4.

 結局、高校に通っているうちに三分の壁は越えられなかった。

 いつか卒業生として校舎を訪れて、演劇部の部室で三分ちょうどのカップ麺を食べてみたいと思っていた。

 小さいけれど、それは夢の一つであった。

 しかしその夢は、日吉が追いかける大きな夢のせいで叶えられなかった。

 高校を卒業して、役者になりたくて上京した。

 小さな劇団に入り、バイトをしながら演技に打ち込んだ。

 大学に通いながらとか会社勤めをしながらでもできるだろうと、友人やまわりの大人たちに言われたけれど、日吉はそうは思わなかった。

 すべては演劇のため。

 そんな生活にしなければ本物にはなれないのだと信じ込んで、他はなにも欲したりしないと自分に言い聞かせた。

 そうやって走り続けた十数年。

 四十近くなって、気がつけば友人たちは『大人』になっていた。

 日吉はそんな友人たちをかつては『前進をやめた者』だと哀れんだ。スーツを着て毎日同じ場所に通い同じような業務をこなす彼らを、夢を見ることをやめた人間の行き着く果てだと見下した。

 だけどある日その考えはぐらついた。

 いつまでたっても芽が出なくて、バイトの勤続年数だけが増えていく自分は、本当に『前進を続ける者』だろうかと不安になった。

 一度疑いを抱けば、それはどんどんと膨らんでいった。それはゆっくりと空気を送り続ける風船のようで、いつか限界を迎えてぱちんとはじけてしまうのだろうと思った。

 それがずっとずっと先のことなのか、それとも明日なのか。

 毎日を怯えながら過ごすうち、もらえる役はひとつまたひとつと減っていった。

「こんな情けない姿じゃ、帰るに帰れないじゃないか」

 ぽつりとこぼした。

 十年ぶりの帰省だった。

 十年前にはあった母校は、すっかり更地になり、そのあとにこの運動公園ができあがったというわけだ。

 たった十年で、すっかり変わってしまうのだ。

 カタカタと、クッカーが暴れ出す。

 慌ててカップ麺のふたを開けてスープの粉末が入っている小袋を取り出した。そばだから、つゆの粉末とでも呼ぶのだろうか。

 普段ならけっして選んだりしない天そばのカップ麺。

 兄一家も帰省しているため実家は賑やかで、なんだか居づらくなって出てきたが、行く当てもなくこんなところで年越しそばを食べる羽目になっている。

 小袋を開け、粉末を麺の上に落とす。

 まんまるの天ぷらにかからないように、慎重に慎重に。

 そんな時に限って、冷たい風がふわっと舞い上がり、そばのつゆとなるはずだった粉の一部は真っ白な雪の上に落ちてしまった。

 薄くなるかもと心配しながらも、目安の線の高さまでお湯を注ぎスマホのタイマーをセットする。

 進んでいく時間を眺めながら、ふうっと息を吐いた。

 息を吐いた分だけ体温が持っていかれるような気がして、二つめはなんとかこらえた。

 誰もいない、何もない雪原の端っこで小さくなっている。

 自分の人生を表しているような大晦日になってしまっているんじゃないかと、ここに来たことを後悔した。

 せめて一人でなければ、少しは気が楽だったのだろうかと空を見上げた。そうは言っても、いったい誰を誘えばいいのか。

「誰かに連絡取ろうにも、今さらって感じするしなあ」

「ばーか。今さらとか、そういう問題じゃないよ。大晦日のこんな時間に暇な人間なんているわけないでしょ」

 空を仰いだ日吉の顔を、上から誰かが覗き込む。

 慌てて蹴飛ばしそうになった天ぷらそばをしっかり確保してから、声の主の顔を見た。

 見覚えがある顔。

 だがそれよりも、両手に持った二個のカップ麺が気になった。

「なんだ。日吉もそういうの用意してたんだ。なんかやってるのは見えたけど、何やってるかまではさすがに見えないよ」

 声の主は日吉の足もとにあったカップ麺を見つけて口を尖らせた。

「まあ、ろくに食べないで出てきたんなら、二つくらい平気でしょ?」

 そう言って持っていたカップの片方を日吉の顔の前に差し出した。

「うどん? そばじゃなくて?」

「そう。年明けの、うどん。知らない?」

 十年前くらいからあるんだよと言いながら、隣りに腰掛ける。

 距離が近くなったのと、言葉を重ねたことで突然の来訪者の正体が判明した。

うしおか!」

 思い出の中にある姿とすりあわせ、ようやく一致したところで声を上げた。雪原を跳ねるように、声が響いた。

 目の前に現れた人物は、まぎれもなく潮だった。高校時代のクラスメイトで、演劇部の部員だった女子だ。

「え、今? 遅くない?」

 潮は呆れたように笑った。笑ったときの目尻の下がり方に学生時代の面影がしっかりとあった。

「わかるわけないだろ。卒業以来なんだから」

「私はわかったよ。日吉、全然変わってないし」

 悪気はないのだろうが、彼女の言葉がチクッと胸に突き刺さる。

「ウソ。三年前くらいに日吉、学たちと東京で飲んだでしょ。その時の写真、見たことあったから。だから全然変わってないっていうのはウソ」

「あ、ああ。そうか。まあ、それはどうでもいいよ。それより、なんでここにいるの?」

 ほんの少しの冷静さを取り戻せば、当たり前の疑問が湧いて出る。

 大晦日に、こんな場所に、どうしているんだ?

