第32話

 夜。

 リグルは王宮のバルコニーから夜空を照らす満月を眺めていた。

 明かりがなくても大きな月が照らす夜は足下に影を落とす。やわらかな月の光の中、リグルは夜の静寂に身を委ねていた。

 夕食後、ディーンは元反乱軍のメンバーと話し合いをしている。朝はサラの来訪で視察が遅れ、予定はいつも通り順調に遅れていった。今日も相変わらず忙しそうだなと幼馴染の体調を心配しながら、だからといって手伝うこともできない。歯痒い思いを時折吹く風で冷ます。

 サラと何を話していたのか、何となく聞きそびれてしまった。夕食時に聞こうかとも思ったが話題にできるような空気でもなく、大浴場で聞けばいいかと、リグルはただ黙ってエリスの作った料理を口に運んでいた。

 夜空を照らす満月を見るのは、ジルベールに来てから数度目だ。随分と長居をしてしまっている。

 竜に乗って森を後にした自分達がどうなったのか、ドワーフ達は知らない。ガゼルは、ギズンは、盲目のエルフは心配していないだろうか。

 消えた竜はどこへ行ったのだろう。ジルベールへ飛んできた意味は何だったのか、ディーンを襲撃したのは何故か──そもそも意味があったのか。意味がなかったとしたら、再び襲撃することはあるのだろうか。

 不意に背後に忍び寄る気配を感じて、リグルは気付かない振りをした。足音を立てないようにそろりそろりと近づいてくる。すぐ背後で立ち止まって、息を潜めて──手を広げて羽交い締めにしようとしているのか。

「隙ありっ!」

 背後から飛びかかるように抱きしめられた。肩から回された手が胸の前で結ばれて、リグルはぎゅっと抱きしめられる。

「捕まえた」

 吐息で耳元をくすぐられ、思わず笑みがこぼれてしまう。

「びっくりした」

「全然びっくりしてないじゃない」

 エリスは唇を尖らせると、拗ねたように軽くリグルを締め上げてから解放した。

「忙しかった?」

「ううん、もう片付けは終わったから。待たせちゃった?」

「全然。見て、月がきれいだよ」

 リグルの隣に並んで空を見上げれば、心の中まで照らしそうな月が輝いている。

 夕食後、食器を下げている際にリグルの食器の影に小さく折りたたまれた紙を見つけた。バルコニーとだけ書かれていて、詳細な場所も時間も記されてはいなかったが、何となく逢い引きのようでわくわくした。

 片付けが終わってからエリスはどこのバルコニーか推理して、満月の夜なのだからきっと月が見やすい場所だろうと当たりをつけた。

 行ってみれば、そこにはリグルの背中があった。心が通じ合ったようで、嬉しさのあまり思わず背後から抱きしめてしまったが、怒られることもなくリグルも笑って迎えてくれた。エリスはそれがとても──嬉しい。

「なんだかすごく久し振りな感じ」

 同じ屋根の下で毎日寝食を共にしているのに、久々の再会のような気がするのは何故だろう。

「そうだね。二人きりで話すのはすごく久し振りだ。……前にもこんな話をしたよね」

「そうだったかしら」

「そうだよ。まるで邪魔されてるみたいに二人きりになる機会がないよね」

「だとしたら、今日はその相手を出し抜いたのね」

 顔を合わせて、小さく笑った。

「ねえ、サラさん? ってどんな感じの人だった?」

 夕食の場でサラの来訪が話題に上った。ちらりと話はしたがすぐに別の話題に移ったため、詳しくは話していない。

「穏やかそうな人だったよ。馬具を作ってるんだって。子供がまだ小さいんだけど、ほら、翡翠騎士の副団長を覚えてる? すごくそっくりで見たらきっとびっくりするよ」

「そんなに?」

「うん。顔はそっくりなのに、体型や性格は全然似てないんだけどね」

「んー、見てみたかったなあ……」

 翡翠騎士副団長イグナ・レイと間近く対峙したのは最後の戦いに赴く途中だった。リグルとエリスは実際に戦ってはいないが、対峙するだけで重圧を感じた。まだ幼いのだからそんな威圧感はないだろうが、どれほどの隔たりがあるのか見て確かめてみたい。

