第7話
久々の清々しい朝の目覚めに、リグルはベッドから降りて窓を開けた。
エリスが盲目のエルフと共に修行に出てからちょうど半年。エルフは半年が限度だと言っていた。ならばあの几帳面なエルフのことだ、半年きっかりで帰ってくるに違いないとリグルは何の根拠もなく確信していた。多分時間も正確なはずだ。昼食後くらいには戻ってくるだろう。
いつも通りの、しかしいつもより軽やかな気持ちで朝食を終えると、やはりいつも通りに馬の世話をして、井戸から水を汲んだ。何となく浮き立っていたのか、
「おう、今日はやけにご機嫌じゃねえか。あー、そろそろエリスが帰ってくる頃か?」
昼食時にガゼルがにやにやしながら声をかけてきた。
「うん、今日でちょうど半年なんだ。これから様子を見に行ってくるよ。一応夕方まで待ってみるから、午後は手伝えない」
「おうおう、いいぜ気にすんなよ。今日帰って来るといいな。半年振りか~楽しみだなあ、おい」
食器を片付けようとしたリグルの手を止めて、ガゼルが今にも踊り出しそうな足取りで食器を厨房に運んでいく。
エリスが帰ってきたらガゼルに絡まれそうだなと苦笑しながら、リグルは席を立った。荷物も特になく、ふらりと散歩にでも行くかのように宿屋を後にして森の奥へと向かう。
慌てても仕方ないと分かっているのに足が勝手に先を急ぐ。洞窟の前、いつもエリスを迎えに行っていた──そしてあの日、突然彼女が姿を消したその場所で足を止めた。
半年前のあの日とほぼ同じ時間。空は青く、風のない森は静まりかえっている。
エリスが消えた時に立っていた場所に立ち、リグルはすぅと息を吸った。肺に溜めて、目を閉じる。
しばらくして不意に不自然な風がそよと吹き、からかうようにリグルの頬をなでた。誘われるようにリグルは目を開いて息を吐いた。
すぐ目の前に、見慣れた──懐かしい金色の輝きがあった。よく見ればやや乱れてはいるものの、太陽を浴びてきらきらと輝く金色の髪は眩しいほどに美しかった。
「おかえり、エリス」
「──えっ。えっ? リグルさん?」
あの日消えたままのエリスがそこにいた。半年振りだというのに髪の長さが変わることもなく、ただ重労働の後のように疲弊した顔に戸惑いの表情を浮かべていた。
「お疲れ様。会いたかった」
言葉が見つからず立ち尽くすエリスを、リグルは存在を確かめるように抱きしめた。
「……おかえり」
「えっ、待って、私今きっと汗臭いから……」
ぎゅうと力を込められて、エリスが顔を赤くして後ずさりする。
「よく戻る時間が分かったな?」
やはりあの日消えたままの姿で現れた盲目のエルフは、顔色ひとつ変えずにリグルに声をかけた。幾許かの沈黙の後、リグルはエリスを解放してエルフに向き直った。
「あなたのことだからね。半年程度と言いながら、多分半年きっかりで、半年前と同じ時間に戻ってくるだろうと思ったんだよ。結果はほら、予想通り」
「そうか。限られた時間の中で、エリスに教えられるだけのことを教えた。後はエリスの努力次第だ」
「ありがとうございます!」
エリスが深々と頭を下げると、盲目のエルフが歩み寄って深く下げられたままのエリスの頭を優しくなでた。
「私からはもうお前に教えられることはない。だがもし修行の相手が必要な時はいつでも相手になろう」
思いがけない優しい声に、頭を下げたままのエリスの肩が震え、
「……っ、ありがとう……ございます……」
声が震えていた。
「よく頑張ったな。向こうとこちらでは時間の感覚が異なる。今日一日は感覚が混乱するだろう。今夜は早めに休むといい」
ようやく顔を上げたエリスの目尻が潤んでいる。それでもそこから涙が溢れることはなく、踵を返して洞窟へと歩き出したエルフの背中を見送っていた。
やがてエルフが洞窟へと消えてしまうと、エリスはすぐ隣に立つリグルを見上げ、
「……ただいま。迎えに来てくれてありがとう」
「おかえり。早く帰ろう」
差し出されたリグルの手を、そっと握った。
村に戻るとガゼルは宿屋の前で作業をしているところだった。樽や積んだ木箱の上に大きな板を渡して簡易的なテーブルをいくつも作り、椅子もそれに見合った木箱をひっくり返したものや木材を並べただけのもので高さも大きさもばらばらだ。
「ガゼル、急にどうした? 団体客でも来るのか?」
リグルの声にガゼルは手を止め、
