第20話 美少女は言った「コーヒーでもいれようか」
五月五日、こどもの日。
ゴールデンウィークの最終日であり、明日から学校が始まる。
一週間足らずの休日は総じて賑やかで、穏やかな日々だった。
アイに起床時間を合わせるため、自然と健康的な生活になり、朝から夜までが随分と長く感じる。
今日も朝早くから目を覚まし、アイは窓の外の景色を見て騒いでいた。その瞳に映るのは、大中小と上から並ぶこいのぼり。風に吹かれて尾びれをなびかせる様子は、実際に川を泳ぐ鯉のよう。
サルビアはこういった季節のイベントを取り入れているらしく、ロビーには立派な五月人形が飾られていた。他にもかしわ餅やちまきなどの甘味が配られたりと、子供たちにとっては特別な一日になった。
――今日も疲れた……。
リビングのソファでくつろぎながら、優斗は両腕を伸ばして身体の力を抜く。
共同生活をしている以上、三人で一緒に過ごす時間が多いのはもちろんだが、一人の時間も確かに存在した。
アイがサルビアの友達と遊ぶときや、お風呂に入っている間、早めに寝てしまった後などは自由に過ごしている。
そして今がその時間だった。
時計は二十一時半を指しており、その少し前に体力を使い果たしたアイは布団に直行した。今頃はパンダのぬいぐるみを抱きかかえて、動物たちと遊ぶ夢で見ているだろう。
「あれ、全部終わったの?」
寝室の扉が開き、小声ながらよく通る声が聞こえる。
スモーキーな色合いのパジャマに身を包んだ日和は、アイの眠りが深くなるまで近くにいるようにしているらしく、今日もこの時間まで寄り添っていた。
「いいや、休憩してるだけ」
問いかけに答えると、ふうんと気の抜けた相槌が返ってくる。
その視線は参考書やノート、文房具が散らばるテーブルに向けられていた。
学生における休日や長期休みは遊び放題というわけではない。
先生から宿題を課される場合が多く、休み明けの提出に間に合わせる必要があるのだ。
課題に対する姿勢は人によって様々で、早めに終わらせて自由を謳歌する生徒、毎日コツコツと計画的に進める生徒は優等生に分類される。問題なのは締め切り直前まで溜め込むタイプであり、多少のお叱りは覚悟している生徒もちらほらと存在した。
優斗は優等生気質であり、本来ならとうに宿題を片付けている。
しかし今回は状況が違えば、話も変わっている。
いくら一人の時間があるとはいえ、大半はアイと過ごしていた。
空いた隙間に勉強をこなすにしても、連日の疲れなどで集中力は続かないし、つい漫画やスマホなど娯楽に手を伸ばしたくなる。
その結果、ゴールデンウィーク最終日まで宿題が残ってしまっていた。
「コーヒーでもいれようか」
「まだ眠くないし大丈夫」
「私も飲むからそのついでだよ?」
「……じゃあもらう」
日和は一度頷いてキッチンに向かう。
一方で優斗は再びシャープペンシルを握って問題集に向き合った。
勉強は嫌いでも苦手でもないが、好きでも得意でもない。
真面目に授業を聞いて理解できる範囲が主な知識であり、応用となると手がつかない問題もいくつかあった。
今は数学の難問にぶつかっていて、知っている公式を当てはめようとしても、その解法が正解かすらもわからない。
とりあえずノートに数列を書いてみるが、途中で明らかにおかしい数字に辿り着く。もう一度やり直すと今度は先に進めなくなった。
「その問題、解の公式使って代入すると楽に解けるよ」
コトン、と音を立てて、テーブルにマグカップが置かれる。
立ち昇る湯気に乗ってコーヒー特有の匂いが鼻孔をくすぐった。
二つのお礼を込めて「ありがとう」と伝えると、日和から微笑が返ってくる。
「……こうか?」
「うーん、ちょっと待って……ここ、計算間違えてる」
「本当だ……かなり綺麗な数になったな」
「多分、それが正解だったと思う」
低めのテーブルにしゃがんで目線を合わせ、日和はいとも簡単に難問を正解へと導いて見せた。
「勉強できるんだな」
「できるというか……それなりにはね」
「去年の成績どのくらいだった?」
「上から十番前後?」
