第二十一話 最強の陰陽師、魔族と戦う 前
学園の敷地には、大きな森があった。
貴重な薬草が生える森で、この場所に学園が建ったのもそもそもそれが理由だ。危険なモンスターこそとうの昔に排除されているが、未だにその奥地は人の灯りの及ばない自然の聖域だった。
その森に、人の影があった。
ひらけた場所に青白い巨大な魔法陣が描かれ、その上に立って精神を集中させている。
月光に照らされる黒い肌。
巻き角の生えた異形の頭。
およそ人の姿ではない。
前世であれば、鬼かと見紛っただろう。
「――――怪し夜の、月照らす野に人遭はば、人でなしとて気ぞ
声に人影が振り返った。
ぼくは、黒い鬼へと微笑みかける。
「これ、ぼくの師匠が詠んだ歌なんだ。師匠のことは大嫌いだったけど、この歌は好きでね。月が怪しいほど美しい夜に誰かと会ったならば、それが人ではない、我が宿敵たる
剣呑な視線を向ける鬼へと、ぼくは続ける。
「師匠は晩年、心を病んでいてね。人でなし、は自分にも掛かってるんだよ。人の心を失ってしまった自分でも、月を美しいと感じる情緒が残っているのだな……そんな意味もある。君は――――どうだい? 人ではない化生の身なれど、今宵の月を美しいと感じる心はあるかな」
「何だ? 貴様は」
ようやく返ってきたのは、地鳴りのような低い声だった。
黒山羊のような、人のような面貌。
書物でしか読んだことがないが、こいつは魔族……その中でも、悪魔と呼ばれる種族に違いない。
その口が歪む。
「人間の子供がなぜいる。まさかここを嗅ぎつけたのか? だとすれば……愚かだな。たった一人でこの我に挑もうとは」
「ちょっと遊びたくてね。体がなまりそうだったから」
「……功を焦るか。哀れなり、命の短い人間よ」
なんか都合よく解釈している悪魔に、ぼくは問いかける。
「そんなに自信があるならさ、ぼく逃げないから教えてよ。君――――何を探してる? ずっと見てたよね。あのレッサーデーモンの目を通して」
「ほう」
悪魔の目が、わずかに見開かれる。
「気づくか。だが愚問なり。そのようなもの、一つしかあるまい」
「だからなんだよ」
「……言わなければわからぬか。勇者だ。決まっているだろう」
「勇者?」
ぼくは首を傾げる。
この世界の書物で読んだことはあったけど……。
「あの伝説の?」
「そうだ」
「なんでそんなものを」
「生まれたからに決まっているだろう! 人間側の英雄が現れたにも関わらず、我ら魔族の英雄たる魔王様は、未だにご誕生なされない……。だから潰しに来たのだ。勇者が力を付ける前に」
「うーん。確認なんだけど、勇者ってあの……おとぎ話の勇者のことだよね?」
「おとぎ話?」
一瞬の沈黙の後――――魔族の男は、高笑いを上げた。
「これは滑稽だ! 愚かなり、愚かなり人間ども! あの伝説の戦いを、よもやおとぎ話とは。民が知らぬということは、もはや勇者と魔王の誕生を知る予言の術も失ったと見える。争いのない時が続いたとは言え、ここまで人が堕していようとはな」
「はぁ、事情がわかったようなわからないような……」
要するに勇者と魔王というすごい奴らがいて、そいつらは定期的に転生するけど、その間隔が長かったせいで人間の側ではおとぎ話の存在になり、一方で寿命の長い魔族の側ではちゃんと口伝されてた……っていうことかな?
「でも勇者や魔王だなんて本当? 君たちの妄想じゃなくて?」
「戯れ言を。十二年前の託宣が虚妄であるなどありえない。それに我は、今宵確かに、あの館の中に見たぞ。託宣に語られた勇者――――尋常ならざる力を振るう、赤い髪の女を」
「赤い髪?」
それってまさか。
「あー、アミュのこと? たしかに、あの子ちょっとおかしいくらい強いね。ふうん、勇者か……」
「アミュという名か。調べる手間が省けたな」
「どういたしまして。まあでも」
ぼくは悪魔へと笑いかける。
「君、ここで殺しちゃうんだけどね」
「……ふむ、問答はこれで終わりか? ならば手早く済ませよう。――――来たれ、眷属」
巨大な魔法陣、その内部に埋め込まれていたやや小さな魔法陣から――――三体のデーモンが現れた。
む、ちょっと強そう。
講堂にいたやつらよりずっと小さいが、力の流れは大きい。
特に真ん中奥にいる、体に赤い紋様の入ったやつ。
「こいつらはレッサーデーモンとは違うぞ。貴様らの軍とも単騎で渡り合う、我が配下の中でも精鋭だ。残念だが――――」
「あっそ」
《火土の相――――鬼火の術》
左の一体に特大の青い火球がぶち当たる。
爆散した《鬼火》の核は、デーモンの胸部を大きく抉っていた。
派手に崩れ落ちる左側の個体を目くらましに、ヒトガタが一枚、密かに右側の個体に貼り付く。
片手で印を結ぶ。
《陽の相――――落果の術》
瞬間、右側のデーモンが潰れた。
一気に千倍となった自重のせいで、地面が凹み、体はその中で汚泥となっている。
「弱いのはいらないんだ」
一瞬で倒された二体を一瞥もせず。
