第5話 長月:嵐の夜と、親友と03

 ごう、と鼓膜を暴風の音が震わせる。

 花はレインコートの袖をぎゅっと直しながら必死に前にいる青年――本来の生まれ年を考えると青年と言って良いのかわからないのだけども。見かけは少なくとも青年だ。――のレインコートを掴んだ。傘は先刻儚くも全身骨折となり召されてしまったし、この風とともに叩きつける雨の前に人は無力で袖から裾からべっしょりと濡れてしまっている。たかだかビニール素材一枚で我の侵攻を妨げようなど笑止とでも言わんばかりだ。

「花ちゃんんんんん‼ 飛ばされないようにねええええええ!」

「龍一さんこそおおおお! 前気をつけて下さいよおおおおお‼」

 声を張り上げているのは、風に負けない為だ。念の為にショートのレインブーツを履いたが、中は見事にぎゅっぽ、と水の音と感触に満ちていて、歩く度に気持ち悪い。

 龍一と合流した時点で既に雨風は強くなりつつあり、買い物は即座に諦めて帰宅することにしたのだが、この有様だ。そして、おまけに途中で周囲の明かりがぶつり、と切れた時点でこれはまずいと理解した。どこかの電線がやられたのだ、と理解するには充分すぎた。

「……停電だねえ」

「うちの方大丈夫ですかね」

「どうだろ」

 ごう、と風に身体をすくわれそうに、或いは雨に往復ビンタを喰らいながら、揃ってよたよたと家の前に辿り着いた時、周囲の明かりも、そして家の明かりも消えて辺りは漆黒であった。それでも何とか辿り着いたのは、花が機転を利かせて仕事場でもあるカフェ『みけねこ』の奥さんに頼んでジッパーの付いたポリ袋を一枚貰っていたお陰であった。それにスマートフォンを入れて、ライトアップ機能を駆使した結果である。ぼんやりとした明かりを龍一に託し、風で道を遮る木の枝や鉢やら諸々を回避出来たことは、不幸中の幸いだったと言えるだろう。

 門を閉め、家の引き戸に手を掛ける。厚めのガラスが嵌め込まれた部分には養生テープが貼られているのがわかる。割れた時のための対策だろう。そしてその奥にぼんやりと明かりが揺らめいていた。

「え、な、何だろ……鍵開けようか」

 家の中には、宗一と聞いたところによると斎藤もいるらしい。だから、その二人のどちらかなのだろうというのは理解したが、暗い家の中、一つだけの明かりはどことなく不気味さを感じる。吹き荒れる風と身体中に叩きつけられる雨飛沫が、余計にそれを拍車をかけている気がするのだ。

 何もないよ、うん。そう呟きながら、龍一ががちゃりと鍵を開けた。雨風が吹き込むので、速やかに戸は閉めねばならない。がら、と戸を引いた瞬間、ふたりは揃って玄関に飛び込んだ。そして。

 目の前にいる『それ』の存在をはっきりと視界に捉えた。


 ぼやりとした明かりに浮かび上がる、影が深く映り込んだ、痩せた男の顔が――


「うぁあああぁあぁぁぁぁあッ!? 家間違ってますからあああああああ!」

「ひょえぇぇえぇえぇえぇ!? うちは祟っても何もないですからああああああああ!」

 思わず悲鳴を上げたし、軽く数センチは飛び上がったのは間違いない。外に逃げようにもあの暴風雨の中へは、危険がすぎるし一体どうしたら――!

 瞬間、ばっと目の前が白い光に遮られた。それが、懐中電灯の明かりと気がつくまでに、一拍の間を要することとなる。

「……幽霊がウチに上がるかいな」

 呆れたような声に、龍一、そして花は同時にばっと同じ方向を凝視した。

 懐中電灯を手で弄びながら、淡い明かりの下、宗一が上がり框で少々不機嫌にも見えるような表情を浮かべて、こちらを見ている。

 ということは、つまり。

「宗一さんんんんん! 懐中電灯は下から照らしちゃ駄目です! それやっていいのは怪談を語るあの芸能人だけですからああああああああああああ!」

「その角度からのライトアップ駄目絶対ーッ! 宗の顔の影すごいの自覚して!?」

「お前ら言うにこと欠いて失礼やな」

 やれやれ、と宗一は横に置いてあった何かを手にして、立ち上がる。

「ほれ、まずは身体拭き。あと明かりまだ使えるなら、花から風呂浴びてきて着替えや」

 バスタオルを手渡され、その用意の良さに驚く。そういえば、懐中電灯も確か先日、電池を確認してから防災リュックに詰め込んで奥にしまっていたものだ。横でぼんやり確かに見られてはいたが、それも覚えていてくれていたということになる。

