忍者ムササビ ~ 家出少年は早くおうちに帰りたい ~

岡崎市の担当T

第一章 蜘蛛の糸

第1話 幼稚な戦争

「よっ、ほっと」


 そんな軽い掛け声一つ。3mはあるスロープの壁面を、通路の角を利用した三角飛びティックタックのみで駆け上がった少年がいた。

 160cmほどの身長に筋肉質ながら細身の体。男子にしては細い柔らかめの黒髪は、耳のあたりで僅かに外へ跳ねている。キリっとした眉は意志の強さを伺わせた。


 名を、高町彼方たかまち かなたという。


 足幅分ほどしかない壁の上。半袖とハーフパンツのスポーツウェアをまとった彼は、上を見上げてヒラヒラと手を振った。


「いいぞー、委員長!」

「ちょっと待ってろカナタ!飯田、相川、カメラどうだ?」


 委員長と呼ばれた少年が、すぐ横でハンディカメラを操作する女子に声をかける。 


「ごめん。容量ないわ。SDカード差し替える」

「こっちは大丈夫。私、横に回るね」

「おう、頼んだ」


 水と緑の豊かな山の斜面に作られた、6回ほど折り返す長いスロープ。落下防止用の手すりは高めのコンクリート造りで、歩道以外の斜面には磨き抜かれた大理石が使われている。

 山の頂上にある建物は白を基調とした外壁に、太い支柱が張り巡らされ、鋭角と曲線が入り混じった、芸術作品とも評することができる近未来的なデザインをしている。地方には珍しい、凝った外観の美術博物館だった。


「カナタぁ!この壁、宙返りフリップで飛び越えて、もう一個こっちの手すりに着地できるか!?」

「スタンディングじゃ無理!助走つけていいか!?」

「いいんじゃね!?そこを走るのもになるだろ!」

「りょーかい!」


 スロープの横に併設された階段の上から、友人達クラスメイトが手をメガホンにして叫ぶ。他にもスマホを構えたり、あーだこーだと相談したり、指で四角を作りアングルを確認したりと、皆忙しなく動き回っていた。その数25人。あと4人来ればクラス全員勢ぞろいだ。


「カメラ回したよー!」

「こっちもオッケー!」

「あいよ!行っきまーす!」


 ハンディカムを持つ女子の声に軽い調子で答えたカナタは、おもむろに壁の上を駆けだした。その足捌あしさばきは平地でも走るかのような自然さだ。向かう先はスロープの折り返し地点。スロープと階段を隔てる高い壁があり、床面からは2mほどの高さがある。

 そんな高所を全力疾走した後、手すりの端で踏み切ったカナタは。


 吹き抜ける青空の下で、高く高く宙を舞った。




 パルクール。

 走る・跳ぶ・登るといった、機動力に重点を置く総合スポーツである。競争相手はなく、フィールドも選ばない。徹底的に移動技術を極め、ただ只管ひたすらに自己の限界と戦うアスリート。


 彼らのことを、“トレーサー”と呼ぶ。


 ネットでたまたま目にしたその“舞”に、カナタは強烈な憧れを抱いた。真似事を始めて早1年。自己の身体能力を決して見誤らず、高所の恐怖に身をすくめず、天才的なルート選別をもって、限界ギリギリのランを全て成功させてきた。結果、カナタは怪我一つせず、その能力を高め続けることとなる。


「おー、やってるやってる」

「たっか~…」

「怖い怖い!!ケガじゃすまないよ!?」

「大丈夫でしょ。高町だし」


 その様子を、下から見上げる4人の女子がいた。遅れてやってきた残りのクラスメイトだ。跨っていた自転車を止め、高くそびえ立つスロープの壁から飛び出してきた少年を眺めている。


 膝を抱えて横向きに宙返りをしているカナタは、背中を下にして壁を超える。ゆるりと回転しきった後で膝を伸ばし、階段を挟んだ先の手すりに両足で着地。足首、膝、腰をバネ替わりに、衝撃をすべて吸収した。

 着地した手すりは建物の終点で、その先は垂直に切り立った壁面になっている。地面は10mほど下だ。そのうえ、着地した手すりは飛び越えた壁より1m以上低い位置にあり、踏み切った時点では着地点を視認できない。おまけに、その着地点は階段に沿って斜めになっているときた。


