第49話 どうせつくなら、美しい嘘を。

 何かを考えるように固まっていた伊織が、ふと体を捻って背中を向けた。

 小さく息を吸って、吐く。


「あんなのは、ただの戯言です」


 その瞬間、伊織の白い肌から一斉に若い芽が吹き出した。

 ざわ、ざわ、と葉擦れの音さえ聞こえそうなほど、みるみるうちに全身からいくつもの若芽が頭をもたげる。

 八年、いや十年の長きにわたり押さえ込まれていた芽吹きが、圧倒的な勢いを持って伊織を侵食しようとしていた。

 違和感に耐えられないのか伊織が身をよじって呻く。

 にょきにょきと伸びていく嘘花に圧倒されながら、ああなんて酷い質問をしたのだろう、と龍生は自分を責めた。

 俺はずるい。

 どうリアクションしても真実が暴かれる質問をして、挙句嘘をつかせてしまった。

 伊織はきっと賭けたのだ。一つ二つの発芽なら、隠し通すことができるかもしれないと踏んで。

 それは龍生に背負わせないための、嘘だ。


 ──どうせつくなら、美しい嘘を。


 ロマンチストだとからかったいつぞやの記憶が蘇る。

 あの時の言葉通り、十年も封じてきた嘘を、伊織は龍生のために使ったのだ。

 がちゃ、とドアの開く音がして我に返る。助手席のドアを押し開いた伊織が外に出ようとしていた。


「志摩さん! 志摩さん、待ってくれ!」


 慌てて腕を掴むと、服の下で若芽がくしゃりと潰れる感触がした。

 振り返らずに、伊織が懇願する。


「お願いです、御堂さん。何も言わないで、私の耳に何も入れないでください。仕事は辞めます。住む場所も変えます。御堂さんが望むなら、警察でも、保健所でも、葬儀屋でもどこへでも行きます。でも今はだめです。私がちゃんと御堂さんから離れるまでは、私に身の危険を感じさせてはいけません」


 龍生の手を振り払って、伊織が外に踏み出す。その肩を必死に捕まえると、龍生は両腕の中に伊織を閉じ込めて車の中に引き戻した。


「俺が君を守る。約束する」


 頭で考えるより早く、感情に突き動かされて、誓う。


「俺は卑怯だ。八年前君を救えるはずの大人だったのに、見て見ぬふりをした。大人になっても守られるばかりで、君に何もしてやれなかった」


「そんなことは」


 反射的に抗議しようとした伊織が龍生を見上げる。その頬から皮膚を破って細い芽が突き出しているのが痛ましかった。


「俺に愛想を尽かせてもいい。俺を嘘花にしてもいいよ、志摩さん。だから逃げないで」


 頭の方が追いついてきても、龍生は自分の決断が間違いだとは思わなかった。


「君が生きていて嬉しい。俺をずっと思っていてくれて嬉しい。おかしいだろ。俺は君が自分の家に火をつけたと聞いても、真木を唆したと聞いても、それを酷いとは、どうしても思えないんだ」


 それは、と伊織が言葉をつまらせる。


「──それはきっと、思い違いです。御堂さんはもう、私という嘘花に洗脳されてしまったのでは」


「どっちでもいいよ、そんなことは」


 洗脳されているとかいないとか、そんなことは龍生にとってどうでもよかった。

 体を突き動かす情熱がまだ死んでいなかったのか、と。そっちの方が重要なことだった。


「君に優しくしたい。君が喜ぶ顔が見たい。ひとりぼっちで傷つかなくてもいいように、そばにいてやりたい。俺のわがままだよ、志摩さん。俺のエゴだ。だから許して」


 自分のためにすることだから、君が背負うことはないのだと説得する。

 腕の中で、伊織の薄い体がおののくように震えた。

 日野教授は、と龍生は思う。

 おそらく彼は、寄生源の感情が寄生回避のキーになると気がついたのだろう。

 従姉の思慕が自分を守っている。そのことを知って、うろたえた。

 寄生を回避するため、寄生源の好意や信頼を利用しろと論じるのはあまりに非道だ。

 嘘花が人間ではないとはいえ、従姉は教授にとって大切な人だったというから、気持ちを割り切ることは難しかったのだどう。

 ともすると、従姉に向ける好意さえ、返報性を利用した感情ではないかと思い悩んだのかもしれない。

 洗脳されているのか、しているのか。

 愛した人を前に悩み続けて……人生の舞台を降りたのだ。

 追い詰められた学者に比べて、龍生の思考はシンプルだった。

 あの日、名前を呼んで、愛していると言ってくれた伊織に応えたい。

 長い間、中途半端な自分の優しさだけを心の支えに生きてきた、いじらしい彼女を守りたい。

 そして明日香に対して差し伸べられなかった手を、伊織に向かって差し伸べたい。

 そのためなら伊織を連れて逃げてもいいと、そこまで考えて初めて、龍生は敦に共感を覚えた。


「どうしよう」


 腕の中で伊織が呟く。


「どうしよう、幸せになってしまう」


 そうして震えながら嗚咽した。

 小さく、小さく泣きじゃくる伊織を強く抱きしめて、龍生は懇願した。


「幸せになってくれ」


 束の間でも、仮初でもいいから、穏やかな時間を彼女に。

 クライマックスを迎えた花火が次々と打ち上がる音を遠くに聞きながら、しばらく二人で溶けていくような時間に身を委ねた。

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