「めちゃくちゃ頭いいじゃねえか」
なんとなく知的な雰囲気はしていたが、実際に学年上位の成績を収めているという。
優斗も上から数えたほうが早いとはいえ、せいぜい中の上くらいの位置付けだ。
「この問題も同じ解き方っぽいな」
「ちょっと計算多いくらいで、やることは一緒だね」
「……ちなみに英語も得意だったりする?」
「今回の宿題の範囲ならまあ……」
「もし詰まったら教えてくんね」
「いいけど、そんなに期待しないでよ。別に帰国子女とかじゃないから」
謙遜しつつも勉強には付き合ってくれるらしい。
日和はすでに宿題を終えていて、食卓でコーヒーを啜りながら読書をしていた。聞きたいことがあったら呼んで、とのことだ。
昨日までは子供部屋に日和、リビングに優斗という構図だったので、こうして夜の静けさを共有するのは肩たたき以来になる。
ここ休日中、確保できる勉強時間は同じだったはずだが、こうも進行が違うのは頭の出来か、時間の使い方か。
アイのお世話をしながら成績上位を維持していたと考えると、それ相応の努力が窺える。
「そういえば、いつからアイといるんだ?」
手を動かしながら、優斗は何げなく聞いてみた。
「……今年の春休みから、かな」
ややあってから返答が来る。
「意外と最近なんだ」
「相良さんほどじゃないけどね。でも、随分と長く一緒な気がする……実際は二か月くらいだけど」
視線は別々に向けながら、会話だけが進んでいく。
「あの時はいきなりママ、って言われてびっくりしたなー」
「きっかけは俺と同じなんだ」
「そう考えると色々似てるかもね。私もそれまで一人暮らしだったし」
「それは初耳だけど……俺が一人暮らしてるって天瀬に言ったっけ」
「あー……実はうめさんとの話、ちょっと聞いちゃった」
優斗がうめに応接間へと招かれた際、扉の前で待っていたところ盗み聞きのような形になってしまったようだ。
日和は悪びれた様子で「ごめん」と謝罪する。優斗は軽く「いいよ」と返した。
その話題はそれっきりで、互いに一人暮らしの理由は聞かなかったし、話さなかった。
「ここでの生活はもう慣れた?」
「まだ全然。アイには振り回されてばっかだし、クラスメイトと一緒に暮らすなんて早々慣れっこない」
「あの子、いまだに三人でお風呂に入りたがるもんね」
「次は上手いこと説得してくれよ」
「……頑張る」
ちょうど今日、狭い湯船に三人が集まったばかりだ。
アイが悪戯でバスタイルを剥ぎ取り、顔を真っ赤にした母親に怒られていたのは記憶に新しい。
今もまた自ら思い出してしまったのか、日和は薄っすらと頬を染めている。
あらかじめ覚悟はしていたが、思春期の男女がすんなりと共同生活を営むのは至難の業だ。
ふとした瞬間に胸が高鳴り、鼓動が早くなる。そこに恋心がなくとも意識しないほうが難しい。
「天瀬こそまだ慣れてないんじゃないのか?」
「私は特に……。そりゃゆうく……相良さんと暮らすことになるとは思わなかったけど」
聞き間違いじゃなければ、懐かしい呼び名で呼ばれかけたような。
英単語を書く手を止めて振り向くと、日和は小説から目を離して、明後日の方向を見ていた。
「なあ今――」
「宿題終わった?」
「いや、まだだけど……」
「私、もうすぐ寝るから質問あるなら早めにして」
「わ、わかった」
いきなり話を変えられて、優斗は急いでシャーペンを持ち直す。
コーヒーを飲み干すまでは先生役を引き受けてくれるそうで、何問か質問してみると完璧な回答が返ってきた。心なしか素っ気なく、目が合わないのは気のせいか。
小説のページをめくる音がやけに大きく聞こえてくる。
「一か月、あっという間に経ちそうだね」
寝室の扉を開ける間際、日和は少し寂しそうにそう呟いた。
「そうだな」
優斗は思った通りに相槌を打つ。
「おやすみ」
「おやすみ」
最後に同じ言葉を交わして、また明日「おはよう」で一日が始まる。
その繰り返しがいつまでも続かないことを二人は理解していた。
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