 その問いはそのまま自分に返ってくるだなんて思いもせずに、日吉は言いながら辺りを見回した。

 ドッキリ企画のように、実は自分が知らないだけでその辺に旧友たちが潜んでいるとか……。

 そんなことはまったくなく、いくら見回しても、雪ばかり。

 潮は呆れた顔で日吉の肩を小突いた。

 こんな日のこんな時間に暇しているのはひとり身の私たちくらいだと、そう言う。

 誰それは何歳のときに結婚して今は子どもが何人だとか、他の誰かは親の介護で忙しいとか、また違う誰かは仕事ばかりでなかなか地元に帰ってこないとか。そんなことを指折り数えながら教えてくれた。

 もちろんだが、そこに日吉は含まれなかった。

「日吉のおばさんにさ、頼まれたの。うちのバカ息子が家から逃げ出したから、どこかで見かけたら帰ってくるように言っといてって」

「うちの母さんに?」

「そう。あ、アンタ知らないんでしょ。おばさんと私、職場の同僚なんだからね」

 たまには連絡してあげなさいよなどと言って笑った潮は、よく見ればスキーウェアのような防寒対策ばっちりの上下を着込んでいた。

「……わざわざ、探しに?」

 探るように発した言葉に、返ってきたのは大袈裟なため息。

「そんなことするわけないでしょ。仕事しに来たの」

「どこに?」

「ここに」

 潮は手袋の下に隠れていた腕時計を掘り出して、持っていたペンライトで照らす。

「ここは私の職場。そこの管理棟で働いてるのよ。今は冬期閉鎖中だけどね。こんな日のこんな時間に仕事で来なくちゃいけなくなったの。そしたらおばさんから連絡が来てさ。通り道でアンタを見かけたら――って話だったんだけど、いざ職場に到着したら不審者がいて、よく見たらアンタだったっていう、」

「すごい奇跡みたいな話だな」

「……単なる偶然でしょ」

 最後の音に重なるように日吉のスマホが鳴った。三分のタイマーのアラーム音。

 話の途中ではあったが、潮が「どうぞ、遠慮なく」などと言うので、恐縮しながら天そばのふたを開けた。

 鼻の奥に届いたあまいにおい。

 思っていたよりも、醤油だとか出汁だとかいうにおいよりもまずあまさが鼻に届いた。

 そのあとから想像していた通りの、いわゆるそばつゆらしい香りが追ってきて、ちょっとした安心感をつれてくる。

 慌てて割った割り箸で、麺をほぐしかき混ぜると、つゆのにおいはいっそう高く薫った。

 冷たい冬のにおいに溶けていく、そばつゆのやわらかいにおい。

 それじゃあ、と潮にことわりを入れてから麺を一束引き上げた。

 縮れた独特の細い麺。

 色こそそばではあったが、それはまったく違う食べ物のように感じられて、口の中に入れた瞬間に頭の中が混乱する。

 こんなにあまかったかな、なんて思いながらも、最後に鼻に抜けた出汁と麺のかおりの虜となって、すぐに次の一口をすすった。

 ゴーンと、鐘の音が聞こえてきた。

 この辺に寺はない。

 驚いて顔を上げると、隣の潮が得意げな顔でスマホの画面を見せつけた。

「今はネットになんでも転がってるのね」

 動画サイトで見つけた除夜の鐘をつくだけの映像だった。

 その音を聞きながら、日吉はそばをすすった。

 上にのっていたかき揚げはすっかりやわらかくなっていて、箸でつかもうとするとほろほろと崩れた。こうなるのが嫌でお湯を入れるときに天ぷらを取り除いて、食べる直前に戻すという派閥があるようだが、日吉はぐずぐずになった天ぷらが好きだった。麺とからめて食べれば、香ばしさと油のにおいが加わる。シコシコとした食感に、どろっとした天ぷらの衣の食感。しっかりとつゆを含んだ衣をすくって口に入れる。もっとつゆの味を濃く味わいたくて、カップの縁に口を運び、ずずずっとすすった。

 こんな夜は、「うまい!」よりも先に「沁みるねえ」なんてちょっと大人ぶったような言葉を口にしてしまう。

「なんかさ、ここで年越しそばを食べたくなったんだよね」

 聞かれてもいないのに、日吉は蕩々と語り始めた。

 高校時代の思い出や、東京での十年間、そして今自分の中に生じている違和感について。どうしてこんなところで年越しそばを食べているか。順番はでたらめだったが、潮に向けて話し続けた。