「おう、エリス。久し振りだな。半年の修行はどうだった? 疲れてねえか?」
「あの、お風呂を借りたいんだけど……」
「お、じゃあすぐに用意するからさっさと入っちまえよ。今日はこれから大勢客が来るからな。風呂が汚れる前に入っちまいな」
「大勢?」
「お前が出て行った後に使いが来てな、久々に隊商が来るぜ。で、うちの食堂じゃあ入りきらねえから外で準備してるって訳だ。お前は会うの久し振りだろ?」
ああ、とリグルは頷いて、
「じゃあ俺が風呂の用意をするよ。エリスは部屋で少し休んでて」
準備ができたら呼びに行くからと足早に立ち去った。ひとり取り残されて立ち尽くすエリスを見てガゼルが苦笑する。
「エリス、部屋はそのまま取ってあるからよ。荷物もそのままだ。あいつは気が利かねえからよ、後で茶でも持って行くから部屋で休んでてくれよ」
久々に見る人懐っこいガゼルの笑顔につられてエリスも笑った。
「ありがとう、じゃあお言葉に甘えるわね」
エリスは足下に散乱している簡易テーブルの材料を避けながら宿屋に入り、食堂の奥の階段を上った。二階の奥の部屋の扉を開けると、そこには半年前の朝のまま──
(あれ?)
エリスの荷物の置き場所は変わっていない。ただ、その隣にある荷物は。
(これ、リグルさんの荷物じゃ?)
荷袋に見覚えがある。部屋は別々だったはずだが、と考えて、すぐに半年も部屋を空けておくのも勿体ないからリグルが代わりに使っていたのかと思い至る。
(あれ? でも私が帰ってきちゃったから、そうするとリグルさんの部屋って?)
そんなことを考えていると扉がノックされ、ガゼルがお茶を持って入ってきた。
「よう、半年の修行お疲れさん! まずは疲労回復のお茶でも飲んでゆっくりしてな」
ポットから小さめのカップに注がれた独特の香りのするお茶を受け取って、エリスは香りを確かめてから一口飲んだ。癖のある味だが嫌いではない。
「すまねえな。お前がいない間、リグルがここの部屋を使っててな。荷物はすぐにどけちまうから、エリスはそのままここを使っててくれよ」
「でも今日はお客さんが多いんでしょう? 空いてる部屋って……」
「ああ、隊商の連中は野宿だから気にすんなよ」
「野宿? 宿屋にいるのに?」
「まあ見てりゃ分かるって。それより聞いてくれよ、お前がいない間さあ、リグルの奴がすごい寂しそうな顔をしててよ、もうあいつのあんな顔初めて見たぜ? あああああ、本ッ当、お前に見せてやりてえ~~~」
それはもう楽しくて仕方ないとしか表現できないようなにやけ具合で、ガゼルがそれはそれは嬉しそうに全身でエリスに語る。
「あいつさあ~昔から何つうか、こう、表情が薄いっつうか何考えてるか分かんねえっつうか……エリスも一緒にいたらそう思わねえ?」
「え、あの……」
思い返せばリグルが激情に駆られる様子を、幼い頃からほとんど見たことがない。
「だからすげえ分かりづらいと思うけど、あいつ本当にエリスが帰ってくるのを楽しみにしてたんだぜ? 多分今日だっていつもと変わらねえフリするんだろうけど、内心めちゃくちゃ喜んでるからな。俺が保証するから! な!」
親指を立てていい笑顔を見せたガゼルの白い歯がきらりと光った。
ガゼルの勢いに押されてエリスが小さく吹き出すと、
「その笑顔、リグルにも見せてやってくれよ」
がははと笑ってガゼルが部屋を後にした。
静かになった部屋で温くなったカップのお茶を飲み干して、ポットからお茶を注ぐ。まだ温かいお茶は湯気を立てて、口元に近づけたエリスの頬をくすぐった。
エリスが風呂から出ると食堂のテーブルもほとんどが撤去されており、がらんとしたそこはやけに広く見えた。賑やかな声に誘われて外に出てみれば、不揃いなテーブルと椅子が並べられ、それらは隊商であろう人達に占拠されて──いるかと思いきや、何人かドワーフも紛れ込んでいた。酒を酌み交わし、その隙間を縫うようにガゼルが大皿に盛った料理をテーブルに並べていく。
「エリス! こっち」
呆気に取られていると、すでに隊商の誰かと酒を飲んでいるリグルが手を上げてエリスを招き寄せた。すぐ隣の椅子を示されそこに座ると、ガゼルがするりとコップを置く。
「酒とジュースとどっちがいい? 何なら甘い果実酒もあるぜ」
「え……じゃあ、果実酒をお願いできる?」
