第14話 師走:フライング・サンタクロース04
帰り際、宗一はぶらり、といつもと違う道を通ることにする。江ノ電の踏切を渡り、バス通りを歩いていく。そして途中にある六地蔵前の信号で戻るように曲がる。ポケットの中にいる菊池は静かになっている。寝ているのかもしれない。話し声がないせいか、ぼんやりと色んなものが頭の中を巡っていく。
最初は気にもならなかった頭痛は、年越しが迫るにつれてじわじわと酷くなっているように思う。自分の最後をしっかり認識したせいなのかもしれないから、正確には二月へ向かうにつれと言ったほうが正解なのだろう。
何も、あんな詳細に書き連ねなくとも。誰も自分の最後など興味はなかろうに、とは思ったが、とかく人はそういったものに関心が向くのはゴシップ記事を書いていた自身がある意味、一番わかっていた。芥川の時も相当書き立てられていたのを思い出すと、またずきり、と痛みが頭蓋骨をなぞるように走っていく。
自分とて、記憶がある。しかし、死ぬその寸前の記憶などは無いに等しい。脳を蝕まれていたのなら、それも頷ける。
『直木三十五』がどのようにして命の灯火を消したのか。それがわかれば、恐れることはないと思っていた。
あのふたりには、変な負担をかけるのだけは避けたかった。本来ならばかけずに済んだ筈のそれを、神様とやらというものの気紛れでかける可能性が出来たことは、文句の一つや二つは投げつけてやりたい。しかし、避けられないのならば仕方がない。自分でなんとしても負担の種を取り除くしかない、と考えた。
だから、知ろうとしたのだ。自分の足で、探しに行ったのだ。
困ったことに、近くの図書館では扱いがなかった。まあ、それはそうだろう。己の筆は、埋もれていくことに関しては寧ろ必然だった。だから寧ろ、横浜で自分が郷土作家扱いされていることに驚いた。電車に揺られ、到着した桜木町の風景は未知のものばかりだった。地図を片手に、市で一番大きな図書館へと向かって、目的の本を探す。貸出できないとのことで、図書館内で見ることとなった。角の席を陣取り、ひたすらに、ただひたすらに読む。
出た辺りで、深い溜め息が出た。正直、自分のことなのだからそんな衝撃など受けないと思っていたのだ。
しかし、くわん、と頭の中で何かが反響しているような、妙な感覚があった。暫く動けなかったくらいだ。途中で具合が悪いと思ったのか、学生であろう青年に声をかけられた。情けなくも水だけ買ってきて貰い、それを飲み干したところで漸く立ち上がれるようになった。お人好しであろう青年は、かつて自分に懐いていた年下の挿絵画家を思わせた。だから、気紛れを起こしたのかもしれない。あと、あのふたりに土産でも買っていってやらねばと思ったのもある。
「なあ、ここから中華街ってどう行くんか、君わかるか」
――我ながら、ほんま。
苦笑いが、じわじわこみ上げる。一山越えたあの馬鹿も、自分達を見守ってくれる孫娘のような彼女も、自分のこんな痛みを知らなくていい。どうやら地理に明るくないことを理解したのか、結局青年は中華街まで付き合ってくれた。お陰で正直台所に立つのがしんどい日の晩飯がご用意されたわけだ。ふたりは無邪気に喜んでくれたし、ひとりで行ったことに膨れたりもしたし、今度は一緒に行く約束までさせられた。いつも通りの流れだ。
それでいい。それがいい。
彼らは、知らなくていいのだ。
「ッ、つ」
ずくん、とまた、眉間に痛みが鈍く、落ちる。今、菊池が眠っていてくれて助かった。立ち止まり、はあ、と息を吐く。嫌な汗がじわ、と額に滲むのがわかる。落ち着け、と深く息を吸っては、吐く。大丈夫だ、すぐに治まる。だから。
「おや、具合が悪いようですな。少し此方で休まれたらどうですか」
垂れた頭。その後ろから、穏やかな声が聞こえてきたのは、意識がふ、っと遠のきそうになった時だったか。
振り返ると、人懐っこい表情を浮かべた、老紳士がじいっと宗一に視線を向けていた。そこは丁度ベンチのようなものがあって、よいしょ、という声と共に腰を下ろしたのが見えた。無碍にするのも少々気が引けて、後に続いて隣に腰をかける。しかし、この爺さんはどことなく見覚えがある、気がした。近所に住んでいるのかも、しれない。
「すいませんな、お気遣いなく」
「まあまあ、私も身体が随分とガタついてしまいましてね。こうやって休み休み歩かないとなかなか辿り着けないのですよ。歳を取るというのは大変なことも増えますからなあ」
座れば落ち着いたのか、少しずつであるが頭痛が治まっていくのがわかる。良かった、これで帰れる。そう安堵する宗一を見て、老紳士が目を細めたのがわかった。
