第25話

 ルティナに文字を教えると約束し、それを始めてしばらく経つ。

 場所は書斎であっただろうか、今は使われていない小さな部屋だ。文字を教えるのは夕方の風呂掃除の後であり、そんな時間にルティナの部屋を訪れる訳にもいかず、しかしラスフィールに個室は与えられていない。何の飾りもなく、ソファしか置かれていない実に質素な狭い部屋に小さな机と椅子を二つ持ち込んで、あまり夜遅くならない程度で切り上げている。

 ラスフィールが文字を教えると提案した時に顔を輝かせて喜んだルティナは、相手が親の仇であることを忘れたかのように熱心に、そしてとても楽しそうに文字の勉強をした。

 最初はラスフィールが羊皮紙に書いた文字の見本を見ながら板書での練習である。

 通りの名前など標識の文字は読めると言っていたが、文字を読んでいるのではなく、標識の文字の並びそのものがひとつの図であり、それに音が乗ったものとして認識していた。今まで複数の文字が並んでひとつの図と認識していたものが、解体され、一文字ずつの読み方を知り、重ね合わせることで名前になっているのを知るのがとても楽しいようだった。

 見本を見ずに文字が書けるようになったら、あとは練習あるのみである。

 ルティナはすでに語学としては「話す」「聞く」はできているので、「読む」「書く」は数をこなせば問題なく習得できるだろう。

 その両方を学ぶためにラスフィールが選んだのは、一冊の本を書き写すことだった。一冊書き写し終わった時には自分の手元に写本が完成するので、何度でも読み返すことができる。

 書写の題材は、誰もが知っている創世神話にした。創世神話は幼子に読み聞かせる絵本と、子供が読む物語としてのものと、神話を歴史として研究した者が残した記録がある。今回ラスフィールが選んだのは物語としての創世神話だ。語彙も多く、物語として楽しめるので書き写していても飽きが来ない。

 手本となる書物はアレクに事情を説明して王宮書庫から借り、インクも用意してもらった。紙に関しては、ラスフィールが労働を始めた初期の頃に行っていた水汲みが製紙工房だった縁もあり、製品としては扱えないものを譲ってもらうことができた。

 書写を始める時、ルティナに書物とインク、紙を渡すと、それだけで目をきらきらと輝かせた。読み書きができない彼女には縁の無いものであり、また一般人にはまだまだ高価な物である。

 何よりルティナが喜んだのは、ラスフィールから受け取ったガラスのペンだった。蒸留水を固めたように透明なガラスのペンは、それだけで少女の心をときめかせた。

 最初はガラスのペンに慣れるために、紙の端切れに練習をした。直線やくるくると繋がった円を描いてみたり、名前を書いてみたり。書き写すために書物を開いたのはそれから数日後である。

 最初の内は一文字ずつ慎重に書き写していたルティナだったが、慣れてくると単語単位で書き写すようになり、同じ時間で書ける文字数が徐々に増えてきた頃だった。

「……ねえ、ラスフィールってどう書くの」

 紙の端切れとガラスのペンを渡され、ラスフィールは小さな紙の中心に名前を書いた。傾くことも大きさがばらつくこともなく、均整がとれた美しい文字である。

 ラスフィール・アルシオーネと書かれた紙の端切れを眺めながら、

「ラスフィールって誰がつけたの? どういう意味?」

 いつもは文字に夢中なルティナが珍しく話しかけてきた。

「両親が結婚する前、二人で聞いた吟遊詩人の歌に出てきた騎士の剣の名前から取ったそうだ。私自身は聞いたことはないが……」

「剣の名前なんだ。騎士の名前じゃないのね」

「騎士の名前は歌に出てこないそうだ。身に着けていた武具が伝説になった話らしい。私が生まれた頃はまだ戦中で閉塞感があったからな。伝説の剣のように切り拓いてほしいという願いをこめたそうだ」

「ふうん……そっか。ちゃんと意味があるんだ」

 ガラスのペンを置いて、銀髪の騎士の名が書かれた紙の端切れを指先でいじる。文字を教えている間に手を止めるのは初めてだなと、ラスフィールは視線を落とした少女を見つめた。

「どうかしたのか」

「んー……、……私の名前。ルティナって、ベルティーナ様から取ったんですって」

「そうなのか」

「うん、お父さんがベルティーナ様にすごく憧れてたんだって。だから別に、名前に意味とかないのよね」

「偉人や先祖が由来の名などよくあるだろう」

「そうなの? ……でも何か、私のために考えてくれた名前とかじゃないんだなあって思うと、好きになれなくて。ちょっと言いにくいし、子供の頃からずっと嫌だなあって。もっと何か、意味のある名前だったらよかったのに……」