「お風呂……沸かしてくれてたんです?」

「この嵐ん中べしょべしょに濡れんわけないやろ。風邪引くしな」

 ここで喉から出かけた『おかあさん』という言葉を呑み込んだのは、賢明な判断だったろうと思う。花が受け取った後、ぼふん、という勢い良い音が聞こえてきた。どうやら龍一の顔面にバスタオルが投げつけられたらしい。ひどいよ! という悲鳴は、ごおう、と唸る風の音にかき消されたのだった。


***


 着替えを用意してから、湯を浴びてひと心地ついた後。インド綿のやわらかなワンピースを着た花が居間に行くと、淡い明かりの中で柔く微笑む男の顔が浮かび上がる。服装はいつものかっちりしたスーツではなく、ゆったりとした紺色の浴衣だ。

「斎藤さん」

「ああ、お疲れ様でした花さん。この嵐の中外に出るのは自殺行為だと怒られてしまいましてね」

 浴衣をお借りして、一晩お世話になることにしました。そう言って微苦笑を浮かべる。身体を拭いて、客間の方で着替えていた龍一がひょこりと顔を出し、居間に戻ってくる。猛暑の夜に耐え兼ねて買ってきた作務衣は、過ごしやすいらしく最近の龍一は帰宅すればこれに着替えている。

 一方の宗一も最近は浴衣で過ごすことが多くなったな、と花は思い返す。確かに『直木三十五』は着物で過ごすことのほうが圧倒的に多かったという記述が多い。夏だろうが冬だろうが着流しで、大阪からふらりと東京へとやってくる。後々スーツの写真も出てくるが決して似合ってない、というわけではない。寧ろきちんと着こなしてくる辺りが、また狡いところだろう。しかしながら、やはり和装が恋しいという思いはあったらしい。

「本当、今の世の中は便利になりましたよねえ。明かりもロウソクじゃなくていいんだから」

「そうだね。これも電池で明かりを得られるものだというから、時代が進んだと実感するものだよ」

 和座卓の真ん中に置いてあるのは、ランタンの形の照明だ。これも防災リュックに入っていたもののひとつで、単三電池を入れると明かりが点く。しかも、かなりの長時間使えるというのだから、優れものだろう。

「停電、復旧までに暫くかかりますよねえ……」

 斎藤の向かいにぺたりと座ると、がたがたと大きな音を立てている雨戸の方へ視線を向けながら、花は少し不安げに呟いた。電気が使えないのは困りものだし、停電が長引くともっと困る。

「さっき、宗がクーラーボックス見つけてきて保冷剤たっぷりと冷蔵庫のもの放り込んでたから、まあ何とかなるんじゃないかな。冷凍庫は少しは保つだろうし」

「ふぁ!? うちそんなのありましたっけ!?」

「おじいさんのものじゃないかなあ。かなり奥から引っ張り出してたみたいだし。とは言え、宗の奴、家に何があるかないかは大体チェック入れてるっぽいから」

 確かに、花自身、あまり押入れやら物置などは見ていなかった気がする。家主たるもの、把握ぐらいちゃんとせねば! と花は今度宗一に家の捜索に付き合って貰おうと心に決めた。と、キッチンの方で仄かに明かりが揺れるのが見えた。

「宗一さん?」

「ああ、ガスは使えるからとお湯を沸かしにいきましたよ」

「お湯?」 

 首を傾げながら、様子を伺いに台所を覗くとたすき掛けをした宗一が、明かりの下で何かを用意しているようだった。こちらの手元を照らしているのは、懐中電灯のようだ。

「宗一さん、何か手伝えることあります?」

「ええよ、簡単なモンやし」

 素っ気なく返される。しかし、半年見ていれば彼のそういった短い言葉から、相応に汲み取れるようになっている花は『この暗い中で誤って手を滑らせて火傷するとも限らんから大人しくしとき』といったような意味合いと受け取り、はあい、と素直に返事して居間へと戻ろうとする。

 と、そこで花、と再び素っ気ない調子で呼ばれた。

「はい?」

「花はチリとかいうのがええんよな。あとカレーとシーフード、どっち食うか二人で決めとけと伝えといてや」

 あっ。なるほど。納得して再度「はぁい」と返事してから、花は今度こそぱたぱたと戻っていくことにした。種類の選択権を最優先にしてくれたようだ。

「カップ麺だそうですよー」

 今で座ってる二人にそう報告して、二択させると龍一が「僕はカレーがいい」と挙手した。斎藤はどちらでもいいですよ、と微笑したので、揉めることはなさそうだ。

「色が濃いから、飛んでも大丈夫だしね!」

 胸張っていうことではないし、大体色が濃かろうと汁が飛べば洗濯必至なのは変わらないのだが、そこを今突っ込むのは面倒だという気持ちの方が先立つ。洗濯の当番は龍一であることが殆どなので、染みになって苦労するのは本来彼自身なのだ。