赤い紋様のデーモンが、ぼくへと疾駆する。
その爪が迫る。
「こいつだけもらっとくね」
最後のデーモンが、動きを止めた。
爪をぼくに振りかざしたまま微動だにしない。
その周りには、五枚のヒトガタ。
それを頂点とした五芒星の陣が、デーモンの動きを封じていた。
扉となるヒトガタを浮かべる。
印を結び、真言を唱える。
「――――ओम् दश सप्त षोडश त्रीणि अष्ट एकम् निक्षेप सकल स्वाहा」
《護法――――降魔位相転封》
空間が歪み、光が漏れ。
最後のデーモンはあっという間に、扉のヒトガタへと吸い込まれていった。
周囲はいつの間にか、燐の残り火が燃え、汚泥が不快な臭気を発するだけの静かな森へと戻っている。
「貴様……今何をした?」
「ん? もらった。別に必要なかったんだけど、一応」
「……転移魔法か。どこに送ったかは知らぬが、闇属性の魔法を操り我が眷属を葬るとは。少しはやるようだな」
またなんか都合よく解釈した悪魔の人が、ぼくを睨みつける。
「よい。ならば――――誇りに思え。この悪魔族の
ガレオスとか名乗った悪魔。その周囲の土が盛り上がる。
土塊からいくつも生え出たのは、黒銀色の剣だった。
「我は土と火を司る金属の悪魔。眷属と同じ手が通ずると思うな」
刃が浮かび上がり、その切っ先をぼくに向ける。
あれ、素材は鉄かな。
たしかにデーモンどもよりは強そうだ。
一瞬で倒しすぎたからよくわからないけども。
「同じ手が通じないって?」
試しに《鬼火》を何発か打ってみる。
ガレオスはそれを、浮かべていた刃を飛ばし、迎え撃った。
青い火球は届かず、すべて空中で爆ぜ割れる。
「ふうん。じゃあこっちは?」
「無駄だ」
密かに飛ばしていた《落果》のヒトガタ。
それらがすべて、ガレオスに迫るやいなや燃え上がった。
火の魔法を使うというのも本当みたいだな。
「終わりか? ならばもう死ね」
ガレオスが刃を放つ。
ぼくはそれを、普通に避けた。
なんだ、遅いな。期待外れだったか……。
「愚かなり」
「っ!」
ぼくは咄嗟に身を逸らす。
ちらと後ろを見ると、空中に魔法陣の残光が目に入る。
こいつ、飛ぶ刃を転移させたのか。
「我は悪魔族だぞ。闇属性の転移魔法なぞ、手足のごとく操れて当然だ」
今度はぼくへ炎の魔法が放たれる。
大きく避けるが、その光に目がくらんだ。
そのせいで――――ぼくに肉薄するガレオスの姿に気づくのが、ほんのわずかに遅れた。
「
その手に持つ、黒銀の刃が一閃される。
右腕に激痛。
――――肘から先を切り飛ばされた。
その事実に気づくのにかかった時間は、幸いなことに一瞬で済んだ。
「チッ……」
ぼくはすぐに近くにいた式と位置を入れ替え、ガレオスから距離を空ける。
気の流れで右腕の痛みを抑え、ヒトガタで断面の止血をする。
まだ戦えるが、苛立ちだけは禁じ得ない。
やってしまった。
「奇妙な転移魔法を使うのだな、人間。だがこれでどうだ?」
いつの間にか生み出されていた無数の細かな刃が、ガレオスから四方八方へ放たれる。
それらは正確に、ぼくの式神を射貫いていた。
力を失ったヒトガタがひらひらと地に落ちる。
ぼくは、自分の表情が強ばるのを感じる。
「……へえ、式神がわかるんだ。見えなくしてたはずだったんだけどな」
「これでもう転移は使えまい」
ガレオスは言う。
「認めよう、人間。貴様は強い。我が眷属を軽く破り、多彩な魔法で我に抗った。貴様と勇者を倒したことは、同胞へ誇りとともに語れるだろう」
「……何もう終わった気でいるんだ?」
ぼくは《鬼火》を連発する。
だが狙うガレオスの姿は、魔法陣の残光とともにかき消える。
「貴様の敗因は、その
次の瞬間。
ありとあらゆる方向から、ぼくに黒い刃が降り注いだ。
避ける場所などあるはずもなく、全身を貫かれる。
膝を突いた。
臓腑から血がこみ上げ、口からあふれ出る。
赤く染まったぼくの前に、ガレオスが立つ。
「子供の身で、それほどの力を持ったことが不運だったな。成熟していればこんな無謀な戦いになど挑まなかったものを」
「だ、から……何を、もう終わった気で……」
「終わりだ」
ガレオスが、無造作に剣を振った。
型も何もないその刃は。
しかしあっけなく――――ぼくの首を切り飛ばした。
****
首のない死体を見下ろすガレオスは、溜息をついて呟く。
「よもや人間の子供相手に面白い戦いができようとは……いやもう一人、まだ勇者が残っていたな」
踵を返す、悪魔族の男。
その背に向けて。
ぼくは、歌を詠み上げる。
「――――澄みし夜の、曇りなきこそ寂しけれ、憎き
――――――――――――――――――
※落果の術
対象の重量を増加させて押し潰す術。陽の気は正のエネルギーを司る。『今昔物語集』巻第24第16話に、安倍晴明が使用した似た術についての記載がある。
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