第3話 長月:嵐の夜と、親友と01

 ……ベッコン!

 その断末魔のような音は、台所に響き渡った。

 流しに落ちた『それ』は熱々のままステンレス製のシンクの上を忌々しいほどにスムーズに滑り、流しの口に無常にも流れていく。

「あああああああああああああーッ!! うっそおーッッ!!」

 植村龍一――又の名を芥川龍之介と言うが、今の世の中その名前で生きていくにはあまりにも人の目が痛すぎるし集まりすぎるので、仮の名で生きさせて頂いている。三分の二が『あいつ』の名前というのが、どうもこう釈然としないのだが――は、絶望していた。

 気分はさながら、自分だけ助かろうと掴んだ蜘蛛の糸が切れたカンタダだ。駄目だ死にたくなる。いや死なないけど!

「何や、うっさいな。ゴキブリでも出たんか」

 台所の出入り口の暖簾を上げながら顔を覗かせたのは、仮の名前の三分の二を占拠する男である植村宗一である。又の名を直木三十五。名字は植村の植の字を分解し、名前は年齢に合わせて増えていくというふざけた仕様の筆名なのだが、どうやら菊池寛を始めとした友人知人達にいい加減にしろ、と言われたのもあり三十五で止めたらしい。まあ、自分もころころ筆名を変えるもんじゃない、といったようなことを言った記憶があるが。


――面白いものを書いているのに、コロコロ変えられたら覚えてもらえるものも覚えてもらえなくて、損をするじゃあないか。全く。


 さて、その過去の話は今のこの惨状には関係がないので置いておく。

 相当情けない顔をしていた自覚はあるが、それは様子を見に来た彼に何かあったと伝えるには充分だったらしい。宗一は面倒くさそうに眉間に皺を寄せながらも、すぐ傍らまで歩みを進め、そして流しを見て。

「……はぁ……いややると思うてたけどな? ほんまにやるとはなァ……」

「ねえ、待って。待って? 僕そんな風に思われてたの⁉ 君に似ているって言われたことと同じくらいに心外ナンデスケド⁉」

「おーおー奇遇やな。俺かてお前みたいな河童に似てるなんて御免被るわ」

 過去、そんな会話まんまたよなあ……と思いながらも、龍一は改めて銀色の流しの中の惨劇へと視線を映した。


 ステンレスに、白い麺が良く映える。


 己の手には白い四角い容器が握られていた。本来ならば蓋がそこに被さっているのだが、現在それはぺろりと流しの中に落ちていた。うねうねと波打った麺は綺麗に流しの口に寄せられている。台に置かれた割りばしの横にあるソースと青海苔の袋が、物悲し気に見えるのは気のせいか。

「カップ焼きそばの湯切りは蓋押さえなあかんやろ」

 ぼそっと突っ込まれ、うっと言葉に詰まった。

 いや、だって。ついつい興奮してしまったのだ。カップラーメンという温かい麺類がお湯を注ぐだけで、しかも三分でできるというのにワクワクせずにはいられるだろうか。いやいられまい。しかもそれが、自分達がかつて生きていた時代にはなかったラーメン、そして焼きそばだというのだから、控え目に申し上げてこれはもう、大興奮としか言えないだろう。

 無垢な子どものように目をキラキラさせた龍一は、意気揚々とカップ焼きそば作りに挑むべく、台所に立ったのである。

 因みに普段、龍一は台所に立つことは殆どない。転生前の実習で料理の才はもとより、料理器具との縁も手離してしまっていたことが判明したので、宗一にストップをかけられたのだ。お試し転生後は専ら掃除や洗濯――勿論花ちゃんのは別で、触れませんよ? 幾ら果てしなく年下とは言え、成人女性の肌着はやはり自分で洗いたいだろうし実際に「私が洗いますから!」と力強く言われてしまったし。――買い出しや、花のお迎え等々が彼の役目だったわけだが、流石にケトルに水を入れてスイッチを入れて、容器に湧いたお湯を入れるくらいは出来るのだ。そう、そこまでは完璧だったのだ。

 ……お湯を捨てるべく、流しへそれを傾けるまでは。

「叱られた犬みたいな顔しおって」

「よりによって犬なの!?」

 長い長いため息の後の宗一のコメントに、思わずツッコミを入れてしまった。よりによって、大嫌いな犬に例えられるなど、それこそ河童に例えられるより心外だ。まあ、相当に情けない顔をしていたのは間違いないだろう。