 ……本来であれば。

「シミ取れないって、宗一さんに泣きつかないで下さいよ?」

 そう付け加えると、びくっと身体が揺れた気配がしたので、身に覚えはあるらしい。横で声を押し殺して笑う斎藤に、何で笑うんですかひどい! と暗闇でぷんすか怒った声が聞こえたところで、別の気配が台所からこちらへと移動してきた。

「ほれ、まだ三分経ってへんからな」

 ことん、ことん、と明かりの横に置かれたのはお馴染みの容器だ。種類ごとのデザインが描かれていて、花は迷いなくトマトが描かれたチリのカップを手元に引き寄せた。テーブルの上に置かれたフォークは使い捨て用のプラスチック素材のものだ。薄暗い中でパリパリとビニール包装を剥いで、スタンバイした辺りでにゃーん、という猫の鳴き声が聞こえてきた。どことなく無機質な声で、それがネコちゃんのキッチンタイマーだと気付く。つまりは三分立った、という報せである。上の蓋を剥がせば、酸味の聞いたトマトの香りを含んだ湯気が顔を覆うように上がっていく。

 背後ではがたがた、と相変わらず風が雨戸を鳴らしている。ごう、という嵐の音が響いている。電気は復旧する気配もないし、不安要素が減ったわけではないのだが。しかし。

「……なんか、こういうのって不謹慎ですけど、楽しいですよね」

 ずず、と麺をすすりながらそんなことを口にすれば、ふふ、と向かいで淡い光の中で斎藤が微笑んだ。

「どんな状況も、楽しんだ人が一番の勝ち、ですからねぇ」

「せやな。どうせ変わらんもんは、嘆くより楽しんだほうがええ」

 麺を啜る音が、あちこちから聞こえてくる。ぼんやりとした明かりに浮かび上がるそれぞれの顔を、じっと見つめながら、自然口元が緩む。

「どうしたの? 花ちゃん」

「んー、いや、カップ麺ってこっちに来る前は、残業でくたびれて帰ってきて、もう何もしたくないってなって、それで食べてたのが定番だったんですよねえ」

 昨年の末頃を思い返しながら花は、汁を一口味わう。

 あれやこれやと書類を積まれて、計算違いやら記入漏れやらを持って提出した社員を探し、結局終わりきらずに残業して打ち込みして、そしてくたくたな身体を引きずって何とか家まで辿り着く。ひとりの城は自由だが、真っ暗なそこは当然暖まっている筈もなく冷え切っていて、まず震えながら暖房を入れてお湯を沸かしたものだ。

「もー疲れて、何か作るとか考えたくなくて。休日だって作り置きとか考える前にずっと寝てましたしね。カップ麺ってそういう生活の中で、ひとりで食べるもんだったんです」

 だから、あんまり美味しく感じなかったんですよねえ。

 そう笑って、薄暗い中で座卓を囲む面々を見回す。


「でも皆で食べると、美味しいもんですね。なーんて、思っただけ」


 段々話していて、気恥ずかしくなってくる。どんな顔をされていることやら、と恐る恐る様子を見ればぐす、と鼻を鳴らす音が聞こえてきた。えっ。

「花ぢゃんんんんん! 寂しかったら! 呼んで! そしたら宗がご飯作ってくれるからあ!」

「待て待て何で俺が作る話になってんねん……って、いや作るけどやなァ……」

「いい話を聞きましたねえ、三倍は美味しく頂けそうです」

 三人三様の反応に、思わず吹き出してしまいそうになる。全く、本当にうっかり彼等が遠い昔に同じ空の下を賭けていた文士達だということを、忘れてしまいそうになる。

 どこにでもいそうな、でもそういない、ちょっとお人好しで、優しい人達だから。

――いつかは、こういう風に皆で過ごすことも出来なくなるんだろうけども。

 忘れたわけではない。忘れてはいない。忘れてはいけないことだと、花は改めて密かに繰り返す。

 『彼等』はここに留まるべき人達ではない、と。どんなに幸せでも、楽しくても、暖かくても。それは絶対、続かないことがわかっている。

 だからこそ。


「私も、三倍は美味しく頂けそうです。皆と食べるものだったら、何でも」


 彼等が贈ってくれた時間を、大切に噛み締めて、味わっていこう。

 思い出を鮮やかに思い出せるように、記憶に刻み付けていこう、と。

 

