第45話 あの日のあの櫛

 呟きは悲痛な叫びに似た痛みを伴って龍生の心を突き刺した。

 保健所がやってきて、特事課がやってきて、家族とは違う生き物だったはずの伊織をただの人間に戻してしまったのだ。

 嘘花による寄生だという真実は、伊織を深く傷つけた。


「嘘花に寄生されて初めて、家族は私を意識の中に入れたように思います。甘い言葉ですり寄って、哀れを誘って、管理者にまつりあげる。そういうのはやはり、母が得意だったように思います。かたや、不幸な人生を呪って、一人だけ症状の出ない私を口汚く罵しりもしました。お前なんか家族じゃない、と言ったその口で、あなたが一番の頼り、と甘える。どちらを口にしても発芽しない母は、腐っても役者だったのでしょう。父や妹たちにはできない芸当でした」


 唇を舐めて、伊織が続ける。


「話のすり替えも母が得意なことでした。こうして振り返ってみると、器用な人だったと思います。ただ、感情的になりやすい人でもあったので、勢いでついてしまう嘘や意識せずに口走ってしまう嘘が細かく積み上がって、結局進行を食い止めることはできませんでした」


 彼らの口にする甘言は自己保身のための手段で、愛ではない。

 そのことがより一層虚しさを誘って、龍生はやるせない思いを抱えた。


「私にとって、その頃が一番人に注目される時期だったと思います。保健所の人、特事課の人、児相の人。いろんな人が入れ替わり立ち代わり私の前にやってきてたくさんの質問をしていきました。学校では今まで話したこともないようなクラスメイトに家族のことを聞かれたり、教師に様子伺いをされたり……とにかくいろんな人が私を喋らせようとしました。まだ嘘の回避方法にも気づいていない頃のことです。人との会話は私にとって死に近づく恐ろしいものでした。登校をやめ、質問にはできるだけ無言を通し、そうして凌いでいた頃に、御堂さんに会いました」


 覚えていますか、と伊織が尋ねる。


「櫛を手にこっちにおいでと私を呼んだ御堂さんは、こうして膝の上を叩いたんです」


 ぽんぽん、と太腿の辺りを叩いて見せて、伊織が龍生の反応を伺った。


「嘘だろ」


「本当ですよ」


「…………うわあ。だとしたら無意識だ。ごめん。年頃の娘さんに対してデリカシーがなさすぎました」


「ふふ」


 珍しく声を立てて伊織が笑った。


「御堂さんには私が小学生くらいの、小さな女の子に見えていたんでしょう」


 見えていた。

 いやその時にはもう十四歳だと知っていたはずだが、それでもずっと子どもに見えていたのだ。

 きっとそういう認識が態度に出たのだろう。


「例え君が本当に小学生だったとしても、膝に呼ぶのは色々まずかった。忘れてくれ」


「私は嬉しかったですよ」


 さらりと返して、伊織が大切なものを抱えるようにほんの少し俯いた。


「家でも、幼稚園でも、大人の膝は誰かのものでした。私を呼ぶ人はいなかったし、乗っている子を押しのけて膝をねだる勇気もありません。だから御堂さんが呼んでくれた時、嘘みたいに嬉しかったんです」


 はにかむ表情に胸が締め付けられる。

 そんな些細なことを今の今まで大切に心にしまっていたのかと思うと、いじらしくて、可哀想で、切なかった。


「まあ実際、サイズ的にも膝に乗るのは現実的ではなかったので膝の間に座ったような気がしますが」


「こっちはそこで驚いた記憶しか残ってないぞ。都合の良いものだな」


「記憶なんて、曖昧だからこそ持ち続けていられるのかもしれません。あの日櫛を通してもらったことだって、私にとって都合のいいように解釈しているのかもしれないし」


 もっともらしく言ってから、伊織がぽつぽつ付け足した。


「それでも……あんな風にそっと、大切なものを扱うように触れてもらうのは初めてで、お腹の辺りがぽかぽかしたのを覚えています。まるで自分が、何かすごく価値のあるもののように思えて。──笑わないでください。私にとっては、あの日のことはそれからずっと心の支えになったんですから」


「笑わないよ」


 笑わない。笑えなかった。

 伊織の言葉が本当なら、彼女は後にも先にもそんな風に誰かに大事にしてもらった覚えがないのだ。

 一時的な心地よさや幸福感さえ、感じたことがなかったに違いない。

 はあ、と息をついて、龍生は片手で顔を覆った。

 櫛くらい、何度でも通してやればよかった。

 彼女にとってそれほど意味のあることだったのなら、何度でも。

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