「…なんで危なげなく着地できるのかな~」

「階段での全力疾走とかも見てて怖いよ…」

「いやー、うちのクラスの末っ子、マジでパナイわぁ」

「誰が末っ子だ!」


 着地した手すりを滑り降りてきたカナタが、女子たちの会話に混じった。納得いかない言葉を聞き咎めている。


「だって高町より誕生日の遅いやつって同学年じゃありえないし」

「一番早い委員長と実際生まれた日は364日違うわけじゃん。誕生日は1日違いのくせに」

「それと無茶ばかりするからね。皆ほっとけないんだよ。はい、差し入れ」

「納得いかねぇ!ありがとう!」

「そういう素直なところとかね」


 手渡されたスポーツドリンクを早々に開け、カナタは消費した水分を補給した。


 季節は夏。暦は既に7月に入り、気温も湿度も非常に高い。当然、ひたすら動き回っていたカナタは汗を滴らせており、ドリンクの差し入れは素直にありがたかった。しかし礼を言っただけで年下扱いはさすがに解せぬ、と。カナタは喉を鳴らしながらも眉間に皺を寄せている。


「いいじゃないか。生まれるのが1日遅かったら、お前下の学年だったんだぞ」


 そこへ、上で動画を撮っていたクラスメイト達が全員階段を下りてきた。先頭にいた短髪で眼鏡をかけた少年が声をかける。

 その言葉通り、カナタの誕生日は4月1日だ。法的には誕生日の前日に歳を取ることから、定義上は4月2日から翌年4月1日を誕生日とする者が同学年とされている。

 投げかけられた苦言に、その状況を想像したのかカナタの眉が弱々しくハの字になった。


「それはヤだ。このクラスがいい」

「じゃ弟扱いくらい甘んじて受けな」

「なんで同級生なのに年下扱いなんだよ…」


 会話しているのは保育園時代から親友のクラス委員長だ。誕生日は4月2日。同学年で最も早く生まれた責任感からか、今までクラス委員長にならなかったことが無い、クラス1のカリスマを有する生粋きっすいのリーダーだ。同時に陸上部の部長まで務めている。

 昔から事あるごとに張り合ってきたが、カナタが勝てたのは走ることと跳ぶこと、それとサウナの我慢比べだけだった。

 今も優位を確信している委員長が、ニヤつきながらハンディカメラを振っている。


「早く受け入れないと、今の動画見せねーぞ」

「勘弁してくれ!エッチなビデオの次くらいには見たいんだよ!」

「女子の前でそういうこと言わない」

「しかもエッチなビデオよりは下なんだ…」

「4人はさっきまで撮ってた動画見る?ここでやるの初めてだけど、すごくいいわよ。壁技ウォール障害物走ヴォルトがホント画になるの」

「見せて見せて!」


 カナタの余計な一言に女子たちが半目になるも、末っ子のスケベなど今更だと言わんばかりに会話を弾ませた。それを尻目に、男子達がカナタを取り囲む。


「次、下から上まで駆け上がるところを上下から撮ろまい」

「行けるかい?カナたん」

「任せろ!10秒で駆け抜ける!」

「お前ここ普通に上まで行くのに何分かかると思ってんだよ」

「ゴールにラッキースケベがあればイケる!」

「女子に頼め」

「お願いしますっ!!」

「「「絶対イヤ」」」

「…はい…」


 即答でハモられ、カナタはしゅんとなった。一人おずおずと立候補しかけた手を引っ込めた女子がいたのは内緒の話だ。

 一丸となってカナタのパルクール動画を撮影するクラスメイト達。やいのやいのと、夕方の公共施設が賑やかになる。全員で何かを作り上げる高揚感に、みんな夢中だったのだ。


 故に、その喧騒に混じって近づくサイレンに、彼らは気が付かない。




 10分後。

 カナタは補導という言葉を知った。





 ◆





「この馬鹿野郎!!」


 時刻は夜10時。そんな怒声から、高町家の家族会議は始まった。25畳のLDKに置かれた4人掛けのダイニングテーブル。その奥に座るのが、会議の主題たるカナタだ。対面には両親が座り、眉間に皺を寄せて頭を抱えている。反面、大声を浴びせられた少年は身じろぎ一つせず、真剣な表情を崩さなかった。