 淡い光の向こうで、うへへ、と花は表情をふにゃりと綻ばせた。

 

 

***

 

 停電は、昼前に解消されたとTVで女性アナウンサーが繰り返している。朝の通勤は運転見合わせが殆どでバスの振替輸送で出勤する人で、駅前のターミナルがごった返しているのを動画撮影したというものがあちこちで放送されているのを眺めながら、宗一は冷蔵庫が壊れていないのを確認して、安堵の息を落とした。冷蔵庫は昔も今も高い代物なのだから、簡単に壊れてしまっては困るのだ。

 朝、天気が落ち着いたのを見た花が、仕事先であるカフェみけねこへ、それを見た龍一が慌てて良く店番に行っている古本屋の懐古洞へとそれぞれ向かっていった。双方とも店主達が高齢だし、まず家の庭に何処かから飛んできた枝やら物干し竿やら植木鉢が転がっていたところで察したのだろう。特に龍一にしてはしっかり行動出来ていると、密かに感心したのは内緒だ。

 二人が出掛けて行った後、庭を片付けてくれていたのは、斎藤であった。客に手伝わせる気はなかったのだが「宿代くらいは払わせて下さいよ」と言われてしまえば、断るのも向こうの居心地が悪くなるだろうし、と止めきれず。

――昔やったら、もう少しスパッと言えたんやろうけどなァ。

 人間は経験値の積み重ねで形成されている、ということは、ここで生活をするようになってから身を以て実感している。かつての自分から少しずつかけ離れつつあることを、宗一は複雑な心境で受け入れていた。

 それは、自然なことなのだ。かつての時代とはかけ離れた生活、そして環境。そこから得た知識、経験はかつての自分では得られなかったことであり、その栄養は食事から摂取するそれ同様に身になっていく。

 だが、今の自分は『直木三十五』や『植村宗一』として同じだ、と言い切れるのだろうか。

 これから別の場所で、別の人生を歩む未来を思えば、前とは違う、というのは理解できるし自然の理でもある。しかし、今現時点で自分はまだ『直木三十五』であり『植村宗一』であることを認識している。にも関わらず、あの遠い昔の、いわゆる前世という名の場所にいた自分とは、明らかに違う『もの』として存在しているということに、上手く言葉に出来ない違和感のようなものを、抱え始めている。

――龍の奴はそんなもん、感じてへんのか。

 龍一の場合は、寧ろそれを実感していたとしても、自然に受け入れるのだろう。あれでいて、素直な性根の男だ。時として子どものような無邪気さと純粋さを持って物事と向かい合える。だからこそ、その変化は寧ろ成長として糧にすることが出来るのではないか。


「……はー、やめやめ。脳から煙が出るわ」


 かたん、とクーラーボックスを開け、食材を出していく。先日買っていた手羽元などは煮込み系の料理で使ってしまえばいいし、加工品は冷蔵庫に戻しても差支えはないだろうと様子を見ながら分けていく。幸いというべきか、夏の間に貰ってきていた保冷剤が冷凍庫にもりもりとあったお陰で、そう大きな被害にはならずに済みそうだ。

 と視界の端で、ちら、ちら、と何かが瞬く。

 無言で、手を伸ばすと何も無い筈の空間が、むにっと掴める。妙に弾力もあるし柔らかい。


「――こんな状態に言うのも何やけどなあ……痩せや」

「ちょちょちょ失礼じゃないのかい!? 久々に会うのにその言い草は幾ら何でも酷いだろう直木ーッ!」


 きぃん、と甲高い聞き覚えのある声が鼓膜を直接ガンガンに震わせてくる。何も言わずに握りしめると、絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。

「握らないでくれ! 何か違うものになる気がするよ!」

「うっさいねん少しは声調節しぃや。菊池の阿呆が」

 ひどい! ひどいよ! という声がちょこまかちょこまかと周囲をぐるぐる回り出したので、無言でハエ叩きを手にするとぴたり、と気配が止まったのがわかる。全く、かつての友人殿に、こんな妖精のような姿で再会することになるとは思わなかった。せめて幽霊でも人の姿くらいしていてくれりゃあ、まだいいものを。

 声を聞いた時は、まだ形くらいはあるものだとばかり。

「ああ、菊池」

 そういや、お前に言わな言わなと思ってたことがあるんや。そう切り出す。

 そう、これだけは絶対に言わねばなるまい。


「あのな。鎌倉で海っつう大雑把な道案内は無いも同然やからな」


 九月の、嵐の後の青空を窓の向こうに見ながら。

 宗一は溜息交じりにそう、告げた。


 今晩は手羽元カレーやな――なんて。そんなことを、考えながら。

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