 あの時も月が眩しい夜だった。あの時は満月だっただろうか──

「……あれからずいぶん経ったのね……」

「そうだね……」

 あの戦いの後──ジルベールを出て森へ行き、ドワーフに出会った。エルフに出会い、剣と魔法を学び、混乱の領地で戦い──覚醒した竜に乗ってジルベールへと戻ってきた。

「いつまでここにいられるのかしらね……」

 空を見上げたエリスの横顔を見つめ、視線をそのまま星へと移した。

 満月の夜は星が見えない。幾つかの星が瞬いてはいるが月光の前には霞んでしまう。

「エリスはずっとここにいたい?」

 問われ、隣に佇むリグルを見れば、彼も星を見上げていた。

 エリスは静かに首を横に振って、

「リグルさんと一緒なら何処でもいいわ」

 再び夜空を見上げた。

「……そっか」

「うん」

「月がきれいだね」

「そうね……」

 やわらかな沈黙に、なんだか照れくさくなってしまう。エリスはそわそわと自分の両手の指を絡ませて、

「そういえばリグルさんって、いつもそのマントを着てるのね?」

 声をかけてから解いた指で白いマントにそっと触れた。

 白いマントは森の中でもよく映えた。月明かりに照らされる今は、夜の闇に佇む精霊のようにリグルを浮かび上がらせている。

「ああ、これ。カディールにもらったんだよ。成人のお祝いにって」

「カディー……?」

「隊商の長だよ。エリスも会ったよね」

「ああ、あの人」

 初対面時にほんのり酔っていたエリスは、自己紹介された記憶はあるが名前が朧気だった。ただ顔ははっきりと覚えている。日に焼けた肌に生やした髭は精悍な印象を与えていた。褐色の肌に濃い髪色、白っぽい服──

「隊商の人達も似たような……?」

「よく気が付いたね。子供の頃に初めて隊商に会った時、すごく憧れてさ。それで成人のお祝いにって、実際貰ったのは十七の時だったけど、いつか森を出て独り立ちする時が来たらこれを着て行けって。ちょっと特殊な生地で弱い雨なら弾くんだよね。丈夫だしすごく気に入ってる」

 リグルが見せびらかすようにマントの裾を持ってはためかせる。

「いつも着ててよかったよ。おかげで持ってこられたからね」

 突然の予期せぬ帰郷だったため、持ってこられたのは身につけていたものだけだ。

 剣と、着ていた衣類と、後は──

「ペンダント、してる?」

 エリスに問われ、リグルは「もちろん」と襟元からペンダントを取り出した。艶やかな漆黒に金色の箔が舞うガラスが、月明かりで一層きらめいている。

「そのペンダントね、リグルさんの髪みたいだなあって思ったの。こうして見ると、本当にきれいだなあって……」

 リグルの漆黒の髪が月の光の欠片を受けて、金色の箔のように輝いて見えた。

 触れたらどんな感触なのだろうかと、深く意識せずに手を伸ばして──リグルが不思議そうな顔をしていることに気付き、エリスは手を引っ込めた。

「あっ……その、ごめんなさい。髪がきれいなんて言われても、嬉しくないわよね」

「──えっ? そんなことないよ」

「でも、なんか、その」

 少し、いつもと様子が違った気がした。

 言葉が出てこず、エリスがまごついていると、

「エリスはペンダント、してる?」

 リグルが穏やかに微笑みかけた。

「うん、もちろん」

 いつもの笑顔にほっとしながら、エリスも襟元からペンダントを取り出した。

「エリスの瞳の色だよね」

 ペンダントトップを手に持ったまま、エリスがリグルを見た。リグルの漆黒の瞳に自分が映っているのが見える。

「星空を閉じ込めたみたいだなって思ったんだけど、今夜は星空よりエリスの瞳の方がきらきらしてる」

 優しい声に夢見心地になってしまいそうになる。

 嬉しいはずなのに急に気恥ずかしくなり、星と一緒に流れていきそうな心をようやく踏み留まらせた。

「あのね……次の新月の日、日食が起こるわよ」

 とっておきの秘密を打ち明けるように、エリスが囁く。

「……日食?」

「そう、太陽が欠けるの」

「じゃあ、暗くなっちゃうのかな」

「一時的にだけど暗くはなるわね。……あんまり驚かないのね」

 つまらなさそうにエリスが唇を尖らせる。

「うーん。太陽が欠けるって言われてもなあ……。エリスはどうしてそれを?」

 拗ねる仕草も可愛いなと思いながらリグルが訊ねる。

「師匠に教えてもらったの。日食は度々起こるけど、今度のは皆既日食って言って、太陽が丸ごと欠けちゃう珍しい現象なんですって。前に起きたのは私達が生まれる前みたい。次はいつだって言ったかなあ……」