 その顔を見て、審問役の片割れである父が、身を乗り出して議事を進める。


「こんな大事な時期に補導だと!?何を考えているんだカナタ!!」

「いかに速く駆け抜けるか。あと、思春期特有のエロ衝動がしばし」

「聞いてるのはそういうことじゃない!!!」


 美術博物館で警察に捕まった後、カナタは署まで連行された。事情聴取や諸々手続きを済ませ、当日中に出所。今ようやく帰宅したばかりだ。

 通報者は施設の管理者だった。罪状は”危険行為”。カナタは晴れて非行少年の仲間入りを果たしたのである。

 口では巫山戯つつも、目の前の両親に迷惑をかけた自覚があるカナタは神妙な顔で二人を見やっていた。


「だからパルクールなんて止めろとあれほど…っ!!」


 息子の落ち着いた様子に無意味な説法だと思った父は、そう言ったきり額に手を当て俯いてしまった。代わりに口を開いたのは隣の母だ。長い髪を揺らし、心配げにおずおずと声をかける。


「…部活はどうするの?中学最後の大会、もうすぐでしょ」

「陸上部は辞める。委員長にも悠ちゃん先生にも、さっき連絡した」

「そんな…っ」

「しょうがねぇよ。俺のせいで出場停止にはできねぇ。補導前に辞めてたって形に落ち着いた」

「…いいの?カナタはそれで…」

「良いも悪いも無ぇ。俺だけで事が収まるなら、それが一番だ」


 カナタは小学生のころから陸上と体操をやっていた。特に陸上は、多大な時間をかけて体と技術を鍛え上げてきたのだ。それを取り上げられてしまうことに何ら感慨を見せない息子が、両親には理解できなかった。


「…高校は?普通に受験するの?」

「そりゃそうだろ。推薦の話はもう無いだろうしな」


 補導され、陸上部は除籍。最後の大会も欠場ときた。そんな問題児を拾ってくれる強豪校などあるわけがない。息子の進路が狭まったことに、両親はそろって渋い顔をしている。

 一方で、カナタには本当に落胆などなかった。今は他にやりたいこともあるし、強豪校ではそんな自由も許されまい。「推薦なんてあっても行かねぇけど」と。カナタは内心で補足する。


「カナタ、警察署で褒められてたわよ?」


 そんな温度差のある3人に、横から女性の声がかけられた。不思議なフレーズに、そちらへ顔を向けたカナタが首をかしげる。


「なんでだよ?悪いことしたんだろ?俺」

「潔かったって」


 口を挟んだのは、ソファに寝転がって3人の様子を伺っていた姉だった。

 両親と一緒に弟を迎えに行った6歳上の彼女は、常日頃からカナタの心情を最もよく理解している一人だ。両親とは違い、さして現状に焦りも見せず、けらけらと笑っていた。


「逃げも隠れもせず、危険なことをしたのは自分一人だって自ら名乗り出たんだって?偉いじゃん」

「褒めるな七菜香ナナカ!!」

「褒めるべきとこでしょ、そこは。視野の広い判断はホント得意よね、カナタ」


 父の怒気を向けられても、姉はにこやかな表情を崩さなかった。そのまま、両親が手続きに手間取っている間に署員から聞いた裏話を披露する。


「ついでに補導した駐在さん、泣きそうだったらしいよ?」

「なんで?」

「そりゃそうでしょ。通報受けて駆け付けたら30人も居たんだから。不良の少年少女にリンチにされるってビビってたみたい」

「しねぇよ。うちのクラスに限って」

「わかってるわよ。ほんと仲いいもんね。あんたのクラス」


 そう。カナタが補導されたとき、彼のクラスは一人も欠けず全員集合していたのだ。パトカーに乗せられバイバイと手を振るカナタに、29人が心配げな顔で手を振り返す光景は、どうにも異様だった。


「父ちゃん、母ちゃん」


 その光景を思い返したカナタは、真剣な顔で両親へと向き直る。

 今の自分の能力は、一人で築き上げたものではない。クラス一丸となって技術を高める案を出し合い、少しづつ積み重ねてきたものだ。

 それを無駄にはできないと、カナタは口を開いた。


「今は、パルクールがやりたい」

「まだ分かってないのかお前は!!?」


 息子のその発言にカッとなった父が、テーブルをたたいて立ち上がった。


「お前が撮った動画を見たぞ!!なんだあれは!?アグレッシブな自殺か!!?」

「死んでねぇよ」

「死にかねないのが問題なんだ!!!」


 スロープの高い壁を三角飛びで一息に越え、8メートルの高さから僅かな段差と出っ張りを利用してほぼ垂直に駆け降りる。足場として作られたわけではない狭い範囲ばかりを踏みしめながら、画面越しですら目のくらむような高所でクルクルと回転する。

