早贄の森

南部りんご

現在①


 灰色の、塗装がされていないコンクリの壁を指でそっとなぞる。ひんやりとした感触が、確かにこれが現実なのだと教えた。

 殺風景な部屋だった。

 一日いれば目を閉じても鮮明に思い出せるほど、何の特徴もない灰色の空間だ。扉が一枚、右手方向にあるだけ。あとは窓も装飾も何もない。きっと、何もないのが正しいのだろう。

 この場所にわたしは、何日も何度も連れてこられている。

 部屋の中央にぽつんと置かれている机の向こう側には、刑事がずっと座っていて、何もしゃべらないわたしにずいぶん苛立っている。

 仕方ない、もうずいぶんと長い間これを繰り返しているのだから。


「もう一度聞きます。朝賀健人を殺害したのはいつですか?」


 刑事は不健康そうな人だ。目つきは鋭いのに頬はたるみ、その頬に髭がばらばらと生えている。

 しかし彼を不健康そうに見せている一番の原因は、おそらく下がりきった口元だろう。引き結びすぎて笑うことを忘れたかのような唇だった。

 わたしが女性であることを気にしているようで、取調室に来て何日たっても敬語を貫いている。しかしその語調はだんだんと疲労感を増していた。

 朝賀。それはとても懐かしい名前だった。

 その名前がかつて持っていた、体を焼き焦がすような力はすでに衰え、今では水でうすめたような、密度の薄い感情しか残っていない。


「あなたは浅賀の死体と四年間暮らしていた。なぜ今になって自首を考えたのですか?」


 気持ちは、とても穏やかだった。

 まるで、春の日に桜の下で寝転んでいるように、何も怖くなかった。

 死体と四年間暮らしていた女を、世間はどう思うだろう。

 昼過ぎの主婦向けのワイドショーでは、わたしについてあれやこれやと言うだろう。きっと小学校の頃の、わたしの顔も覚えていないような同級生が「こんな人だった」と適当に答えるだろう。スタジオに置かれたボードに部屋の見取り図が貼られ、遺体はここにあって犯人はここで眠っていた、なんて非人道的だろうなどという、どうでもいい情報が垂れ流しにされるだろう。

 簡単に想像できる。まるで他人事のように。

 けれど、きっと誰にもわからない。

 本当のこと。本当のわたし。絶対にわかりっこないと確信できた。

 この四年間が、どれだけ幸福に満ちたものだったか。


「浅賀健人を殺したのは、本当にあなたなんですね?」

「はい」


 わたしは即座に答える。その反応に、刑事がびくりと体を震わせた。答えがあるとは最初から思っていなかったのだろう。

 刑事の顔に驚きと奇妙なものを見るような恐れが一瞬だけ過ぎた。

 わたしは目を閉じた。

 窓はないけれど、わたしには外の空気が分かる気がした。

 今は一月の末。張りつめたような澄んだ空気が、乾いた風を運んでくるだろう。

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