「そういうのって、事前に分かるものなの?」

「計算で分かるみたい。日食ってね、太陽が月に隠れちゃう現象なの。月って昼でも見えることがあるでしょう? ええと……ペンダントを持っててくれる?」

 言われてリグルが自分のペンダントを胸の前で持つ。

「リグルさんの方が太陽ね。私の方が月。普段の月の通り道がこうだとすると」

 リグルのペンダントから少し離れたところでエリスのペンダントが水平に移動していく。

「太陽も月もそのままなんだけど。月が太陽と同じ場所を通ると」

 エリスのペンダントが水平移動して、リグルのペンダントの上に少しだけ重なる。

「月が太陽を隠してしまうから、太陽が欠けてるように見えるの。これは新月の時に起こるから、元々月は見えてなくて、急に太陽が欠けてしまうように見えるわね」

「それって太陽神がいなくなるってこと?」

 どこまで本気で言っているのか、リグルが少し困ったような顔をする。

「んんー……太陽はそこにあるし、ちょっと月に隠れちゃうだけだし……」

 ジルベールも旧モルタヴィアも太陽神と地母神の二柱を創世神として信仰している。太陽と大地の神、そして数多の精霊。いわば自然崇拝なのだが、魔法使いにとっては魔法の源という意識の方が強い。

 盲目のエルフから儀式魔術について学んだ時、天体の食も魔法陣に組み込むことがあると言っていたため気にもしていなかったが、魔法を使わない者にとっては太陽が欠けるとは不吉の象徴になり得るのかと、エリスは考え込んでしまった。

「エリス?」

 心配そうにリグルがエリスの顔を覗き込む。

「あ、ううん。でね、こうやって月が太陽と完全に重なると──」

 エリスがリグルのペンダントに自分のペンダントをぴったりと重ね合わせる。

「太陽が見えなくなっちゃうでしょ。これが今度起こる皆既日食……」

 リグルの手が重なり合ったペンダントごと、エリスの手をそっと握った。

 心臓が跳ね上がった。

 これまでに幾度となく手を繋いできたはずなのに。

 もっと強く、ぎゅっと手を繋がれたことだってあったのに。

 急速に顔が熱くなる。きっと顔が真っ赤だ。恥ずかしくて顔が上げられず、リグルがどんな表情をしているのか確かめることもできない。

 うつむいたまま自分の手を握っているリグルの左手を見つめていると、リグルの右手が頬に触れた。熱くてのぼせそうな頬に、夜風に冷やされたリグルの指が心地良い。

 思い切って顔を上げた。リグルの漆黒の瞳には、今は自分しか映っていない。

 自分の瞳にも、今はリグルしか映ってはいない。

「きれいだね」

 優しい声に、夢見心地になってしまう。気恥ずかしさがない訳ではない。けれど、

(夢……見ても、いいのかな……)

 ふわふわな心が風に吹かれて飛んでいってしまわないように──エリスはリグルの手をそっと握り返した。

 二人の手のひらの中で、ペンダントがかちりと音を立てる。

「エリス」

 リグルが唇を開きかけた時だった。

「おう、エリス! そこにいたのか。夜は冷えるぜ?」

 廊下から声が飛んできた。びくりと身体を震わせてエリスが一歩引いて、リグルから距離を取る。そそくさとペンダントを襟の内側にしまう仕草が、ちくりと心に棘を刺す。

「アレクさん、話し合いはもう終わったの?」

「ついさっきな。お、明るいと思ったら今夜は満月か」

 話しながらアレクがエリスの方へ歩み寄る。当然のようにリグルのことなど見向きもしない。リグルはエリスから視線を満月へと移す。

「あのね、今日食の話をしてたの」

「日食?」

「そう、今度の新月の日、太陽が欠けるのよ」

「縁起でもねえな」

「そういうのじゃなくて、うーん、日食っていうのはね……」

 先程リグルにしたのと同じ説明を、今度は言葉だけで説明する。

 どこか遠くにエリスの声を耳にしながら、リグルは月明かりに消えた星を見上げていた。

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