現在⑨
「藤岡弓子さん?」
大学の構内で名前を呼ばれたとき、どうしてか、ぞくりとした。
そのとき弓子は、中庭のベンチで、缶コーヒーを飲みながらノートを開いていた。次の授業で小テストがあるので、前に書いたノートを見直しているところだった。
顔を上げると、二十代中頃か、明らかに大学生ではない空気をまとった女性が立っていた。持っている鞄も、服装も、どことなく暗くかたい。けれど、以前家に来たような慇懃で何かを狙っている刑事たちとは違う、若干緊張したような顔をしていた。就職指導課に来た、企業の人だろうか。
「はい。藤岡ですが」
なぜ自分の名前を知っているのだろうと思いながら返事をした。
「隣、いい?」
言いながら、女性はベンチに座る。弓子は仕方なく、ノートを閉じた。
女性は意思の強そうなくっきりした目をしていて、形のいい唇を引き結んでいた。
「…どなたですか?」
心の距離を詰められないよう、慎重に尋ねると、女性は鞄から名刺を出してきた。書いてあるのは、聞いたことのある、ゴシップ雑誌の会社だった。それには驚かなかった。姉が逮捕されてから、こういう人たちとは何度も会っているし、取材させてほしいと声をかけられている。けれど弓子は、「記者」という肩書の隣にならんだ名前を見て、ひやりとした氷を背中に押し付けられたような気がした。
辻村茜。
こんなときに、偶然、辻村の名前が出てくるわけがない。
「あなたは、」
精一杯の勇気をふりしぼって出した声は、おぼれているときのように不明瞭で、空気が交じっていた。
その女性は、辻村茜は頷く。
「ええ。辻村優の、妹です」
弓子は奥歯を噛みしめた。
姉と、四年間にもわたる逃亡生活を一緒に過ごしていたことが分かっている辻村優は、先週、遺体が発見されたそうだ。警察から明確なコメントは出ていないが、姉には、辻村優の遺体遺棄の疑いがかけられているようだ。
逃亡生活中、辻村優は自分の名前で物件の契約を行い、いくつもの職場で並行して働いていたのだという。おそらく、辻村優は姉をかくまっていたのだろうという話がメディアから出ていた。
姉は、自分のために働き、匿い、逃げてくれた辻村優を、殺し、埋めたのだろう。その、辻村優の妹。
どんな言葉を出せば許されるのか、弓子には分からなかった。正確なことはまだ分かっていない。けれど、こうして会いに来たということは。
「実は、あなたに、聞きたいことがあって」
茜と名乗る女性は、煙草をくわえながら言った。完全分煙のこの街で、当然のように火をつけて煙を味わう。
「藤岡るり子と面会したって聞いて。どんな様子だった?」
「どんな、って…」
どう言えば伝わるのか、弓子には分からなかった。起こった事実を言葉にしても、あの場所の異常な空気は表現できない。
弓子が黙ったままでいると、茜はつまらなそうに溜息をついた。
「千葉でみつかった遺体ね、司法解剖したら、生前にかなり顔をいじっていたことが分かったの。シリコンが燃え残っていたり、骨の削り痕があってね」
整形していたということだろう。ぎょっとして茜の方を見ると、一枚の写真を差し出してきた。
「これ、優の写真」
写真には、茜によく似た五十歳くらいの女性と、雑誌などで顔を見たことがある、辻村優のふたりがうつっている。ふたりは仲が良い親子なのか、家の玄関の前で寄り添っていた。
辻村優は、この写真ではまだ高校生なのだろう、学生服を着ていた。その顔は、何度見ても、印象に残った。大きくふくらんでいるのに低い鼻、細い一重の目は目つきを確実に悪くしていて、全体的な印象を損なっていいた。頬のえらは張っていて無骨で、唇はぼってりと分厚く、レンズの大きな眼鏡をかけている。妹である茜と全く似ていない。
「似てないでしょう」
思っていることを言われて、弓子は曖昧に薄笑いを浮かべた。茜は冷えた口調で言う。
「私は、母にそっくりなの。優は、家族の誰とも似ていなかった。…優は、自分の顔を嫌っていた。ほとんど憎んでいた」
茜はのどもとでクク、と笑った。口の端をまげるような笑い方を、弓子は気味が悪いと思った。何よりも、身内が死んだというのに全く悲しんでいる様子がないのが奇妙だ。
「まあ、当然そうよね。あの顔のせいで優は虐げられることばかりだった。だから、整形していても何の不思議もないわ。でも、母はあの顔すらも愛していた。だから母は」
茜は言葉をぶちりと切って、一切の動きを止めた。
あまりにも長い間だったので、弓子が不安に思って顔を覗き込むと、俯きかげんの茜の顔は、これまで見たことがないほど恐ろしい顔をしていた。
らんらんと冷たく濡れる黒目、開いた瞳孔、吊り上げられた眉、笑みを浮かべているようにすら見える歪んだ口元。それは、目の前にいる人間をすぐにでも殴り殺しそうな、憎悪と殺意の入り混じった顔だった。
弓子は思わず身を引いた。
茜ははっとした様子で顔を上げ、弓子を見やる。茜の顔は、今は能面のように感情を消し去っていた。
茜が呟くように言う。
「確かめたいの。だから、お願い。…あなたの髪の毛をちょうだい」
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