「よし、ちょっと待ってな」
コップに赤い果実酒を注ぐと、ガゼルはいくつかエリスの前に料理を小分けした皿を並べ、たくさん食べてくれよと笑いながら宿屋に戻っていった。すぐに次の料理を作りに行ったのだろう。
「エリスと一緒に酒を飲むのは初めてだね」
「うん、私もお酒を飲むのは久し振り」
ひとくち飲んだ果実酒は甘酸っぱくて口当たりがいい。
「飲み過ぎないように気を付けて」
「うん」
すでに何杯か飲んでいるのか、リグルはいつになく上機嫌で口元が緩んでいた。
ガゼルが運んでくれた料理を味わいながら食べていると、隊商の人達が代わる代わるやってきては冷やかしながらエリスを紹介してくれと絡み、それをリグルが軽く躱しながら幼馴染だと紹介する。エリスを食べることに専念させようと会話はリグルがすべて応えていた。エリスはその意図を汲んで、軽く会釈をしつつもなるべく食べることに集中した。
会話を聞きながら、食事をしながら、時々果実酒を飲みながら。
エリスはリグルとの距離感がいつもと違うような気がしていた。
食事をしている人数に対してテーブルの数が少ないのだから椅子と椅子の間隔は当然狭くなるのだが、なんとなく──リグルとの椅子の距離がやけに近い気がする。隣の席に座ってからというもの、ずっとどこかしらリグルと触れ合っている気がするのだ。気のせいかどうか確認しようとそちらに意識を向けてみれば、足なり腕なり、触れていたり触れそうで触れない距離だったり。
(リグルさん、酔ってるのかな……)
修行のために半年間離れていたと言っても、こちらと向こうでは時間の流れが違う。エリスの感覚では数日程度だ。もちろんひどく濃縮された数日であり、剣術、魔術、両方を組み合わせた戦闘術、ありとあらゆるものを習得するために必死で意識をリグルに向ける時間すらなかったのだが、もし──ガゼルが言うように、リグルがエリスと離ればなれになって寂しいと思ってくれていたのだとしたら。
(だとしたら、ちょっと嬉しいかも)
テーブルの下でそっと膝を傾けて、リグルの膝に触れた。触れ合った膝は離れることなく、寄り添ったままだ。
人の波が途切れ、ふとテーブルの周囲が静かになった。
エリスが顔を上げると、そこにはいつものリグルの笑顔があった。
「ちゃんと食べた?」
「うん」
「よかった、何か飲む? 持ってこようか」
「ううん……」
きゅうとリグルの袖を掴んで、甘えるようにエリスがリグルの肩にもたれかかる。
「エリス? 部屋に戻る?」
「んん……」
いつものリグルの笑顔を見たら急に安心したのか、一気に眠気が襲ってきた。身体を起こそうと思うよりも早く、意識は軽やかに飛んでいった。
「……エリス? 寝ちゃった?」
肩にもたれてうつむいているエリスの表情は見えないが、すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてきた。起こすのも気の毒なので、倒れ込んでしまわないようにそっと肩を抱き寄せる。
「おう、こちらが噂の彼女か? ……何だ、寝てるのか」
長身の髭を生やした男がリグルの向かいの席に腰を下ろした。手には酒をなみなみと注いだコップをふたつ持っている。
「カディールまでそういう……」
呆れたリグルがため息をつくよりも早くカディールはコップをひとつ差し出した。
「久し振りだなリグル、まずは再会の乾杯だ」
カディールは隊商の長だ。細身だがよく鍛えられており、並の盗賊であればひとりで蹴散らしてしまう。隊商はドワーフの作る精密な細工物を仕入れに度々この森を訪れており、リグルが子供の頃からの顔見知りである。以前はジルベールも訪れており、リグルの父ウュリアとも既知の間柄だった。
リグルもコップを手に取り、エリスを起こさないよう小さく乾杯する。ひとくち飲んだ酒の強さに渋い顔をしてリグルがコップを置くと、
「ガゼルに聞いたぞ。──大変だったな」
神妙な面持ちでカディールが呟いた。
「またいつかウュリアと飲むのを楽しみにしてたんだがな……」
ぐいと強い酒を喉の奥へと流し込むと、カディールはコップを置いてテーブルの上で指を組んだ。
「ジルベールに何が起きたんだ。お前は何を見た。詳しく聞かせてくれ」
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