浄夜

朝飯抜太郎

浄夜

第1話 アイドルはうんこをしない

 その夜は、旧年でも新年でもない、隔絶された時間の狭間であるという。

 私達はその時間だけ、アイドルであることから断絶される。

 アイドルであるためだけに生きている私達は、アイドルでなくなったとしても、普通の女の子には戻れない。アイドルでもなく、普通の女の子でもない、中途半端な私達を一言で表すならば、「怪物」こそ、ふさわしいだろう。

 古今東西、「怪物」の末路は限られている。星の無い夜に暗闇に向かってむせび泣くか、それとも、勇者によって退治されるか。

 私はどちらも選びたくはない。



 目が覚めたとき、いつも、一瞬どこにいるかわからなくなる。この窓のないアイドル専用特別車は特にそうだ。私はぴんと背筋を伸ばしたまま、わけのわからない焦燥感に衝かれて、慌てて辺りを見回す。

「起きた?」

 隣の寺山さんの優しい微笑みに、私の緊張は解け、再び座席に沈み込む。寺山さんは、ノートパソコンに視線をもどす。多分、私が眠る前からずっと、寺山さんは、座席の前にある小さな台の上に置かれたノートパソコンに向かっている。ずっと一緒にいるはずだから丸一日くらい同じ服を着ている……ハズなのにスーツは折れ目一つなくビシッと決まっている。銀縁の眼鏡も曇りなく、見ていると惚れ惚れするほど美しい。そんな彼女がマネージャーとして側にいるのは嬉しいようで、何だか自分の方がアイドルであるのが申し訳ないような気持ちになる。

「ぐっすり寝てたわね」

「何時間くらい寝てたのかな」

「二時間くらいじゃない?」

 そんなものか。じゃあ、あと三時間はある。寺山さんが差し出してくれたペットボトルの水を少し飲んで、私はもう一度眠ろうと目を瞑る。でも、目が覚めてしまって眠れない。仕方なく目を開けて、寺山さんと逆の方向を見るが、そこには壁があるだけだ。窓くらいつけたらいいのに。

「秘密の行軍だからね。今日は」

「え?」

「窓くらいつけたらいいのに、って思ってなかった?」

 寺山さんはこちらを見てもいない。エスパーかこの人は。まあ、毎年おんなじことを言っているような気もする。

「つかないんですか?」

「つかないねー」

 月面に基地ができて、人工臓器で人がさらに死にくくなったというのに、まだアイドルはファンから隠れて移動しなけれならない。ファンの人たちの熱意や技術力も年々上がってきているからだ。ある準アイドル級の子が人工衛星まで使って隠し撮りされて、デビューからの数年をドキュメンタリー映画のように編集されていたことや、アイドルの出すゴミを全て回収して、オークションにかけるような人もいた。どれもクローズドSNSなどで公開されていたり、非公式ファンクラブの中だけだったので、大きな問題にはならなかったけど、恐ろしい話だ。でももっと恐ろしいのは、そのニュースを見た社長が「愛されてるなー……」とうらやましそうだったことだ。かくいう私も感覚が麻痺してきているのか危機感は少ない。私の所属する事務所が、A級アイドルを十人以上擁する、それなりに大きいところで、今のところ完璧に守ってくれているからだ。

 今日は、一年に一度の秘密の行軍。今日だけは誰にも見つかってはいけない。この車は外からは長距離トラックに見えるように偽装されている、というかトラックが積んでいるコンテナの中に私と寺山さんが乗っている。私と寺山さんだけでコンテナはいっぱいだ。

 仕方がないので、私の唯一のシングル「GariGariだってShowが好き!」を口ずさみながら、柔らかい上等なファーのような壁を触って楽しむ。毛の向きをそろえて絵を描いていると、寺山さんが私の方に体を寄せて言った。

「暇みたいね」

「暇です」

「そうよねえ」

「寺山さんは忙しそうですね」

 寺山さんは芝居がかったため息をつき、

「忙しいわよー。マネージャーってね、スケジュール管理とかアイドルの体調管理だけじゃなくて、企画に営業、アイドルの窓口を務めつつ、ボディーガードまでするの。それなのに事務所の雑用まで押しつけようとするのよ、あの業突爺は」

