ていた。『使用禁止』の看板が立てられた遊具を潜り抜け、開けた場所で息を
徐々に冷静になる動悸と裏腹に目頭が熱くなる。
「私の人生…なんで……!こんな…」
涙に混じり声が絞り出てくる。何故自分がこんな目に遭わなければならないのだろう。
「そりゃあお前がチンケな通り魔だからさ」
突然、髪が後ろから引っ張られる。冷や水を浴びせるような冷たい声と共に。
「ぎっ!?」
頭髪を引かれる痛みに思わず足が止まり、美菜子は咄嗟に振り向いた。目の前には真っ黒なコート。
見上げればそこにマフラーで口元を隠した女の顔があった。
「なっ…あっ……」
「お前だろう?ここ最近のツマラねぇ通り魔の犯人は。その
黒コートの女があの粘着質な声でゲタゲタと笑う。
「マレ…ビト……?な、なによソレ!!?意味わかんない!わかんないわかんないわかんないぃぃいいい!!!!通り魔がなんだってのよ!!!」
美菜子は目をギョロリと剥き、手に力を込めた。その掌中から巨大な黒刃が伸びる。
「たまのストレス発散の何が悪いのよぉ!!!!また!!またなの!!?また私が悪い事したっていうの?!ウルセェなぁぁぁぁあ!!死ねよおっっ!!」
狂乱した美菜子の刃が真っ直ぐに黒コートを貫かんと突き出される。
しかし
刃は虚空を貫くのみだった。
「ッ‼︎」
黒コートの姿が無い。
「クソが!クソがぁ!何度も同じ手を食らうかぁぁ!」
狂った本性を表した美菜子は以前のように動揺はせず瞬時に背後を斬り払う。
女は常に私の背後を取ろうとする。ならまた今回も────と。
だが、そこには、何もない。
「
足元に声。足元に伸びる自分の影からの声。
否──それは山岸美菜子の影に非ず。彼女のシルエットはあのコートの女そのものになっていた。真っ黒な影、しかしてその頭の位置より少し下には影でありながら血のような赤が─────
まるで黒い怪物が赤い口を開けて笑っているような────。
ギョロリと、本来あり得ない影と眼が合う気がした。
「お前!お前は!なんなんだ⁉︎気色悪いんだよォ!来るな来るな来るなあああ!!!」
美菜子は自らの影を闇雲に切り裂く。しかしそれで『影』というものが斬れる筈もなく、虚しく地に傷をつけるだけだった。
その姿を虚仮にするように影は、
しかし次の瞬間、影の手が恐るべき速さで地面から浮かび上がり美菜子の顔面を鷲掴みにした。そしてそれに続くように黒コートの全身もじわりとその実体を現す。
「はははははははははははははははははは」
腹の底に響く哄笑。じっとりとした生温かい息が顔にかかる。
「なぁ?通り魔のおねぇさん、『マレビト』ってのはアンタや
「ひっ!」
美菜子の眼前に白い瞬き。月明かりに反射する小さなナイフが恐怖に引き攣った彼女の顔を映した。
「気持ちよかっただろう?人を殺すのは。悪い事したなんて思わないよなぁ、
「な、なら…同じなら…仲間でしょ…!見逃…して!」
恐怖で噛み合わない歯をカチカチと鳴らしながら美菜子は哀願する。
その言葉を聞いた女はぐにゃりとその眼を猟奇的に輝かせながら美菜子の顔を覗き込んだ。
「ハッハァハハ!そうだよなぁ、その通りだ!」
顔を掴む手にほんの少し力が込もり、ミシリと嫌な音が耳の奥で響いた。
「ただなァ、そう思わない奴らもいるらしい。残念ながらアタシは、そいつらの手先なんだ。どうしてもお前を殺さなきゃならないんだとさ!
せめてもの手向けに、先達として殺しの見本を見せてやるよ……参考にするといい、
まぁ次なんて無いけどさぁ」
女は自らの言葉すら待てないというように美菜子の胸にナイフ突き立て、ゆっくりと─────
「ぁ…?」
あまりにも短い断末魔をあげ、哀れな通り魔は事切れた。
山岸美菜子の亡骸が全身の力を無くしその場に倒れ伏す─────しかしその
蠢動する影だけが残り、暴れ狂うようにのたうち回っていた。
-4-
辺りには静寂。主人を失った影は音もなく伸び縮みを繰り返し乱れ回っている。
「んじゃ、
静寂を破ったのは黒コートの女。彼女は誰にともなく月明かりの虚空に向かって声を掛けた。
するといつからそこにいたのか黒尽くめの人影が複数、そこに立っていた。彼らは黒い頭巾に黒い羽織を纏い、顔には怒りとも笑いともつかぬ表情を模ったような木彫りの面をつけていた。手に持っているのは小さな手提げ提灯。
「
一人が恭しく頭を下げた後、山岸美菜子の遺した影に歩み寄って行く。他の黒頭巾達も黙したまま粛々とそれに続いた。
「じゃ、マレビト退治も終わったんで、正義の味方はかえりますネー。バーイ」
夜重子と呼ばれた黒コートの女はヒラヒラと手を振ってその場を去ろうとした。
その時、けたたましく鳴り響く電子音。この異様かつ面妖な場にあまりにも相応しくない陽気で快活な『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』。
しかし、その場にいる誰もが特に動じる様子もなく───。
夜重子は黒コートのポケットから力の限り着信音を発している、黒く飾り気のないスマートフォンを取り出し画面を見ると、目を
「あー、もしもし!……ああ今終わった」
喜色満面の声。粘着質な部分はそのままに、先程の通り魔との会話とは打って変わって、軽く明るく言葉を弾ませている。
「んん……うんうん……ああそうだね、今から行くよ、んじゃ待っててねマイハニー!!」
口元を覆うマフラーをずり下げ、甘ったるい声で電話口の相手に別れを告げる。
月に照らされたその顔の左側には口の端から耳にかけて大きく醜い傷があった。
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