 それきりルティナは俯いたまま黙り込んでしまった。

 どうしたものかとしばし考えて、ラスフィールはガラスのペンと新しい紙の端切れを手に取った。何事かとルティナが顔を上げる。

「……ルゥ、というのはどうだろう。確か魔除けの植物の名だし、ルティナの愛称っぽくて……、どうした」

「え……、あ、もしかして、名前考えてくれたの……?」

 驚くルティナの顔を見て、今度はラスフィールが黙り込む。

 ルティナは意味のない名前が嫌だとは言ったが、新しい名前が欲しいとは言っていない。

「いや、すまない。忘れてくれ」

 ラスフィールがペンを置いて紙の端切れを破ろうとすると、ルティナが慌てて手を伸ばして奪い取る。まだインクの乾いていない文字に触れたため汚れてしまったが、そこにはやはり美しい文字で「ルゥ」と書かれていた。

「ううん。ルゥか……、ルゥ。ルゥ。……嬉しい、ありがとう」

 紙の端切れを両手で優しく包んだルティナの笑顔が、蝋燭の明かりにやわらかく照らされていた。


   ***


 ラスフィールが少女を伴ってあちこちで労働をしているのは、あっという間に噂になって広がった。さすがに帯剣しているラスフィールに襲いかかるような輩はいなかったが、嫌がらせは常に付きまとった。

 畑仕事を手伝っている時に桶一杯の馬糞をかけられたことがあったが、畑の持ち主が烈火の如く怒ってその相手を打ちのめしたため、それ以降は労働中に物理的な仕打ちを受けることはなくなった。

 また、時折悪意の矛先がルティナに向かうことがあった。

 最初の頃はラスフィールが少女に使役されていることを揶揄する野次が飛んでくるだけだったが、一度ルティナが柄の悪い男達に拐かされそうになり白刃を拝ませてからというもの──ルティナが父親の仇とともにいることをなじられたり、勝手な想像で不名誉な言葉を投げつけられることも幾度かあった。

 ルティナはいつも気丈に、国王の印と署名の入った証書を見せては反論した。

 ラスフィールは監視役を他の誰かに変わってもらってはと提案したが、ルティナは頑として受け付けない。その都度小さくため息をついては沈黙で返していた。

 そんなことが続いていた、ある日。

 作業中のラスフィールを監視している間、ルティナは特にこれといってやることがない。監視役とはいえ逃亡の心配はしていないし、アレクにはラスフィールが死なないように見張れと言われているが今のところそんな状況にはなりそうもない。元々鍛えられているラスフィールは滅多なことでは過労で倒れたりしない。

 ただ本当にぼんやりと──肩まで伸びた銀髪が汗で頬や額に張り付いたり、汗が流れ落ちても首に巻いたスカーフではなく腕で拭ったり、姿勢良く歩く姿だったり──作業の邪魔にならない場所に用意してもらった椅子に掛けて眺めているだけだ。

 割と無防備にラスフィールを眺めていたルティナの腕を、物陰から伸びた腕が引っ張った。何事かと立ち上がったルティナが腕を引かれて物陰に消える。

 畑仕事をしていたラスフィールは、すぐに視界の端からルティナの姿が消えたことに気が付いた。農具を持ったまま足音も立てずルティナが掛けていた椅子へと歩み寄り、気配を探る。すぐ近くの倉庫の裏から女の声がした。

「ちょっとあんた、聞いたわよ! あの騎士団長に父親を目の前で殺されたんだって?」

 やや年配の女の声だ。身の危険が差し迫っている訳ではないようだが、ラスフィールはそのまま息を潜めて聞き耳を立てる。

「あんた大丈夫かい? あいつに酷いことされてないかい?」

「いえ、あの……大丈夫です。私は監視役なので……」

 押しの強い相手に戸惑いながら、ルティナが強張った声で返答する。

「監視役だって! そんなもの、あんたみたいなお嬢ちゃんがやらなくたっていいじゃないか。相手は剣だって持ってるのに、何かあってからじゃ遅いんだよ」

 その剣は何度もルティナを守ってきたが、傍目には罪人が剣で少女を脅しているように見えるらしかった。

「さっきも見せましたけど、これは国王様の命令なんです。だからこれは歴とした私の仕事なんです」

 いつものようにルティナが反論する。国王の印と署名の入った証書を見せられれば大抵は怯む。だが今回の相手は怯まなかった。

「親の仇と一緒にいさせるなんて、新しい王様もひどいもんだね。ルーク様も殺した敵の王様の娘を嫁にして、どいつもこいつも王様なんて、ろくなもんじゃない。ましてこんな……まだ子供なのに……女の子に何かあったらどうするんだい……可哀想に……」

 その後も女は国王に対する不満と少女に対する心配を言い続けたが、不意にぴたりと止まった。

「え、あんた、大丈夫かい? やっぱり辛いんじゃないか?」

「……、いえ……、大丈夫、です」

 嗚咽混じりの震える声が、女の心配を否定する。

「そんなこと言ったって、ああ、そんなに泣いたら可愛い顔が台無しじゃないか」

「泣いて、なんか……泣いてなん、か」

 ルティナの声はそこで途切れた。

「可哀想にねえ、こんな……小さいのに……」

 女の声に少女は反論することもなく、ただしゃくり上げるだけだった。


 少女がすすり泣くのを背に、ラスフィールは音も立てずその場を後にした。

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