「帰ったら君も休むといいですよ。帰れば誰かいるでしょうに」
「あー……いや、まあ、もう落ち着きましたし」
「私もそうやって意地を張っていた時期がありましてなあ。孫が毎年遊びに来て、張り切った後は良く体調を崩していたものですよ。でもそれに何かを言われるのも鬱陶しくて、黙っておったらツケを払わされましてね」
「ツケ?」
「今やもう、取り返しのつかないものです。だから、君も時々はほどけておいた方がいい。大事な人がいるのなら尚更にね」
その表情は微笑ではあったが、どことなく寂しそうにも見えた。だから、何かを言葉にしようとして、宗一は口を開く。と、そこで。
「宗!」
耳に、聞き慣れた声が飛び込んで、一気に意識を引き戻した。
「宗一さん、どうしたんです!?」
次に視界に入ったのは、心配そうな花の表情だった。あまりに泣きそうなその顔に、目を丸くしているとこつり、と後頭部を軽くこづかれる。
「戻ったら家の中暗くてさ。花ちゃんが真っ青になっちゃって大変だったんだから」
「へ?」
そこで、時刻に気がつく。確か、帰路につく頃は夕方でまだ空は茜に焼けていた。しかし、今空を見上げれば星が瞬いている。何時や、と自分で確認する前に、ずい、と龍一がスマートフォンの画面を目の前へと突き出した。
「……にじゅうさんじい!?」
「だから心配したんだって! 何してたんだよ!?」
はー、と溜息を吐く龍一も、顔色が白い。相当心配させてしまったのを察知して、すまん、と小さく呟けば、いいよいいよ、と白い息と共に苦笑いがそこに咲いた。
「まだ駅前のラーメン屋やってましたし、そこで食べて帰りましょ?」
ふにゃ、と花の表情が漸く緩む。その頭をぽん、と軽く撫でて、ふ、と宗一も口元が綻ぶ。
「悪かったな」
「いいですよ、たまには宗一さんもごはんおやすみでいいんですから。ね! 龍一さん?」
「そりゃあ勿論。宗のごはんは美味しいけど、ちゃんと休んでこそだからさ」
さあさ、行きましょと花が、くんと腕を引く。それにどことなく懐かしさを覚えながら、引っ張られるように歩き出した。その宗一の首にくるり、とマフラーが巻かれる。
「もう寒い時期なんだしさ」
ぐい、と手のひらが背中を押した。細い腕の割に力があるもんだ、と思いながら脳内で腕力の数値を少しあげてやってもいいなと小さく笑う。目の前に駅の、柔い明かりが見えてくる。
――まだ、大丈夫や。
ほどけるには早い。少なくともあの日を越えるまでは、まだ。
「それにしても、こんな時間までどうしてたんです?」
尋ねられて、言葉に窮する。
ただ座ってただけなのに、どうして。いやそもそも、あそこにベンチなんてあったか? と考えてから、漸く宗一は問に応える。
「……一足早いサンタに化かされてた」
「「はあ?」」
***
斎藤茂吉は深い深い溜息をついていた。
何が悲しくてクリスマス独特の華やいだ空気の中、こんな頭の痛い思いをしなければならないのか。目の前の爺さんと来たらにこにこと笑みを崩さず小首を傾げているときたものだ。本当に心臓に悪い。悪すぎる。
「……あのですね」
一息置いてから、耳が遠くてねえ、という言い訳を封じるが如く、発音良くはっきりと言葉を続ける。
「勝手に、いなくならないで、いただけますか、ね! 探す、身にも、なって、くださ、いッ!」
「ああすまないねえ、懐かしくてついつい」
「ついついじゃないです、ついついじゃ」
こんなところで行方不明という日には、何を言われたものかわかったものではない。御上は別に怖くはないが、口煩いのは勘弁願いたい。面倒事はもっと勘弁願いたい。ただでさえ、今自分はあの二人とゴムマリ化した彼らの親友でいっぱいいっぱいなのだから。
「兎に角、いなくならないで下さいね。わかりましたか」
これは鰻でも食べないとやってられない。明日はうな重だ、と心に決めながら、斎藤は念を押したのだった。
いつの間にか斎藤のポケットに戻っていた菊池は、ううん、と唸りながら再び意識を沈めていく。新しい生に片足を突っ込んでいる魂は、時折まだやわい赤子の身に戻らねばならない。境目が曖昧な今だから、こんなことができるが境目が曖昧だからこそ、簡単に命の糸は途切れてしまうのだ。斎藤に伝えねばならないのかもしれないが、言わない方がいいのかもしれないと迷っている間に斎藤の気配も、傍に居た招かざる客人の気配も感じられなくなっていた。
うーん、と唸った後、残ったのは迷いだけ。
――直木に会って、どうするつもりだったんだろうなあ。あの、爺さん。
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