「社長のこと? ごうつくじじいって?」

「非常に欲の深いご老人」

「あはは。そんな感じ」

 私と寺山さんは笑う。寺山さんは私の肩に手を回し、顔を近づけて言った。

「でも、さくらちゃんの専属になって良かったよー。さくらちゃんは良い子だし」

「ありがとうございます。私も寺山さんで良かったです」

 寺山さんは優しい。それが仕事だとわかっていても、私を嬉しくさせてくれる。今だって、私を気遣ってくれる。

「大丈夫?」

「はい。もう五年目ですから」

「そうかー。さくらちゃんも立派なアイドルだもんね」

「はい」

 私がアイドルになって五回目の大晦日。私、紅ショウガ大好きアイドル・来陽くるひさくらが十五才でデビューして、五回目のトイレの時間。



 アイドルはうんこをしない。

 これが、アイドルとファンの、いやアイドルという存在であり続けるための唯一絶対のルール……らしい。ファンの人達がそれを本気で信じているのかは大きな疑問だけれど、「そう思わせるような存在こそがアイドルなんだ」と社長に諭されると、そうかもしれないと思ってしまう。そして、確かにそんなアイドルを私は知っている。

 日本固有のアイドル文化が始まって五十年以上経つ。清純派歌手がアイドルと呼ばれるようになり、今では第一次アイドルブームと呼ばれる時代に、理想の女の子としての崇拝が始まった。そして第二次アイドルブームでは、アイドルが多様化し、バラドルやグラドルなどの言葉が生まれ、それぞれの特技を生かしたジャンルによる棲み分けが行われた。第三次アイドルブームで、彼女にしたい女の子としてのアイドルという方向性が再認識され、多様なニーズに答えるための選択肢として、アイドルはグループが基本形となる。第四次ではその数はさらに増え、突出した個ではなく、全体で一つのアイドルとして機能するようになる。これら群体アイドルはより多くのファンを獲得することに成功するが、このアイドルバブルはやがて弾け、反動として急激な寒波を生み、その次の第五次アイドルブームまで長い時を必要とする。

 そして、私達は、第四次アイドルブームの終わりに生まれ、第五次アイドルブームの最中に少女になった。そして、今は次世代アイドルの一人として、芸能界にいる。そこは、私が思うよりも深く、壮絶な場所だった。芸能界のその奥の奥、そこにはアイドルの聖域があった。連綿と続くアイドル信仰の継承者達の居場所が。そして彼らは力を持っていた。

 アイドルはうんこをしない、その暗黙のルールを守る為に、私達は人体改造を受け、肛門には穴詰石という栓がされている。それではうんこはどこに行くのかというと、外付けされたタンクにためられる。私達の腰と背中から何本もチューブが伸びていて、それがタンクに繋がっている。おしりから出さなければセーフとかそういう話ではなく、このタンクとチューブは私の身体の一部なんだそうだ。タンクは中に入っている気体により、風船のように浮いている。また最新の光学迷彩により透明化しているので簡単には見つからない。私はそれを浮かべたまま番組に出てトークをしたり歌を歌う。視聴者にはもちろん知らされていないし、番組スタッフも知っているのはごく一部だけだ。

 うんこやおしっこは水分を飛ばし容積をなるべく減らした状態でタンクにためられていく。それでも限界はあって、一年でタンクは相当な大きさになる。どんどん大きくなるタンクが怖くなって破れたりしないか聞いてみると、理論上は東京ドームくらいは大きくなるという。

 あまり大きくなれば仕事に差し支えてしまうし、バレる可能性も大きくなる。だから、一年に一回、タンクの中身を取り出す日がある。それが大晦日の夜だ。何でも、仏教のある宗派では、大晦日の夜というのはその年に含まれておらず、また新年でもないことになっているという。これは太陽が沈んだ時が一日の終わりという昔の考え方による。つまり、太陽が沈んでから深夜零時までの時間は、時間の狭間、存在するけどしない、虚数のような時間になる。その時間だけ、私達はアイドルであってアイドルでない。だから、私達のうんこはカウントされない。何度聞いても、私には意味がわからないけれど、そのシステムの下で、私はアイドルとして過去四回のうんこをした。お産と比べるのは間違っている(私はうんこに愛情が持てない)と思うけれど、状況としては似ている。一年でたまったものを一度に出すのだ。それは苦しいなんてもんじゃない。

 

 でも、寺山さんは、優しい。社長も、その他の事務所の人達も、みんないい人だ。私を大事にしてくれる。寺山さんは、今日の儀式のことを慮って、私を気遣ってくれている。忙しいのに、私の話に付き合ってくれたりする。でも、今日の私の心配事は、これから行う儀式のことではなかった。こんな気持ちになったのは、アイドルになって五年目で初めてのことだった。アイドルとしての人気がやっと定着し、事務所が私にかけたお金を取り返しかけている今だから、ほっとしたのかもしれない。もしかしたら五月病のように、時期的なものなのかもしれない。そんな風に客観的に考えようとしても、一つの疑問が頭を離れない。それは余りにも、今さらで、根源的で、それ故に誤魔化せない。


 私は、どうしてアイドルになったのだろう?

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