 潮は静かに話を聞いていたが、途中でうどんができたようで、そこからは日吉の話をちゃんと聞いているのか疑わしい様子であった。

 だけど、箸を割ったり麺をかき混ぜたりしながらも、気持ちのいいところで頷いてくれる。

 小袋に入ったあとのせ用の梅干しを一口かじってすっぱい顔をしたときも、日吉の言葉にしっかりと頷いてみせた。

「ん? 梅干し?」

「そう。梅干し。これがまたいいの。っていうかさあ、日吉の分のうどんもできてるんだから。さっさと食べないとのびちゃうよ」

 ずずっと、いい音でうどんをすする潮。

 頬の辺りでさらさらと流れた髪を耳にかけ、次から次へと麺を口に運ぶ。

「アンタを見つけて、仕事をぱっと終わらせて、コンビニでうどんにお湯を入れてここまで持ってきたんだけどさあ、」

 潮は箸を止めて、カップの中を覗き込んだ。

 うどんの方は、日吉が食べていた天ぷらそばのつゆとは違って澄んだ色をしていた。

 そこに刻んだ揚げや薄っぺらいかまぼこ、そして例の梅干しが浮かんでいる。

「ここまでさあ、二分くらいで着いちゃった」

 潮はカップを両手で持ちつゆを口にした。

 天ぷらそばを食べ終えてうどんに手をのばした日吉は、まず一口目を潮にならってつゆにした。

 強く香る出汁のにおい。喉の奥に流れたあとにもまだ口の中にいい出汁の余韻が残る。

 すかさず麺を口に運ぶ。

 つるんとした食感と、噛めばもっちり麺の味がした。

 出遅れたはずなのに、麺はまだそれほどのびてはいない。

 コンビニからの時間と、潮に愚痴をこぼした時間。

 演劇部の部室まで三分以上かかった道程は、今はもうない。

 ゴーンと、鐘の音が響いた。

 煩悩を払うという鐘の音が、今の日吉には懺悔をうながす音色のように聞こえた。

「三分の壁ってあったじゃん。部室で、三分ジャストのカップ麺を食べるってやつ。高校のときはできなくて、いつか達成したいと思ってた」

 日吉は足もとに視線を落とした。

 役目を終えたクッカーとバーナー。そして空になった天そばの容器が並んでいる。

「こんなので達成したって意味ないのにな」

 笑いはこみ上げてくるのにちっとも楽しくなくて、胸の奥はもやもやとくすぶっている。

 何かを達成すれば一歩進めるような気がしてこんなところでそばをすすったが、心は晴れはしなかった。

「俺、帰ってこようかな」

 自然とその一言を発していた。

「お盆の話? もう次の帰省の予定を立てるの? 来年のことを言うと鬼が笑うよ」

 その前に私が笑うよと、潮は豪快に笑った。

「そうじゃなくて――!」

 張り上げた声を掻き消すようなタイミングで、雪原に光が差し込んだ。

 運動公園をぐるっと囲むフェンスに点々と現れた正月飾りのイルミネーション。チューブライトで描かれた門松や羽子板が、白と黒ばかりだった世界を一瞬で消してしまった。

 HAPPY NEW YEAR

 ひときわ大きく華やかに描かれたその文字。

「ハッピーニューイヤー」

 読み上げたというわけではないのだろうが、声をかけられて振り返った。

 潮がスマホをこちらに向けている。

 ロック画面に表示されていたのは一月一日0時0分の文字。いつの間にか新しい年を迎えていた。

 懐かしい学び舎があった場所で、すっかり変わってしまったこの場所で、あれから何もかわっていない自分が、新しい年を迎えた。

 母校も、新しい年も、自分を迎えてくれたような気がした。日吉はそう思った。

 喜びでも寂しさでもない他の何かが、胸の奥からこみ上げそうになった。

 その様子を察してなのか、そうでないのか。

 潮は神妙な面持ちで膝を抱えた。

 一度ちらっと日吉の顔を覗き見たが、すぐに視線をそらして、まっすぐイルミネーションの灯ったフェンスを見つめた。

「アンタはさ、三分の壁にこだわってたけど、みんな途中で気づいたんだよ。ノンフライ麺とかうどんとかを選べば三分の壁なんてクリアできるって。でもアンタだけは『三分』にこだわって挑み続けたでしょ。そういうとこ、嫌いじゃないよ」

 ふっと、口もとに笑みを含んだように見えた。

「お前…………このタイミングでそれは、ずるいよ」

 こらえてみたが駄目だった。

 瞳にあたる冷気がなおさら追い打ちをかけて涙を誘うのだ。

 ぽろりとひとしずく、目頭からこぼれ落ちた。

 それ以上は照れくさくて、こぼれる前にぐいと手の甲で拭い取った。

 潮はただ笑顔を浮かべるだけで何も言おうとはしなかった。

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