 不意に、宗一はしゅる、と紐のようなものを取り出した。そして慣れた手付きでたすき掛けをしていく。最近の宗一は家の中では浴衣で過ごすことが増えた。自分達の事情を家主が汲み取ってくれた、という安心感からか、元来慣れている和装を選ぶようになったのかもしれない。今日は濃藍の無地で仕立てたものを身にまとっている。

 腕周りをすっきりさせたところで、その場に背中を丸めながらしゃがみ込むと、ぱか、と流しの下の扉を開けた。そこは調味料や油、カップ麺などが収められているスペースとなっている。そこからがさり、とひとつ掴み立ち上がってから、それを流し横に置いた。目を丸くした龍一を尻目に、ケトルを手にした宗一が蛇口を捻りそこへ水を注ぎこむ。セッティングをし、かちりとスイッチを入れると、今度は手早くがさがさとその包装を剥がし始めた――先刻の悲しい事件の犠牲となった、あのカップ焼きそばと同じものを。

 麺を取り出した宗一は、それをパキパキと割り始めた。

「え? 宗、何してるの?」

「細かくせんと、後で面倒やからな」

 砕いた麺を容器に戻し、かやくの乾燥キャベツとそぼろのような肉をその上に敷くと、今度は冷蔵庫からキャベツとベーコンを取り出した。両方とも『特売三割引き!』という文字が印刷されたシールがぺったり貼られている。キャベツはざっと洗ってから千切りに、ベーコンも細かく切ったところでケトルのスイッチの上がる音が聞こえてきた。

 ざ、と容器の中にお湯を満たしてから、冷蔵庫の扉に貼ってあるネコちゃんのキッチンタイマーを三分にセットしたら、フライパンを用意する。コンロにセットして熱し、熱くなったところで軽く油を敷いてそこへベーコンとキャベツを投入し、軽く炒める。程よく火が通った辺りで、にゃーん、という可愛らしい声が冷蔵庫の方向から聞こえてきた。

「さて、と」

 宗一は火を弱めてから、流しの横に置いていた麺の入った容器を手にすると、躊躇うことなく斜めに傾ける。べこん、とステンレスは龍一の時と同じように大きな音を立てた。が、さっきと違うのは、そこに流れたのはお湯だけ、ということだった。

「どうして」

「蓋押さえたからやろ」

「嘘ぉ……」

 さも当たり前のように言われ、流しに突っ伏しそうになる龍一を無視して、宗一は再びフライパンの前に立った。手にはお湯を切った麺その他諸々の入った容器が蓋全開にしてスタンバイされている。そこに付属の粉ソースを入れて、従来の焼きそばを完成させてから、じゅわ、と熱されたそこへと投入した。従来どおりの『焼きそば』となったわけだが、しかし。

「炒めるの?」

「まあ、足りへんからな」

 足りない? 何が? と首を傾げている龍一の横で、小気味いい炒める音がキッチンに熱気と共に広がっていく。と、そこで、宗一はコンロの近くにある炊飯器に手を伸ばした。そこには昨日炊いた白米が茶碗二杯近い量、釜の中に残っていた。

 それをしゃもじですくい、フライパンの中へ投入する。

「一緒にするんだ⁉」

「足りへんやろ」

 さらりと言われたそれに、あ、と小さな声を上げた。もしかして、もしかして『足りない』とは。

 木製のフライ返しで、ざ、と混ぜ込んだ後でそこに味足し程度にお好み焼き用のソースを回し入れ、ざっと炒めて仕上げていく。思ったよりソースの量が少ないのは、ベーコンの塩味もあるせいだろうか。

「皿。二枚寄越し」

「あ、うん」

 言われて慌てて棚から二枚、皿を持ってくるとそこにフライパンの中身を盛り付ける。こんもりと湯気を立てた山は、焦げたソースの匂いで腹の虫を誘い出す。そこへぱらぱらと青海苔を掛けて、箸と共に盆に乗せ、居間まで運ぶ。龍一はその背中を見ながらグラスをふたつ取り出し、そこに麦茶を注いだ。

 和座卓に並べられた二つの皿と、箸を見て。その横にグラスをそっと置きながら、へにゃり、と龍一の表情は綻んだ。

「有難うね、宗。君は優しいな」

「いつまでも横でべそべそされても、面倒やしな」

 憎まれ口を返されても、それが照れ隠しなのを既に知っている。それはずっと昔から変わらないからだ。

 早よ食って流し片付けや。そうぶっきらぼうに返されて、こくりと大きくうなずくと、龍一はぱん、と手を合わせたのだった。


 ああ、この世界の蜘蛛の糸は香ばしいソースの匂いがし、そして仏陀は無愛想で料理の上手な友人の姿をしているらしい。

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