 例えそれが録画であっても、親としては気が気ではなかった。


 その恐怖に、両親は屈したのだ。



「金輪際パルクールは禁止だ!!シューズも全て没収する!!!」

「ちょ、待てよ!そんな横暴な…!」

「口答え禁止だ!!当面は勉強に集中しろ!!!」

「真っ当にやれる方法を探すくらい…っ!!」

「駄目だ!!話は終わりだ!!!反省してとっとと寝なさい!!!」

「おい、待てって父ちゃん!!!」


 話を打ち切り結論付けた父親の言葉に、カナタが焦った顔で身を乗り出す。それを一瞥いちべつすらせず、父は部屋を出て行った。


「ふざけんな!!従わねぇぞ!!!俺は…」

「カナタ」


 いきり立つ息子に、両手で顔を抑えた母が、静かに声をかけた。

 彼女も、カナタの動画を見ていた。結果、父と同様に気が触れそうなほどの心配を抱いたのだ。今までは、子供がやりたいことならと目をつむっていたが、その実態を目にした今、同じ対応はとても取れなかった。


「…お願い」

「…っ」


 主語のない懇願。それだけ残して、母も去っていく。

 姉と二人で残された部屋。立ち尽くすカナタは、俯いて肩を震わせた。


「ざけんなよ…!やれる確信のある機動しかやってねぇのに…!」

「それを分かれってのは無茶な話だと思うわよ?」


 正直うちも怖いもん、と。苦笑する姉を、カナタは弱弱しく睨みつけた。


「だからって諦めるアンタじゃないでしょ」


 弟の視線の奥。今後の対応を凄まじい勢いで考えているであろう鮮烈な目。それを見て取った姉は、不敵に笑った。


「応援してあげる。カナタがどれだけのものを積み重ねてきたか、うちは見てたからね」

「…俺なんかしたっけ?」

「それが分かってないから、クラスの皆もアンタを放っておけないのよ。全く」


 毎日毎日部活でさんざっぱら走った後でフルマラソンを敢行。終われば庭でラダーとサーキットを延々と繰り返す。その過程で何かを思いつくと、試すためにまた走りに行き、全てを終えて風呂に入るのが23時過ぎときた。それだけの苦行をこなしながら、本人は怪我をしないための配慮まで行っているのだ。

 その鍛錬量は、正直に言って気が触れている。そして、カナタ自身はそれに自覚がない。ただ、自分がやりたいことをやっているだけ。そういう認識なのだ。


 努力を努力と思わないまま、徹底的に積み重ねられる人間。




 高町彼方は、努力の天才と称して差し支えない人間だった。




「それで?どうすんの?」

「決まってる。戦争だ」

「…戦争?」


 姉は今後の話をしたつもりだったが、弟の口からは随分と大仰おおぎょうな言葉が出てきた。この子の思考が斜め上なのはいつものことだが、どのように両親と戦争するのか、姉は興味が尽きなかった。


「かつてアメリカとソ連は、直接的な砲火を交えない"冷戦"なるものを続けていたという」

「……はぁ?」

「そもそも俺はガキだ。真っ向から立ち向かっても、親という権力は覆しがたい」

「…そうね?」

「ならば」

「ならば?」


 意味不明な問答を続けた弟にジト目を向けた姉は、続く言葉に心底あきれ返った。


「奴らの手の届かない場所でパルクールの有用性を証明し、『参りましたごめんなさい』と言わせてやる。それまで徹底して無視だ無視。挨拶一つくれてなるものか」

「ガキかよ。いや、ガキだったわ」



 14歳。俗に中二病の代名詞たる年齢の弟は、幼稚な反逆を開始した。






 この20日後。

 夏休みの始まりとともに、彼は家出する。


 命を懸けて理不尽に立ち向かい、

 盛大に世間を巻き込んだ、




 長い長い、家出をする。

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